妖怪純喫茶ゐ恋の変
ヒロユキ
ぬらりひょんの変 其の1
わたしが人生において挫折するということは、今後二度ないと思うけれど、もしそうなることがあったならば、すぐにバイト先の純喫茶に顔を出すことになるだろう。
ある日の放課後。放課後と言っても大学三年生のわたし――
大学を終えて夕日が沈むか、沈まないかという瀬戸際の時間帯。わたしはいつものように大学を飛び出すと、バイト先に向かった。
一、二年時。まわりが寝坊だの、なんだので休んでいる間も、バカみたいに学校に通い講義を受けたわたしは、まるで本屋のバックヤードに積まれている本くらいには単位がある。だからもう毎日のように大学に通わなくとも卒業は出来るのだが、今もなお毎日のように通っている。
わたしのバイト先は、その辺りでは有名な純喫茶だ。有名といっても、来るのは近所の人ばかりで、遠方からわざわざくる物好きはわたしくらいしかいないらしいけれど。それでも店長曰く黒字らしい。
電車に乗って、何回か乗り継いだ後、車窓の景色が、大学のあるビルの並んだ都内から、緑色の草が生え広がった田舎に変わったところで、電車を降りた。
そこから三〇分ほど歩き進めると、木と木に囲まれた隠れ家みたいな建物が見える。あれがわたしのバイト先である『純喫茶ゐ恋』。
「お疲れ様です!」
勢いよく、ゐ恋の古びたドアを開けた。ドアに付いた小さなベルが音を鳴らす。中に入った瞬間にコーヒーのいい香りが鼻腔を刺激した。
カウンター四席に、四人掛けのテーブル二席しかない小さなお店。こんな入りにくい古びた外装をしているにも関わらず、既にテーブル席は満席だった。
「ああ、お疲れ様です。駒沢さん」
カウンターの内側で、食器を洗っているゐ恋の店長――
目の位置よりも長い前髪を左に流し、邪魔にならないようにしていて、通った鼻筋に、切れ長の目、そしてトレードマークの黒縁眼鏡をしている。さながら、プロのモデルかなにかに見える程の整った顔立ちだ。
それでいて細身に見え、ガッチリとした体形をしているのでしっかり男なのだと確信する。
「そんなに毎日来なくてもいいんですよ? 自宅からも遠いでしょう?」
店長は皿洗いの手を止め、近くにあった布巾で手を拭く。
「いえ、大丈夫です。わたしが好きで来ているので! では、準備してきますね!」
わたしがにこやかな声でそう言うと、店長は困惑した表情を浮かべた。
ゐ恋のバックヤードでバイトに向けて支度をする。支度と言ってもたいしたものではない。今着ている私服から、バイト用のカッターシャツに着替え、制服であるエプロンを首にかけるだけだ。
わたしの背丈ほどのロッカーに付いている姿見で、自分の姿を確認する。
茶色の肩程の長さの髪の毛で、顔には目があり、鼻があり、口がある。至ってなんの特徴のないわたしの姿がそこにはあった。
「よし、今日も可愛い!」
以前、テレビで可愛いと言い続ければ、可愛くなれるという特集を見た。だから毎日のように自分に言いかけているけれど、なんの変化もない。平凡な顔立ち。
そんなことを気にしていては仕方がない。親からもらった大切な顔だ。誰になにと言われようとも、気にするべきではない。
手首についていたヘアゴムで髪の毛を結び、仕事しやすいようにポニーテールにする。
最近は毎日のようにゐ恋のバイトに来ている。お金は要らない。ただ、この場所が、ここに居ることが楽しくて仕方がないのだ。
バックヤードから顔を出すと、テーブルにいたお客さんは全て帰っていた。店内にいるのは店長一人で、テーブルを拭いている。
「あ、私がやります!」
店長の元に駆け寄った。
「いいですよ。今日は暇でしたからね。私も特にすることがないんです」
「いえいえ、バイトの身であるわたしがやるべきです! 店長はコーヒーを挽くなり、売上を勘定するなり、他にやることがあります!」
店長はため息を吐いた後、テーブルを拭いていた布巾をわたしに渡す。
「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて」
「いえいえ、甘えるどころか、辛みを混ぜちゃってください? もっとわたしをこき使っちゃってください?」
「そんなこと言われても……」
店長は悩んだように顎に手を置くと、なにかを考えながら、カウンターの内側に行った。わたしは後を継ぎ、テーブルを拭く。
そんなことをしていると、ゐ恋のドアに付いているベルが音を鳴らした。
「やあ、また来ちゃったよ」
わたしは声のする方を向き、腰を折る。
「いらっしゃいませ! お一人様ですか?」
「二人に見えるかい?」
「いえ、ではカウンターにどうぞ」
わたしはカウンターに案内すると、カウンターの内側に入り、店長の隣に立つ。
「はあ、また来てしまったんですか? ぬらりひょん様」
カウンターに座った人は名をぬらりひょん。
妖怪の総大将と言い伝えられている伝説の妖怪だ。特徴と言えば、人間より後頭部が少し長いぐらいで、あとはなにも変わらない。正面から見て見れば、着物を着た、ただのおじさまだ。
ゐ恋は妖怪の訪れる純喫茶なのだ。いや、近所の客しか来ない所を見ると、妖怪しか来ないと言ってもいい。人間なのはわたしだけで、店長ですらも妖怪なのだ。
わたしはどうやら目が人間離れしているらしく、どちらかと言うと妖怪近い。だからこそ、この喫茶店で働くことが出来ている。
「なんじゃ、来ちゃいかんのか?」
おじさまは杖を床にカンカンと鳴らし、怒りをあらわにする。
「いえ、ダメってことはありませんけれど、あまりお屋敷を留守にするのはどうかと……」
「店長、折角来てくれたお客さんにその言い方はないんじゃないですか?」
わたしが口を挟むと、おじさまは喜悦の色を浮かべる。
「さすが絢ちゃん。分かっておるのう」
「はあ、相変わらず、店員の鏡ですね。駒沢さんは」
店長はため息をこぼした。
「屋敷はもうひ孫の代じゃ。わしのすることなんかほぼないわ。だからこうしてゐ恋に足を運んだっていうのに」
「はいはい、分かりました。それでなにかがご用事があったのでしょう?」
店長はカウンターの下からお茶の葉を取り出す。それを使ってお茶を入れると、湯飲みに入れておじさまに提供した。
「そうじゃった! 気になる話があっての、それを絢ちゃんに聞かせてやろう」
「気になる話ですか?」
胸が高ぶった。わたしはこういう話が聞きたくて、ここでバイトをしているのだ。妖怪が気になることを、人間が気にならないわけがないのだから。
おじさまは手元に置かれたお茶を飲む。
「そうじゃ。まさに奇々怪々とはこのことだと思ったわ」
「是非、教えてください?」
「――最近、変なことがよくあるんじゃ。いつものようにぬらりくらり、他人の家で飯をご馳走になろうと思って、上がり込んだんじゃ」
「まだ、そんなことしていたんですか……」
店長が頭を悩ませた。
「それでその家の主らしき若い男が、わしに妙に優しい。気持ち悪いほどに」
「その若い男から見たら、おじさまが主に見えたのではないですか?」
ぬらりひょんとはそういう妖怪だ。その家の主だと思わせて、人を化かすものだ。
「じゃあ聞くが、絢ちゃんの家の主は誰じゃ?」
「まあ、お父さんですかね」
「絢ちゃんはお父さんに、肩叩きとか、耳掃除とか、手料理を作ったりするのか?」
「いえ、死んでもしないですね」
手料理はまだしも、耳掃除なんて考えただけで悪寒がする。
「若い男はそういうことをするんじゃ。ほら、これが若い男からもらった肩叩き券じゃ」
おじさまは風呂敷から『肩叩き券』と書かれた紙切れを取り出した。
「でも料理くらいなら若い男でもするんじゃないですか?」
「話を聞いていると、いつもは男の嫁が作っているらしい。実際、男の作った料理はお世辞にも美味いとは言えんかったからのう」
「なるほど、おじさまはそれのなにが気になるんですか?」
「わしはその男の生い立ちが気になるんじゃ。普通なら絢ちゃんのように、家の主にそんな接待せんじゃろう? それも今どきの若い者が」
「確かに、そんな話は聞いたことがありません」
「どうじゃ? 気になったじゃろう?」
わたしは目を輝かせる。
「ええ、それは勿論! 調査のほどはわたし達に任せてください!」
おじさまは満足げな表情をした。
「ちょっと待ってください」
店長が言葉を挟む。
「なんですか?」
「私達とはどういうことですか? 私は関係ありませんよ」
「でも、わたし一人じゃあ、捜査ができません。この町に詳しい訳でもありませんし」
「では、捜査をしなければいいでしょう? 私はこのゐ恋の店長で、探偵でもなんでもありません」
「まあ、そう言わないでください。貯まったバイト代、きちんと受け取りますから」
わたしがそう言って駄々をこねると、店長は眉をピクリと動かす。
「本当ですか駒沢さん。あなたが本当に受け取ってくれるのであれば、私もお手伝いします。このままでは私、女子大生を無賃で働かせている鬼畜店長ですから」
わたしはこのお店からバイト代を頂いていない。別にくれないという訳ではなく断っているのだ。お金が欲しくてバイトをしているのではなく、好きでここに来ているのだ。
ただ、それでは店長は監査が怖いらしく一刻でも早く、バイト代を渡したいのだ。
「約束は守ります! では早速、調査に向かいましょう!」
わたしが意気込みを口にすると、おじさまは微笑み、店長はため息をついた。
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