第二十七階層 揺れる

 夏季休暇を利用した異国への家族旅行に似ている。ふんわりとした雰囲気は次の階で一変した。

 通路は、たったの一本。それ以外に道はない。その床が進行方向とは逆に高速で動いている。視界の限界を超えていて奥は薄暗かった。

 冨子が弱々しい笑みを浮かべる。

「これは私だと厳しいかもー」

「俺様の背中に乗せてやってもいいぞ」

 ハムが冨子に向かって背中を傾けた。

「やめた方がいいと思うんだけど」

「えー、どうしてよー。海や砂漠でハムちゃんは大活躍したよー」

 冨子は茜に向かって不満を零す。

「あれは滑るような感じだから。走る背中に乗るなら私みたいに膝を軽く曲げて立った方がいいよ」

 茜は横向きの姿勢で膝を曲げる。ハムの背中に立ち、巨像に向かっていった時と同じポーズを取った。

「私には無理だよー」

「俺様が光の速さで駆け抜けて見せる! 全て任せろ!」

「ハムちゃん、お願いねー」

 茜は含みのある笑い顔となった。

 個々が呼吸を整えて一斉に走り出す。

 ハムが先頭で飛び出した。茜と直道が続く。

「お、お尻が、いた、痛いー!」

 ハムの背中にまたがっていた冨子が前に倒れ込んだ。俯せの姿勢となって胴体に両腕を回す。突き上げるような衝撃で頭が上下に激しく揺れた。

 通路の所々に休める床があった。横になれる広さはなく、身を寄せ合って暑苦しい時を過ごす。冨子は二人に挟まれながらも不安定に頭を回した。

「乗り物、酔いに、なり……」

 自らの手で口を塞いだ。

 落ち着くと全員で飛び出す。冨子も自身の足で走った。白いエプロンの中で胸が暴れる。息切れは喘ぎ声に近い。耳にした直道の顔が見る間に赤くなった。

「もっと真面目に走れ!」

「ん、あ……もう、無理ぃ、あぁ」

 茜は怒りの形相となった。その後ろで冨子は半開きの口になる。色っぽい声に押し出されるようにして濡れた舌がうごめく。

「俺様の走力に勝るものなしィィィ!」

 ハムは他の者を引き離す。茜は負けん気を見せた。冨子は走る痴女となり、その背を直道が懸命に押して走った。

 距離としては短いが、かなりの時間を要した。三人は倒れ込むようにして床に転がる。ハムは例外で普段と変わらない。カツカツと歩いて木製の扉の前に立った。

「俺様は開けられないぞ! 早く立ち上がって先の道を示すのだ!」

「本当に、体力だけは悪魔じみて、いるよね」

 息切れを呑み込んで茜が立ち上がる。通路の先にある扉の前に行くと真鍮しんちゅうのノブを掴んで開けた。

 中を見た瞬間、あー、と力が抜けるような声を漏らした。

 四角い空間は部屋のようだった。三つの角にはベッドがあり、柔らかそうな毛布が掛けられていた。

 ハムは扉の横の一角に向かう。置かれた楕円のかごのような中にはふっくらとした羽毛が詰まっていた。

「これはいいぞ!」

 ハムは籠の中で仰向けとなった。特別にしつらえたかのようにすっぽりと収まる。

「こんなの、見たら、私も耐えられないよ……」

 茜は扉の近くのベッドに前から倒れ込む。白いパンのような柔らかい枕を引き寄せて頬を埋めた。

「私のベッドー」

 ふらふらと入ってきた冨子は奥のベッドに突っ伏した。

 残った一台に直道が仰向けになった。眼鏡を外す間もなく寝息を立て始めた。

 誰もが深い眠りに落ちていった。


 頃合いを見てピンクのウサギの縫いぐるみが動き出す。寝床にしていた直道のスーツのポケットを抜け出し、以前のように各々の頭に光る手を当てた。寝言のような本音を聞いて回ると最後にハムのところにも立ち寄った。

 前のように蹴飛ばすことはなかった。労わるように手を伸ばし、腹部の辺りをポンポンと叩いた。

 全ての用事を済ませたのか。縫いぐるみは直道のベッドにぴょんと飛び乗った。スーツのポケットに足からもぞもぞと入ろうとする。

 瞬間、部屋全体が左右に揺れた。

「な、なんなの!?」

 瞬間的に茜が起きた。

 縫いぐるみは上手くポケットに入れない。諦めたようにピタリと動きを止めた。横揺れに耐えられず、後頭部から床に落ちた。

 揺れはすぐに収まった。茜は用心深い目を周囲に向けながら、そろりとベッドを降りる。

 ハムは仰向けの姿で寝ていた。冨子は壁の方を向いて丸くなっている。直道は立っている時とほとんど変わらない。直立の姿勢で仰向けに寝ていた。

 茜は床で、ぐにゃりと曲がった縫いぐるみを冷ややかな目で見下ろす。

「あんた、動いていたよね?」

 縫いぐるみに反応はない。股の間から顔を出し、ボタンの目で真上を見ていた。

 茜は拾い上げる。顔の間近まで持っていくと、死んだフリ? と低い声で言った。

「どうかしたのか」

 直道が上体を起こす。少し曲がった眼鏡の位置を中指で修正した。

「地震があったんだけど、今は収まっているみたいね」

「そうなのか。だが安心はできない。余震があるかもしれない」

「どうかな。それと、この縫いぐるみは返すよ」

 首のところを握り締めた状態で突き出す。手足がぶらんと揺れた。受け取った直道は首の凹んだところに目をやる。

「この縫いぐるみに、何か気になることでもあるのか」

「特にないよ。ただ、地震の時に動いたような気がしたから」

「そうなのか? 私には普通の縫いぐるみに見えるが」

 直道は細部に目を向けたあと、スーツのポケットに足から収めた。

「ただの勘違いかもね」

 茜は簡単な一言で終わらせた。

 その後、余震は来なかった。揺れの原因が地震とも限らない。

 一行は奥の扉を開けて先に向かう。トラップの類いは仕掛けられていなかった。最奥に降りる階段がひっそりと口を開けていた。

 茜は直道の横を並んで歩く。目はポケットの縫いぐるみに向けられていた。

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