遅番本気だせ!(島尾海)

第10話 好きな芸能人って誰ですか?

 まもなく自分の番だ。

 島尾海はウエストバッグからコンパクトミラーを取りだした。

髪が乱れていないかチェックしておかなくては。

髭の剃り残しはない。昨晩にコラーゲン入りのパックをしたおかげか、肌もぷるぷるしている。あごに吹き出物ができてしまっているのが気にかかった。

 万全のコンディションで迎えようとしていたっていうのに、なぜこんな事態になってしまったのか。きちんとした食事をするようしばらく気にしていたし、自重トレーニングにも精をだしてきた。

 この吹き出物は、あいつのせいだ。

同僚の吉行が一昨日、新発売のチョコを皆に振る舞った。

珍しかったものだから、ゲームをしながらなんとなしにつまんでしまったのがよくなかった。

いつもは「飲みにいく金もない」とかいうくせに、なんだったんだろう。

たまにしかない写メ会に合わせて、自分を仕上げてきたというのに、油断した。

 でも、アヤが気づいて「大丈夫?」なんて声をかけてくれるかもしれない。よく気がつく子なのだ。

 以前も島尾が着ていたTシャツの胸に小さくついていたブランドロゴに反応してくれた。シュプリームかっこいい、って。

 会場内の空気は淀んでいる。アイドルの握手会場は、はっきりいって、臭い。

 ただでさえ島尾の並んでいる列からはさまざまな匂いが混ざり合い、嗅覚が忙しい。

 島尾が並んでいる列の匂いは油ぎったものとは違う。オタクがほぼガチ恋だからだ。みんな見た目やエチケットに気を使っている。並んでいる全員が、アヤに認知してもらうために必死だった。

島尾の持っている折りたたみミラーには、すみっこぐらしのトカゲのシールがついている。

先日あったライブ配信で、アヤが「大好き」だといってから、島尾はグッズを見つけるたびに買ってしまう。

「綾推し」の連中はリュックにキーホルダーをぶら下げたり、Tシャツを着ていたりしている。会場を歩いているとき、同担だなとすぐに見分けがついた。列にもちらほら見かけた。

島尾の前にいるおっさんなんて、頭にぬいぐるみを載せている。話のとっかかりにするつもりなんだろう。なんといじましいことをしているんだ、と鼻で笑った。

アヤちゃんがお前みてーなおっさんなんぞ相手にするわけねーだろうが。だいたいなんだよ、さっきから小刻みに震えやがって。小動物か。いい年こいて、女の子に会うのに緊張しちゃってさ。

アヤがブログで書いていたではないか。

「何事にもどっしりと構えて、動じない人が好き」と。

 吹き出物もそうだけれど、手がかさついていることも気になる。握手をしたときにアヤが気にしてしまったらどうしよう。

 自分の不摂生をネタになんてしたくない。逢瀬の時間は十秒程度しかないんだから。

 ここしばらく返品作業が多くて、手がガサガサになっていた。段ボールは皮膚の水分を奪う。ハンドクリームをこまめに塗っても、追いつかない。


「返品、お願いできませんかね」

昨日、庄野に頼むと、面倒そうに、

「なんで?」と訊き返してきた。

「手が荒れちゃって」

 そういって照れ笑いを浮かべる島尾の顔を、まったく見ちゃいないような目で、庄野は眺めた。

「僕の方が荒れてる」

 島尾の顔の前で手を広げて見せた。

 そりゃあんたはそうだろうけどさ! 働き者のいい手でらっしゃいますけど!

 本当にあの人には優しさや、人の気持ちを察するなんて気遣いのかけらもない。

レジで暇になるたびに、

「実は今月末、推しのアイドルと写メするんですよ」と庄野に仄めかしてきた。そのたびに庄野は、

「ふーん」と興味のない顔をした。

「庄野さん好きな芸能人とかいないんですか?」

 いちおう訊いてみた。樋口一葉とかいいだしたらどうしよう、と一瞬思った。

 庄野は黙りこくった。くだらないこといってんじゃねえ、ということだろうか。お客がレジにやってきたので、その話題は立ち消えとなった。

 閉店後、レジの金を数えているとき、突然、

「多部未華子さん」と庄野さんが島尾に向かっていった。

 真面目くさった顔をしている。

「は?」

 なにいってんだ突然。こちらは万札数え中だっていうのに。おかげで何枚だったか忘れてしまった。

「多部……さん?」

 庄野がふたたびいった。しかもなぜか疑問形だ。

「なんですかいきなり」

「好きな芸能人だけど」

 さっきの話から三時間が経過していた。どうやらずっと考えていたらしい。島尾は、

「そうですか」としか答えることができなかった。

「で、なぜ僕の好きな芸能人を知りたかった」

「……いや、ただの世間話です」

「真剣に考えて損した」

「なんか、すんません」

 島尾はいった。どうでもいいことでも、謝りたくもないのに謝ると、みぞおちがきゅっと締まる。

「芝居がいい」

 珍しく話し足りなかったらしい。庄野は続けた。

「ああ、そうですか」

 世間話が続いていることに、島尾は驚いた。

「前に舞台を観たんだけれど、とてもよかった」

「舞台」

 ほぼ三軒茶屋ですべての用事を済ませていそうな庄野の発言に、島尾は驚いた。

「舞台とか、観るんですね」

 庄野がよく、本を読んでいる姿を事務所で見かける。なにを読んでいるのか訊ねてみても、小難しそうなものばかりで、まったく興味を惹かれなかった。おすすめを聞いてみても、紹介された本を読んだことは、一度もない。

「まあ気になったものがあったら」

 話によると、たまに劇場に足を運ぶらしい。

「意外ですねー、庄野さん、小説しか興味がないと思ってました」

 庄野は謎である。

 まったく書店の連中と絡もうとしない。

 バカ話しかしない遅番連中など話が合わないと諦めているのかもしれない。女の園である朝番にも同様だろう。話すことでカロリーを消費するのすら嫌がっていそうだ。

たしかにこちら側からしても、干支が一回り以上離れている偏屈なおっさんと共通の話題なんてあるものかと思う。

「やっぱりあれですか、ライブ感というか、そういうのがいいんですかね」

 映画館でライブビューイングに参加するより、現地でコンサートに行くほうが、気持ちが盛りあがる。アヤに声援を送り、彼女の耳まで自分の声を届けたい。ステージと席がとんでもなく離れていたとしても、同じ場所にいれば、できる、かもしれない。

「別に、知り合いがちょっと関わってる芝居を観にいくだけだから」

 庄野が興味なさそうにいった。

「芸能関係に知り合いとかいるんですか?」

「芸能ってもんでもないけれど」

 これはすごい。ひょっとして……。

「あの、牧村綾って知ってますか?」

 島尾が前のめりになって訊ねた。

 庄野は島尾の勢いに、少し身体をひき、眉を寄せた。

「いや……、知らんし」

 島尾は庄野に熱弁した。

 小学生のときにキッズモデルをしていた彼女は、将来について悩んでいた。そんなとき彼女の心を癒やしていたのは、当時大人気だったアイドルグループだった。自分もこんな風に人を元気にさせたい、自分が元気になったように、という思いで、順調だったモデルの仕事も事務所も辞め、ダンスレッスンに励み、十六歳のとき、自分が憧れていたアイドルグループのオーディションに合格。握手会でも絶対にいやな顔をせず、疲れを見せないその根性が評価され、最近ではメディア選抜にも抜擢されるようになった。正直落ち目になりつつあるグループをなんとか盛りあげようと、SNSの投稿を欠かさず、順番制の公式ブログでは、必ず長文でパフォーマンスの改善点や、目標を綴っている。テレビで歌を披露するたびに、新規ファンを開拓している。去年映画に端役だが出演し、演技に興味を持つようになり、ゆくゆくは女優になりたい、という目標を掲げている。自分がいまもっとも推しているアイドルである、と。

「ふーん」

 最後まで聞いてくれてはいたものの、興味を抱かせることはできなかったらしい。どうせ、この人の興味なんて小難しい小説だろう。

「それで、その子がどうしたの」

「いや……だから応援したいんです」

「きみ……人のこと応援している暇があったら、自分のことなんとかしなさいよ」

 島尾は大学を留年してしまっていた。卒論は提出したものの、アルバイトと推し活によって、単位が足りなかった。

 庄野の言葉に返事をしなかった。というかいえなかった。「おまえがいうな」という言葉を。

 あんたのほうがやばいだろ。いい年こいてさびれた書店の一バイトだぞ。



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