間章~紗雪~

第19話

 森川紗雪の人生は、いつから狂ってしまったのだろう。

 紗雪が生まれたのは北陸の小さな港町だった。そこで診療所を開いていた父は、毎日仕事に追われていた。唯一の休みであった週末も、ボンドについての研究ということで毎週上京を繰り返す日々。そのため父は、家で過ごす時間がほとんどなかった。

 紗雪は父と遊んだ記憶がない。だから紗雪が母親っ子になるのは必然だった。そんな大好きな母は、紗雪に常々言っていたことがあった。


「紗雪のパパは凄い人なんだよ」


 最初は母の言っていることが紗雪にはよくわからなかった。ずっと家にいない。遊んでもくれない。いったいそんな父の何処が凄いのか。正直自分にかまってくれない父のことが好きではなかった。それでも父の名前がテレビで出たり、近所の顔見知りの人達に話しかけられたりするたびに、自分でも父は凄い人なんだと少しずつ自覚できるようになった。

 しかし父に対する尊敬は、年を重ねるたびに跡形もなく消えていった。



 小学生の頃、ずっと仲良くしていた友達がいた。森田久美もりたくみ。一年生の時、同じクラスの後ろの席だった女子。紗雪は彼女と仲良くなり、学校では常に一緒に行動していた。学校外でもお互いの家を行き来する仲で、紗雪にとって久美は初めて親友と呼べる存在だった。

 小学三年生になると、母は久美の母親と一緒のパート先で働くことになった。紗雪が久美を親友と思うように、母も久美の母親とママ友に。だからこそ同じ職場で働くことになったんだと紗雪は思っていた。

 母が働き始めて一ヶ月が経ったある日。父は母が働いていることに苦言を呈した。

 父は医者でボンドの薬を開発した凄い人。お金だって普通の家庭以上の額をもらっていたはずだ。母が働くことで、財政的な問題を抱えていると思われたくなかったのかもしれない。

 父にもプライドがある。それくらい小学生の紗雪にも何となくわかった。

 でも母は働きたいと言って聞かなかった。そんな母の気持ちは紗雪にも理解できた。ずっと家にいるだけで家事や紗雪の面倒を見ているだけなのは、母にとってストレスになるのではないかと思った。

 だから紗雪は初めて父にお願いをした。


「お母さんを働かせてあげて」


 紗雪の言葉に父はあっさりと首を縦に振ってくれた。

 父が自分の言うことを聞いてくれた。たったそれだけのことなのに、紗雪はとても嬉しかった。

 その嬉しさも束の間、母が働き始めて三ヶ月が経ったある日。唐突に事件が起きた。

 母が久美の母親を殺したのだ。

 最初は何が起こったのか理解できなかった。ただ、大好きだった母が人を殺した。その事実だけがずっと紗雪の脳内を徘徊し続けていた。

 そんな紗雪の運命は、翌日から大きく変わった。

 学校に登校した紗雪はいつもと違った変化に気づく。教室に入った瞬間、皆が話すのをやめて紗雪から一斉に視線をそらした。いつもなら挨拶を交わすはずなのに、誰も話しかけてこない。そんな不気味な雰囲気が続いた数日後に、久しぶりに久美が登校してきた。

 紗雪は久美を見つけると、真っ先に声をかけた。


「久美ちゃん、おはよう」


 いつもと同じように接したつもりだった。紗雪にとって一番の親友。久美ならいつものように声をかけてくれる。そんな悠長な考えを持っていたのが、いけなかったのかもしれない。久美が紗雪に向けて、とんでもない言葉を言い放った。


「人殺し。私のお母さんを返して」


 強い口調で紗雪に告げた久美はそのまま紗雪を押し倒して、これでもかというくらい紗雪に拳を振り下ろした。

 豹変した久美の拳を、紗雪はただ受け止めることしかできなかった。久美の言っていることは紛れもない事実。母は紗雪の大切な友達に、取り返しのつかないことをしてしまったのだから。

 身体も心も傷ついた紗雪は、家に帰ってからとにかく泣いた。そして再度考えさせられた。

 どうして優しかった母が人を殺してしまったのか。

 どうしてこんな目に合わないといけないのか。

 家に帰ればいつも笑顔で出迎えてくれた母は、今やどこにもいない。母は殺人罪として懲役十年を言い渡された。だからずっと刑務所の中。いつも母の温もりがあった家が、紗雪一人の空間になってしまった。父は仕事が忙しくて、いつも家に帰ってこない。週末はボンドの話し合いで上京してしまう。

 これから家ではずっと一人なんだ。そう思った瞬間、久美の顔が紗雪の脳裏をよぎった。そして紗雪は気づく。

 もう久美のことは親友と呼べない。家だけでなく、学校でも一人なんだと。

 その事実がすべてだった。紗雪はその日、疲れ果てて寝るまで涙が止まらなかった。

 母が家からいなくなって以降、登校するたびに紗雪の心は擦り減っていった。

 人殺し。

 紗雪が教室に入る度にクラスメイトがひそひそと声を上げる。直接言ってこないのが、本当に嫌らしいと思った。だけど紗雪は言われても仕方がないと思っていた。事実である以上、その罪を背負って生きていかないといけない。久美のほうが、紗雪よりもずっと苦しいはずなのだから。

 しかし時間が経つにつれ、紗雪に対する罵詈雑言は徐々になくなっていった。母の事件は過去の出来事と扱われ、紗雪は比較的穏やかな学校生活を送れるようになっていた。その代わり一人も友達ができないまま、紗雪は中学校に進学した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る