第二部 第三章「女王陛下と大怪盗」(6)
6
分不相応な暮らしをしていると思う。
旧イグニア市北部、現ベルゲングリューン市のベルゲングリューン城にしたって、リヒタルゼンのクラン城にしたって、今回の女王陛下の元御用邸にしたって、そうだ。
でも、こんなことを言うと怒られちゃいそうだけど、僕はそれほど住まいにこだわりはない。
快適なお風呂と、気持ちのいいベッド。
静かで、朝になると太陽のやわらかい日差しが入る寝室。
それさえあれば十分なのだ。
(この屋敷のベッドは合格だな、うん)
ふかふかのベッドなんだけど、決してやわらかすぎず、いい感じに身体が沈み込む。
おなかいっぱい
「ふざっけんじゃねぇえええええ!!!!」
「げふぅっ!!!!」
急に、みぞおちのあたりに衝撃が入って、僕は思わず飛び起きた。
「な、なに?!」
僕がお腹を押さえて身体を起こすと、僕の布団の上に、見たことがない少年がいた。
寝ている僕を見て腹が立ったのか、エルボードロップ、つまりジャンプして片
「お前だろ! ベルゲングリューン伯ってのは! そうに違いない! ふざけたツラしやがって……」
「ふざけたツラなら花京院とか他にいるだろ……」
ものすごく熟睡していたので、目をごしごしとこすりながら、僕は目の前の少年を見る。
仮面舞踏会で着用するような黒い蝶仮面に、水色のかわいらしいリボンの付いたシルクハットにタキシードに黒いマントという、むちゃくちゃな格好をしていた。
「そっちの服装のがふざけてない?」
「う、うるさい!! 私がこんな侮辱を受けたのはおまえが初めてだ!!」
「それはごめんね。子供はもう寝る時間だよ、おやすみ……」
僕はあくびをして、再び布団に潜り込んだ。
「こらっ!!! 寝るな!!!! 私は子供じゃない!!! お前と変わらない……って、信じられん……、本当に寝入ってるじゃないか……。どんだけ肝が太いんだ……」
朦朧とする意識の中で、少年のドン引きする声が聞こえた。
「だから、寝るなって言ってるだろ!!!!!」
「げふっ!!!!!」
布団の上からストンピング、つまり、足でお腹を踏みつけられて、僕は再び身体を起こした。
「なんなんだよ……」
「なんなんだよ、はこっちのセリフだ!! お前、これはなんだ!!」
蝶仮面の少年が、震える手で僕にカードを手渡した。
それは、昼間に大怪盗マテラッツィ・マッツォーネから届いた予告状のカードだ。
ただ、僕はその裏面に、花京院にお願いして、僕からのメッセージを書いていた。
どうぞ
このえはさしあげます
べるげんぐりゅより
ベルゲングリューンの「ーン」のところは、書き間違えたらしくぐちゃぐちゃに黒く塗りつぶしてある。
その横に、花京院お得意の「爆笑伯爵ベルゲンくん」がハナクソをほじって笑っている絵が書かれていた。
「お前……、怪盗をナメてるだろ……」
「いや、だから、絵はさしあげますって書いてあるでしょ。さっさと持っていって、もう寝かせてよ」
「ふ、ふざけるな!! お前、この絵がどれほどの価値のある作品かわかっているのか?!」
「知ってるけど、どうせエスパダ王家に返すつもりのものだから、持ってっちゃっていいよ」
「はぁぁぁ?!」
僕が目をこすりながらそう言うと、少年は蝶仮面ごしに目を丸くしてこちらを見た。
「王家に返すものなら、フツー、もっと必死に守ろうとするだろ!!!」
僕はすでに自由渡航権と通商権をもらって、お屋敷までいただいた。
これはあくまで海賊討伐の功績によってであって、この絵を返すのは僕のただの「お気持ち」にすぎない。
伝説の大怪盗に盗まれましたって言えば、エスパダ側も文句は言えないだろう。
……なぜなら、そんな大怪盗を野放しにしてしまっているのは彼らなのだから。
イシドラさんはめちゃくちゃ怒るだろうけど、大使なんだから、このぐらいの
そんなわけで、僕の大怪盗対策は「どうぞ、さしあげます」だったのだ。
予告状を出して、アヴァロニアの王族や大貴族、大商人の厳重な警戒をかいくぐって一度も捕まったことがないような伝説の怪盗に、なんで僕が他人の絵のために真面目に付き合わなくちゃならないんだ。アホか。
「とにかく、大怪盗だか排水溝だか
「……ぶっ殺す」
少年はそう言うと、腰から
……うーん、そう来たか……。
僕は布団に入った状態で、少年が上に乗っているので身動きが取れない。
しかも
これは、下手をしたら死んじゃうかもしれない。
「やれやれ、がっかりだな」
「何?」
「大怪盗マテラッツィ・マッツォーネって、もっと誇り高い泥棒だと思ったんだけどな。殺しまでやるなら、ただの薄汚い強盗じゃん」
「言いたいことはそれだけか……?」
少年のスモールソードが僕の喉元に突きつけられる。
一般的にスモールソードには刃がない。
刺突に特化した、決闘用の剣だ。
喉に突きつけられる恐怖は、
さっきまで激昂していたはずの少年の瞳からスッと光が消え、その剣先にはブレが一切なかった。
どうやら、相当の使い手らしい。
「君、若いよね。何代目のマテラッツィ・マッツォーネなの?」
「マテラッツィ・マッツォーネ三世だ!!!」
「……やれやれ。聞くに
「っ!? 何者だ!?」
突然背後から聞こえた声に、少年は驚いて振り返る。
「ふっ、不法侵入した人間のセリフとは思えんな」
……僕は、スモールソードを突きつけられた時に気付いていた。
まるで部屋の壁から出てきたように、音もなく部屋に入室してきた、燕尾服の男の姿を。
屈強な体格と、肩まで伸びた白髪に口ひげの、激シブの男。
……そう、レオさんだ。
「くっ!!! 護衛を忍ばせていたのか!!」
少年は機敏な動作でベッドの側面の壁に足をかけたかと思うと、なんと壁を走り、レオさんの背後に跳躍して、首に向かって鋭いスモールソードの一撃を突き出した。
(ルッ君やユキよりも早い!!!)
こいつ、思っていたより強い!!
レオさんは一切振り返らず、その場を微動だにしない。
いや、動けないのか?
「レオさん、よけて!!!」
少年のスモールソードが躊躇なくまっすぐに伸びて、レオさんの首を貫いた。
予想外の惨劇に、僕は思わず身体を起こす。
……だが、レオさんの身体から出血はない。
やがて剣先どころか、少年自身までもがレオさんの身体を通過した。
「ざ、残像?!」
なんと、レオさんは自らの姿そのままの残像を残し、後ろに回った少年のさらに真後ろから実体を現した。
(す、すげぇっ……)
「くっ!!!」
少年の反応速度も大したもので、振り向きざまにスモールソードでレオさんの顔に向けて薙ぎ払った。
「……残念だが、
レオさんは左手を自分の右頬の前に上げ、スモールソードを止めた。
驚くことに、レオさんはオールバックくんが愛用しているような黒革の手袋の指二本で、少年の剣撃を受け止めたのだ。
「なんだと……っ!?」
レオさんは左手でスモールソードを止めたまま、右手で左腰の鞘から自分の細剣を抜き放つ。
「あぐっ……!?」
「私の
レオさんの強烈な薙ぎ払いで、少年のタキシードがビリィィィ、と裂け、タキシードの中のブラウスと下着が露出する。
えっ、下着?
僕が驚くのと同時に、少年のシルクハットが床に落ちて、明るい
(女の子だったのか……)
緊迫した状況にもかかわらず、案外着痩せするタイプだな、とか考えてしまった。
「エスパダ・ロペラって、レイピアのこと?」
「ええ、ベルゲングリューン伯。我が国ではこう呼びます」
「その方がかっこいいかも」
「呑気に話してるんじゃねぇ!!!」
少女はポケットから丸い何かを取り出すと、レオさんの足元に投げつけた。
その瞬間、まばゆい閃光が室内を包む。
……目くらましか。
僕は水晶龍の盾を使い慣れているおかげで、直前に腕で目を隠して防ぐことができたけど、レオさんは……。
「死ねぇぇぇぇっ!!!」
レオさんに
レオさんは……、棒立ちの状態だ。
「甘い」
次の瞬間の光景を、僕は一瞬理解できなかった。
レオさんは視界が奪われたはずの状態から、少女の突きをかわすことなく、レイピア、いや、エスパダ・ロペラを正面から突き出したのだ。
だが、僕が驚いたのはそこではない。
シュッ、シュッ、シュパァァァァッ!!
「っ!!!!」
レオさんが放ったのは、まるで流星のように美しい三連撃……。
(流星剣?! ……メルの技だ!!!!)
初撃でリーチに勝るエスパダ・ロペラで少女の肩を貫いて動きを止め、二撃目で腕を刺して攻撃力を奪い、三撃目が突きから途中で軌道が変わって斬撃に変化して、少女のスモールソードの刀身を叩き折った。
「くっ!!!」
それでも少女はあきらめない。
少女は左手で肩を押さえながら刀身が半ばで折れたスモールソードをレオさんに投げつけ、それをレオさんが剣で弾き返している隙にレオさんの頭上高くに跳躍し、腰のベルトから投擲用ナイフを抜こうとして……。
「私の前で飛ぶのは、自殺行為だよ」
ザシュ――ッ!!!!
「なん……だと……」
次の瞬間、少女は空中で鮮血を噴き出して、地面にもんどり打った。
(な、なんだ、今の体術は……っ!!! 斬れた……?)
レオさんが放ったのは、蹴りのはずだった。
だが、垂直に飛び上がりながら半弧を描くように振り上げた右脚が、信じられないことに空中の少女を切り裂いたのだ。
(まるで刃……。
「だ、大丈夫かな……、生きてるかな……」
僕は地面に倒れ込んだ少女を見ながら言った。
さすが大怪盗を名乗るだけあって、恐ろしい手練れだった。
レオさんがいなければ、死んでいたかもしれない。
いや、死んでいたと思う。
「手加減はしました。おそらく、しばらくは起きられないでしょうが」
「……なめ……るな……」
少女はよろめきながら、猫のように後ろに飛び下がって、詠唱を始めた。
「もういいでしょ。降参したら」
なんで泥棒に入られただけのに、こんな状況になっているのか……。
「あやまれ」
「へ?」
「えっと、どちらかというと、あやまるのは君の方だと思うんだけど」
盗みに入っておいて、あやまれってむちゃくちゃじゃないか。
「お前はマテラッツィ・マッツォーネの名と誇りを汚した!!」
「そうかな」
「そうだろ!!! あんな……、あんなふざけた落書きしやがって……!! しかも、なにが『べるげんぐりゅ』だ!! 書くなら最後まで書けよ!!!」
少女が半泣きになりながら言った。
……それは花京院に言ってほしい。
「えーと、じゃあ、ごめんなさい」
「『じゃあ』ってなんだよ!! めんどくさいから終わらせようとしてるのが見え見えなんだよ!!」
「君って、本当にめんどくさいなぁ……」
「め、めんどくさい……? 怪盗なのに……、伝説の大怪盗が盗みに入ったのに……、うっ……うっ……」
「うわっ、ちょ、ちょっと、泣かなくても!!」
とうとう泣き出してしまった少女に、僕が助けを求めるように顔を上げると、レオさんがさっと顔をそらした。
「ぐすっ、大怪盗マテラッツィ・マッツォーネは……、エスパダ市民の希望なのに……、だから、私がその名を継いだのに……っ、うええええっ……」
「だから、絵を持って帰ればいいじゃん……。ベルゲングリューン伯から盗んだって言いふらしていいからさ……」
「お前の!! お前のそういうところが私の神経を逆撫でしているんだ!!!」
「め、めんどくさ……」
「あー!! また私のことをめんどくさいって言った!!!」
少女がさらに泣き出し始めた。
蝶仮面をつけて、胸元が破れたタキシード姿の少女を寝室でなだめているこの光景は、いったいなんなんだろうか。
「……この少女の処遇はどうされるのですか?」
「うーん、考え中」
レオさんの問いに、僕は答えた。
「警察に突き出すおつもりですか?」
「今一番考えているのは、レオさんのことを教えてあげるべきかどうか」
「……なるほど」
レオさんの「警察」という言葉に、少女はビクッと顔を上げた。
「こんなクソみたいなところで捕まってたまるか!!!」
さっきまで泣きじゃくっていたはずの少女は突然椅子を掴むと、寝室の窓に向かって投げつけた。
バリィィィンッ!!! と大きな音を立てて寝室の窓ガラスが割れるのと同時に、少女は僕が制止するよりも早く窓の外に飛び出した。
「おぼえてろよ!! ベルゲングリューン伯!! 次こそは必ず貴様の大切な何かを盗んでやるからな!!!」
……そんな捨て台詞を吐いて。
「……やれやれ」
「追わなくて、よろしいのですか?」
「うん」
僕はレオさんの方を向いてうなずいた。
「大怪盗だろうとなんだろうと、決して僕から逃げることはできない」
にっこり笑いながら、僕はレオさんに言った。
「たとえ貴方でもね。……マテラッツィ・マッツォーネさん」
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