【改訂版】ふはははは~。倒幕派を殲滅してやったぞ~♪

幸田 蒼之助

一、

え~~っ!! もしかして一四代将軍様ですか!?

 少年はその日、少年はその日、次期将軍に内定した。

(苦痛でしかない)

 神妙な顔で告示を受けつつも、少年は内心、鬱々たる思いであった。自ら望んだものではない。すったもんだの末の、政治的決着というヤツである。

(将軍なんざ、貧乏クジではないか……)

 折悪しく、世は大いに混乱している。

 激動と言って良いだろう。今まさに時代の転換期にあたるであろう事は、少年の目にも明らかである。

 そんな折も折、自ら進んで将軍になろうと思う者などおるまい。しかし二月ふたつきばかし前に大老に就任した井伊掃部頭かもんのかみの強い推挙により、少年はたった今、一三代将軍家定の世子せいし(世継ぎ)に決まってしまった。

「殿、誠にお目出度うございまする」

 揃って頭を下げる側近らに、

「冗談じゃない」

 と軽く怒鳴りつけつつ、静かに千代田城おしろをあとにした。

 赤坂の紀伊藩邸は目と鼻の先である。近場ゆえ、騎馬にて側近二〇名と共に藩邸へ戻る。

 夕七つ(午後四時)といった頃合いである。

 陽はなお高い筈であるが、梅雨つゆ時でもあり雲が張り出していて、空は早くも薄暗かった。ただ幸い、雨の兆しはない。

(遠からず、将軍就任か……)

 やむを得ぬ、と少年は馬上、覚悟を決めた。

 いやその重責を思えば、まだまだ覚悟が足りていないかもしれない。平時ならばともかく、激動の時代における将軍職である。その重責は計り知れない。

「いずれ将軍になれば、名も改めるべきであろうかのう……。『家茂いえもち』とでも名乗ろうか」

 彼は何気なく、世間話でもするかのように側近らにそう語るうち、藩邸に帰着した。

 そのままするりと皆の前から姿を消した。装束部屋へ移動し、行李こうりから粗末な羽織袴を取り出す。

 羽織の両胸や背中には、『丸に笹竜胆』の紋が打たれている。

 紀州徳川家の『三つ葉葵』ではない。少し前、密かに側近に命じて調達した、彼のお忍び用の格好である。素早くそれに着替え終えるとそのまま供も連れず、愛馬・与太郎に飛び乗り駆け出した。

 行き先は、いつもの品川のくるわである。

「面白そうなおなごを五人ばかし付けろ」

 女将おかみにそう告げると勝手に階段を上り、一番奥の座敷のど真ん中にどっかと座った。女中がその後ろから、バタバタと慌てて膳を抱えてきた。

(ふう……)

 ひとつ、大きなため息をついた。ここ数ヶ月の気疲れが、大いに溜まっている。

 思えば今日まで、ゴタゴタが多過ぎた。今宵は誰にも気兼ねせず、夜通し飲む気でいる。ちなみに今頃藩邸では、彼が消えた事に気付き大騒ぎだろう。

(まあ、余の知った事ではないが……)

 どうせ側近共が、どうにでも対処するだろう。機転の利く腹心もいる。懸念はあるまいと開き直っている。

 一人、立て続けに手酌で数杯煽っているうちに、

「福之介様、お久しゅうございます」

 とおなごがやってきて、彼を囲んで座った。福之介とは、彼がお忍びの際に用いる偽名である。

「ふむ。……そなた、妙な格好をしておるのう」

 彼はひとりのおなごに声をかけた。

 彼女はおなご衆五人の中で、ひときわ目立っていた。

 二重の大きな目。眉が細長い。化粧が他のおなご衆と全く異なっており、白粉もほんのり薄く刷いただけのようである。

 顔付きから何から、明らかに当世風ではない。いやそれ以前に、実に珍妙な服装をしていた。以前お忍びで横浜に赴いた際に見た、異人女性共の格好に似ている。

 髪もおかしい。結うのではなく、獅子舞のようにもさっと逆立てている。加えて背も、他の者達より腰ひとつ分ばかし高い。

 彼女の手を取り、すぐ傍らに引き寄せた。

「酌をせい。……そなたは何者ぞ?」

「ライカって言いま~す。よろしくね~♪」

 そう彼女が頭を下げた瞬間、微かにふわっと良い香りが漂った。異人共が使用している、香水の類いであろうか。

「そなた、何者だ? 生国はどこだ? 今、歳は幾つか?」

「生まれは都内……って言うか~、このすぐ近くだよ。ただし一五〇年後の、ね。歳は二一」

「ほう、二一か。ん!? 今、一五〇年後と申したか」

 驚いて声を上げる彼に、ライカと名乗るおなごは、

「し~っ」

 と人差し指を立てて口元に当て、片目をつむってみせた。

 年増のおなごが三味線を抱えて静かに座敷へ入ってきた。片隅にそっと座ると三味線を膝に乗せ、ゆるりと音を奏で始める。

 おなご衆は代わる代わる、彼に酌をする。曲にあわせて口ずさむように唄う者もいる。場が、次第に賑やかになってきた。

「福之介様は、どんな人なの?」

 ライカが小首を傾げ、彼に尋ねた。

 粗末ながらもしっかり手入れされたような羽織袴。色白で少々ふっくらした顔。どう見ても十代前半である。質素な浪人の風を装ってはいるが、所作や言葉の端々に隠しきれない育ちの良さをうかがわせる、福之介という男。――

 彼もまた、正体不明と言えばその通りである。

 皆、彼がお忍びでやってきており、福之介という名乗りが偽名であることは薄々感づいている。しかしそこは、素知らぬふりをするのがこの商売の習わしである。が、このライカというおなごはそれを知らないらしい。

 隣のおなごが慌ててライカの袖を引いた。

「福之介様、申し訳ございませぬ。この者は、ここに身を置いてまだ三日目でございまして、礼も作法も知りませぬ。大目に見てやって下さいまし」

「おお。良い良い、無礼講である」

 彼は大様に頷くと、小声で、

「ワシの名は、家茂」

 と、全くもって何気なく、ほんの先程意識したばかりの新たな名を、ライカに名乗った。

 途端にライカは、え~~っ!!、と大声を上げ、目を丸くした。

「もしかして、一四代将軍様ですか!?」

 ――もぉ、びっくりなんですけど~、とライカは彼の耳元で囁く。

「はぁ~っ!?」

 今度は彼が驚く番だった。

 家茂、と聞いてたちどころに一四代将軍と知る者は、今現在ここにいる筈がない。

 彼の素性は『紀州徳川藩主慶福よしとみ』であり、かつ、まさにほんの先刻、事実上の将軍後継に内定したばかりである。しかも、いずれ一四代将軍就任時に、

 ――家茂

 と名を改めるつもりであるという意向は、まだ僅かな側近達にしか明かしていない。

 どういうことか。このおなご、何者か!?。薩摩藩あたりの間諜か。いや、そうであっても辻褄が合わない。

(どういう事だ!?)

 ライカの顔をまじまじと見つめた。警戒とは別種の、曰く言い難い不可解さが、募った。

「ライカと話がある。他のおなごは皆、席を外せ」

 されば……、と奥座敷のさらに奥へと案内され、改めて膳が二つ整えられた。

 郭の習わしで、その傍らには布団が二組、敷かれている。

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