火継の灰被り姫《シンデレラ》

白波ハクア

1. 火を纏う者


 首を絞められながら、他人事のように思う。


 ──ああ、失敗したな。と。


 どこかでこうなるのだろうとわかっていた。


 十八歳と三ヶ月。

 大人と認められる一歩手前の体は、すでに限界を迎えていた。


 紅黒く染まった右腕には幾重もの裂傷の跡が刻まれ、左腕は奇妙な方向に曲がったまま固まっている。呼吸という行為をする度に血液が口から溢れそうになり、体内では重い痛みが響き続き、精神をも汚染させる。


 今まで生きてきたのが奇跡と思える惨状だった。

 それでも、まだ少しは生きていられると思っていた。


 だが、その時は唐突に来てしまったのだ。





 その日は雨が激しく降る日だった。

 俺はぼろ切れのようになった体を引きずり、壁に背を当て、ゴミ溜めのように荒れ果てた部屋で何もせずにただ呆けていた。


 そこは我が家だった。

 ……いや、正確に言えば俺と俺の父親の、だ。


 誰の目にも止まらない街の隅にある崩れかけの建物。

 来る日も来る日も父親は帰って来ず、こんな体で金稼ぎもできない。なので、部屋の隅っこでジッとしていた。


 お腹が空けばほぼ腐りかけの食材をそのまま食べる。調理も何もしない。出来ない。食材庫と呼べるのか怪しい箱の中から、口だけを使って腐臭の漂う物を取り出す。


 今日も外には出られず、痛みに耐えながら無駄な時間を過ごし、痛みに耐えながら眠りに就く。そしてまた無駄な時間を過ごすのだろうと、その時は思っていた。


 ──その日は違った。


 何日も帰ってこなかった父親が、帰って来た。来てしまったのだ。

 父親は、俺なんて最初からいないと言うようにドカドカと歩き、乱暴に座る。


「ああ、くそっ! 今日も負けた! くそっ、あの野郎!」


 これは相当怒っている。話の内容を聞くに、何か賭け事でもして盛大に負けたのだろう。いつもそうだ。この人は盛大に負けた時に帰ってきて、自分でストレスを発散し、満足したら出て行く。


 内心溜め息をつく。


 その時の対処法は、決まっている。

 ただ何もせずにジッとしている。それだけだ。


 父親は苛々した様子で酒瓶を掴み、その中を────


「くそが!」


 すでに空になってしまっていた酒瓶を壁に投げつける。


 けたたましい音を立てて割れる瓶。その衝撃で壁の一部分が崩れ、砂埃が室内に侵入してきた。父親の機嫌はますます悪くなり、顔にいくつもの青筋を立てている。


「どいつもこいつも馬鹿にしやがって!」


 すでに寂しくなりかけている頭皮を掻き毟り、紙をぶちまける。こちらに一枚舞い込み、視線だけ動かして見る。それは競馬の情報が載っている情報誌の一部だった。


 ──やはり、賭け事だったか。


 予想のついていたことなので、すぐに興味を失い、視線を戻した。


 父親は机を『ダンッ!』と思い切り叩く。壊れかけだったテーブルは、その衝撃に耐えられずにメリメリと音を立てて崩れた。

 それが予想外だった父親は拳を振り下ろした状態で体勢を崩し、割れてせり上がったテーブルの端に顔面をぶつけた。


「っでぇ! ……ったく…………ああ? 何見てんだ、テメェ……」


 そのせいで苛々が頂点に達した男は、ちょうどいいところに玩具が落ちていたと、そこで初めて、俺を認識した。


 これはダメだ。

 そう思い、逃げようとした。


 だが、壊れた体と、大人の男性だ。

 当然逃げ切れるはずがなく、五秒も経たずに捕まってしまった。


「この野郎、また俺から逃げようとはいい度胸じゃねぇか。──ざけんじゃねぇぞ!」


「ぶ、──っ!」


 全力で振りかぶられた拳が、頬を打つ。

 白い物体が数個飛び散り、床に転がった。口の中から緩い液体が溢れ出して溺れそうになる。我慢できなくなってそれを吐き出すと、床が赤色に染まった。


「テメェさえいなければなぁ! 俺はもっと自由だったんだよ、くそっ!」


 俺は母親の面影にそっくりだった。

 母親はとても綺麗な人で、いつも笑顔を向けてくれた自慢の人だった。


 そんな母親は、お買い物に行くと家を出て──帰ってくることはなかった。


 それからというもの、父親は暴行を繰り返すようになった。自分を捨てた母親と、母親に似ている俺を重ね合わせて嬲ることで、日々のストレスを発散しているのだ。


「俺を捨てやがって、こんなゴミ以下のガキを置いて行きやがって……! くそが、くそが、クソがっ!」


 殴られ、蹴られ、床に叩きつけられる。

 何度も何度もそれが続き、意識は徐々に薄れていく。


「澄ました顔しやがって、ムカつくなぁ……なんか言えよ、おい!」


 髪を乱暴に掴まれ、壁に投げられる。肺の中の空気が強制的に出され、何度も咳き込んだ。自分の二倍はあるであろう腕が、俺の首を鷲掴みにする。痩せ細った体は、簡単に宙に浮いた。

 苦しさに足をジタバタさせても意味はなかった。挙句にはその抵抗が苛々を蓄積させ、首を掴む力が増す。太い指が食い込み、気道が潰される。


 苦しい。助けて。死にたくない。

 そんな助けに応えるものは、残念ながらこの場には居なかった。


 ──これはもう、ダメ、かな。

 ふと、他人事のようにそう思った。


 父親の目は理性を失ったように血走っている。


 おそらく、性懲りもなく賭け事に負けた衝動で薬を取り込んだのだろう。爪で奴の手を抉っても、痛覚すら忘れているのか、何の反応もない。これは本格的にダメだ。


 意識が遠のく。

 ……俺は、死ぬのか。


 すでに諦めていた俺は、抵抗する気力も失せていた。




 薄れゆく視界に──火が舞い上がった。


 どこまでも赤く、そしてどこまでも白い。悪鬼のような姿をした真っ白な化け物は、全てを燃やし尽くすかの如く揺らめく火を纏い、こちらを見下ろしている。


「なっ──!?」


 異常を察した父親は振り返り、ヘタリと地面に座り込んだ。

 腰を抜かしたようだ。情けない格好で、化け物から距離を取ろうと後ずさる。


「なんで、こんなところに『灰人』がいるんだよぉ!」



 ──灰人はいびと

 俺もその化け物のことは知っていた。


 曰く、終末を呼び起こす悪魔。

 曰く、火を求めて彷徨う亡者。

 曰く、人類の天敵。


 火の残り香から蘇った彼らは、火のあるべき場所を求め、大陸を渡り歩き、大陸全ての火を奪おうとその力を振るう。


 そんな化け物が今、目の前に立っていた。

 心臓を掴まれるような威圧感。足腰に力が入らない恐怖。


 今も我が家を燃やす紅蓮の火は────




「おい! クソガキ!」


 呆けていた時、突然胸ぐらを掴まれる。


「テメェが囮になれ! 俺の子供だろ。こん時くらい俺の役に立ちやがれ!」


 実の父親とは思えないような言葉を言われ、目を丸くさせた次の瞬間──俺は灰人へと投げつけられた。

 抵抗する暇もなくそれに衝突し、受け身を取れずに地面に落ちる。



「──っ、」


 顔を上げ、視線が合わさる。

 灰人は真っ直ぐに、こちらを見つめていた。


「ぁ、たす、け」


 手を伸ばし、助けを乞う。

 だが、父親はなぜか安堵の表情を浮かべていた。


「へへっ、悪く思うなよ……」


 父親は背を向け、崩れ落ちかけた壁を力任せに蹴り破った。

 奴は一度も振り返ることなく走り去り、その姿はついに見えなくなった。



 ──見捨てられた。



 俺はそれを悟り、絶望した。


 最後くらいは助けてもらえるかもと思った。今まで何度も虐待を受け続けていたが、それでも親子としての関係は続いていると思っていた。


 ……だが、あいつにとって俺は、息子は、ただの道具でしかなかった。



『哀れな小僧よな』


「っ、誰だ!?」


 知らない女性の声。

 それは後ろから聞こえ、振り向いた瞬間、視界は赤色に染まった。


 後から感じたのは、耐え難い熱。


 逃げようと必死に手足を動かし、身悶えたが、壊れかけだった俺の体はそれを許してくれなかった。



「…………あぁ……」


 もはや生き残る術はない。

 全てが手遅れだったと気づき、抵抗をやめた。


 どうせ死ぬ。早く殺してくれ。

 もうこれ以上、苦しい思いをするのは嫌だ。


 ……だから、早く殺してくれ。


 瞼を閉じる。

 真っ暗なはずの光景に、光が灯った。


 おとぎ話に出てくるような城の中だった。

 全てが白く朽ち果て、広い空間にただ一つ存在する玉座へと腰掛ける女性もまた、灰を被ったように真っ白だった。


 ──面白い。

 停止した世界で、彼女の口だけが動く。


 俺と女性の目が合い、瞬間──火が巻き起こる。


「き、み……は…………」


 そこで燃え尽きた。

 業火に身を包まれた俺は骨すらも残らず、ただの灰に散った。

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