3話:火薬の匂い

 朝食の匂いがケイジを起こした。食堂から遠い部屋を使っているので、普段ならば匂いは届かない。違和感に引かれて体を起こした。時計はまもなく十時になろうとしている。


 足元には、買ってきたばかりの荷物が袋のままで置かれていた。傍のメモに短く「身につけて」と書かれている。袋の中身は非常食と、折り畳みできるシリコンのコップと、水の中型ボトルが二本と、それらの下に見覚えあるマントがあった。ただの布に見えるが、触った感触は見た目に反して、ビニールシートのように角ばっている。持ち上げると両端からロープが垂れた。ただ結ぶと余りすぎる。理由はすぐに思い至った。前日に見たのと同じ、ハンモックとしても使うときだ。


 昨夜は年頃のケイジと同じ部屋で若い女が眠ったので、普段と違う匂いが混ざる。意識するほど寝付きにくくなる。だからケイジの起床が遅くなった。


 その時間でレタが買い出しを済まていた。肝心のレタは姿が見えない。荷物も痕跡もなくなっているが、確かに話をつけた。


 部屋を出る前に自分の荷物を確認した。服装よし。用意された袋をメッセンジャーバッグに収納よし。ちょうどいいタイミングでノックの音が転がり込み、一拍あけて扉が開いた。


「おはよう。食事を済ませたら出発するよ」


 部屋を一瞥してすぐに出発について話を始めた。手際よく配膳台を机の傍につけて、すぐ食べられる状態にした。その後、レタ自身は椅子を入り口近くに運んで座った。


「早めにね」


 ケイジが食べる時間を使い、スマホで何か入力したり、調べている様子だった。


 *


 街の外へ出る。塀で守られた範囲の外へ。


 ケイジには初めての経験だ。これまではバスで道中を守られていたが、今から長い道を自らの足で進む。道の雰囲気が違う。誰もいないのに誰かがいる気がする。風が吹けば木々を鳴らし続ける。動物の足音に囲まれている。ただの道がこうまで怖いとは知らなかった。喩えるならば風呂上がりに誰かが着替えを間違えて持っていってしまった日に似ている。


「歩く間は会話をしましょう。お互いに異常があったらすぐ気づけるようにね」


 レタの言葉が助け舟になった。ケイジは口下手なだけで、会話そのものは好んでいる。とはいえ、学校の女性陣にはやんわりと距離を取られるので、経験は男性同士の会話ばかりだ。普段通りでいいか、違うべきか。どんな話題にする、進め方は。何もかもが手探りになる。


「レタは、一人でやっているの?」


 無難な手として、相手に興味を持った質問をした。


「いいえ。もう一匹another one

「もう一人another one?」


 質問で話を進める場合の難点として、答えた時点で話が途切れたり、話をさせる一方になって負担を押し付ける結果になったりする。これを防ぐには、答えを取り込んで自分の話に持ち込んだ上で、続く話に相手も参加できるように整えるのが手だが、ケイジはそこまでの考えをまだ身につけていない。


 今回はレタが続きを提示した。質問の選びかたは見本を見せ続けていれば時期に覚える。


「この先の別れ道を、まず左に行くよ。山道だけど、もう一匹another oneを拾うだけですぐに戻る。経験は?」

「坂道なら何度かあるけど、登山は初めて」

「それなら、安心ね。大丈夫、深くまでは登らないから」


 レタに助けられて話を弾ませられた。レタは交渉の機会が多いので、相応に話術を鍛えられている。互いに関係ある内容を挙げて、自らの情報を開示しながら、少しずつ一つずつの小さな発見を積み重ねる。この話は当面のケイジの目標になった。


 件の分かれ道に着いた。バスは舗装された道をすぐに通りすぎるので、この道には気づかなかった。


 上り坂で足腰が疲れるよりも先に、植物が道を狭めていった。誰も通らない道を植物はすぐに占拠する。辛うじて動物の通り道らしき土色を辿る。


 心が先に疲れそうだ。誰かがいるなら呼べばいいのに、呼ばない。草木をかき分ける音を遠慮なく出しているので、自らの存在を隠してはいない。この情報を合わせると、もっと深くまでいく必要がある。


 ケイジの考えは、幸いにも間違いだった。


 レタがしゃがみ込んで、埋められた筒を引き抜く。手のひら大の円筒形を捻って、中から取り出したのは、肉の色をした棒状の固形物だ。


 同時に草むらが揺れる音が聞こえた。ケイジは未知への不安から、レタの顔を見た。表情を穏やかにして異常ではないと伝える。


 直後に、レタの足元に膝ほどの高さの影が駆け寄った。ケイジは叫びそうになるだけで咄嗟には声も出ない。見えるものを眺めるだけだ。


 今回はそれで正解だった。レタはしゃがんで犬に餌を与えた。背中にレタと同じようなマントを乗せて、側面では振り子状に揺れている。


「匂いを覚えさせるから、手を出して」


 ケイジは言われるままに右手を出した。その手首をレタが掴み、鼻の前まで運ぶ。犬の息が手の甲を撫でた。


「もう一匹another oneって、この犬が?」

「そう。キンイロジャッカルのササキ。こう見えて役に立つよ」


 ササキを拾ったらすぐに元の道を降りた。ケイジも知る道まで戻る。見えるものについて思い出しながら、まだまだ遠い街へと歩く。


 レタはその間に、枝を投げてはササキに拾わせる。運動不足の解消と同時に、どの方向へ向かうかを教えているのだ。


 ケイジも理解した頃、戻ったササキが、今度は枝を渡さずに背中を向けた。


「ケジ、止まって。静かに聞いてね」

 ササキを撫でながら言葉を続けた。

「この先に、銃を持った誰かがいる」


 緊張が走った。この状況で何をするか。まず情報の確認だ。


「どうしてわかるのさ」

「ササキが見つけた。犬の嗅覚は人間よりはるかに高いと、知っているでしょう」


 ケイジには一大事でも、レタは普段通りの落ち着いた声調で話す。レタの行動はすでに決まっている。だから落ち着ける。ならばケイジも決めた。今はレタを信じて指示に従う。


 縦一列になって歩いた。前後にそれぞれ身長分の距離を開ける。レタが先導して速度を管理し、次いでササキが、最後尾にケイジが。幸か不幸か道の左右は急な斜面になっている。逃げ道が無い反面、警戒先を正面だけに絞っていられる。


 レタは一応、斜面を覆う木の上にも意識を向ける。ケイジにも隠して無策に見せかける。とはいえ火薬の匂いがないならば、使える武器はおおよそ接近戦だ。道の中央付近を陣取っていれば、音を聞いてからでも間に合う。


 雪がもう少ない。歩いた距離を実感した。


 待ち伏せをする二人組を見つけた。風が吹いたときに、草むらの揺れかたが一部だけ違っていた。凝視すると人工物の輪郭が見える。この様子なら、相手は手練でもないチンピラだ。


 作戦を小声でケイジに伝える。距離は目算で二キロメートル弱だ。まだ向こうは隠れたままで、目の前に飛び出すつもりと想定した。


 拳銃がまともに当たるのは存外な近距離に限られる。弾はごく小さいので、狙いが僅かにでもずれたら空振りだ。加えて今回のように、隠れた状態から飛び出して撃つならば、体を移動する時間と狙いをつける時間の後でようやく一発目になる。有利なのは先に狙えるレタだ。


 この時代は弾の確保が困難になっている。暴動を恐れた富裕層の買い占めにより、どの弾も単価が高騰し、強盗が弾を使えば、成功しても損になるのは珍しくない。弾を確保するには大金をはたいて買うか、どうにかして拾ったり盗むしかない。一発も無駄にはできず、撃たずに脅しだけでの解決が望ましい。


「つまり、相手は不安定な手を使わない」


 レタは先んじて枝を投げて、ササキに飛び出させた。枝は看破した草むらの眼前にある木で跳ね返り、落ちた先は草むらからは遠い。片方を狙えばもう片方が留守になる。隠れたままで狙うには自ら選んだ障害物に阻まれる。


 隠れ場所を看破された者の行動は。


 どの出方にも合わせられるよう、レタは立ち止まり、マントの下で銃を抜いた。特殊なドラムと短い銃身の、リボルバー式の改造拳銃だ。


 胸の前に銃を持ち、膝を軽く曲げる。射撃でも各方向への移動でも、すぐに実行できる。なおかつ、その姿をマントで隠している。


 しばらくして、草むらから手のひらがゆっくりと伸びた。


「降参だ。ゆっくり出るから、撃たないでくれよ」


 手のひらを見せたままで、二人の男が順番に出てきた。


「あんた、運び屋ギルドだろう。襲おうとしたのは悪かった。最初に計画したときは気づいてなかったんだ。もし気づいてたら、こんなことしなかったさ」

「下手ね。銃の弾だけ置いて、背中を向けなさい」

「実は一発も入ってないんだ。信じてくれ」

「もう見つけてる。信じない」


 男たちは持っていないふりを続ける。ササキを見て理解しない以上、犬の嗅覚で見つけたとは気づいていない。この情報は伏せたままにしたい。かといって、ここで銃を使えば、必要なときに足りなくなるリスクを負う。


 レタは揺さぶりをかけた。


「私は足止めだけでも損なのだけど。『二発以上持っている』に賭けようかしら」

「撃ち殺すか? 失敗した時点で覚悟はできてる。やりなよ」

「まさか。三人目がいるでしょう。銃声を合図にして隠れ場所から出てくる。そこで足りなくなったら、嫌ね」


 徐々に距離を詰めるレタの威圧感に、二人組は観念した。左手の二本指で銃を持ち上げ、銃口を自分側に向けて、オートマチック拳銃の上部にあるスライド部分を前後させる。弾頭がついたままで吐き出され、最後にスライドが下がって止まった。


「三発で全部だ。見えるな」


 レタの視界の隅でササキが匂いを探る。匂いの源はすでに地面に落ちていて、高い位置にはない。この事実をレタに伝える方法は、拾った枝を落とすことだ。


「いいでしょう。それじゃあ、さようなら」


 レタは銃をそのままにして、二人組をいくらか遠くまで歩き去らせた。背中が小さくなってから落ちた弾の前で膝だけを曲げて、左手を地面の高さまで下げる。まず地面に触れて静電気を逃がし、弾を拾った。


 その途中も、念のため周囲の音を探す。結果は何事もなく。ササキを撫でてケイジを呼ぶ。


「もう大丈夫、行きましょう」


 その一言でようやく緊張から解かれたケイジは、今度は興奮した様子で声を上げた。


「すごいや、まるで映画みたいだった!」


 言葉の続きは、早口だったのもあり聞き取らずに。レタは口を塞ぐ手振りで窘めて、短い説教を始める。


「落ち着いて。大丈夫なときも、油断はだめ」


 その映画と違って、一つが解決した直後に次があるかもしれない。今回は距離があったからなんとかなったが、声をあげて居場所を知られてはいけない。自分が静かならば、相手の音を見つけられる。そのように教えた。


「ごめん、つい」

「分かればよし。必要な分は教えるから、真似られるだけ真似て」


 ケイジは頷く。しょぼくれた雰囲気になってしまい、これはこれで別の問題になる。


「映画、好きなの」


 レタは話を切り出す。控えるべきは大声だけで、落ち着いて語る分には積極的だ。相手の分野を知るほど、意思疎通をしやすくなる。


 ケイジは熱心に語りたい衝動を律する方法として、言葉を少しずつ区切って間を開けながら話をした。


「家にたくさんあるんだ。両親に共通の趣味だそうで、帰ったら一日ごとに、観る日と余韻を味わう日にしてる」

「熱心ね。いいことだよ」


 少しずつ話を進めながら、ときどき分かれ道や周囲の様子の話もして、夕方になりつつある頃にホテルに着いた。


 ケイジはようやく、この日の食事がまだ朝だけだったと気づく。歩き続けた疲れもすっかり忘れていた。


 休憩させて、食べ物はレタが手配する。明日からも歩くので、負担が小さくて栄養が十分なものを選んだ。

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