第十一階層 逃げ回る

 新しい階層に踏み込んだ直後、冨子は周囲に鼻を向けて小刻みに吸い込む。

「臭いかなぁ?」

 そこに茜が加わって同じように嗅いで回る。

「無臭ではないけど、カビ臭い?」

 あとから来た直道は大きく息を吸い込んだ。

「異臭は感じないが」

 三人が微妙な顔で目を合わせる。瞬間、揃って顔を上げた。

 階段から派手な音をさせてハムが転がり落ちてきた。勢いは止まらず、正面の壁に強かに背中を打ち付けた。

「鼻が壊死えしするぅぅぅ!」

 自ら激しく転がる。前脚を鼻に向かって懸命に伸ばす。その短さが災いして全く届いていなかった。

「静かにしてよ! なにがいるかわからないのに!」

「無理すぎるぅぅぅ!」

 正気は保っているようだった。

「ハムちゃん、そんなに臭い?」

「鼻がもげるぅぅぅ!」

「だそうですよ、直道さん」

「わからない感覚だ」

 死角の多い通路に目を配りながら言った。

 ハムは騒々しさを増して、急にぴたりと止まる。何事もなかったかのように起き上がった。

「死線を超えた俺様は開眼した!」

 極度の鼻声で宣言した。茜が訝しげな眼を向ける。

「あんた、意外と器用なんだね」

 ハムの鼻の穴は閉じて二本の縦線になっていた。

「開眼なのに閉じるのねー」

 冨子は陽気な声を出した。直道は考え込む顔で顎を撫でる。

「結局、臭いの原因は何だったのか」

「それならわかるぞ」

 ハムは鼻声で答えた。三人は漏れなく口を閉じた。促すような目をハムに向ける。

「臭いの元は不規則に動いている」

「ということは、ようやく敵の登場ね。こっちは相変わらず、手ぶらだけど」

 茜は苦笑いで手をぶらぶらさせた。

「なるべく危険は回避したい。ハム、鼻で敵の位置を」

「それは無理! 断固、拒否する! 動物虐待だ! 鼻がもげる!」

 全体をほんのりと赤くしてハムが早口でまくし立てる。

「仕方ない。敵がいると想定して動く。近くなれば臭いでわかるだろう」

「直道さんがいれば、どうにかなると思うけどねー」

「そうなの?」

 冨子の言葉に茜が疑問を口にした。

「その時になって考えよう」

 茜の目を避けるようにして直道が歩き出す。

「もしかして、両親揃って不良とか?」

「どうだろうねー」

 答えない直道に代わって冨子がのんびりした声で話を打ち切った。


 壁に手を当てた一行は慎重に進んでいく。三度目の袋小路を悲観することなく、慣れた様子で引き返す。

 その時、ハムが震え出した。閉じた鼻が僅かに開いている。

「ま、待て。き、来てしまった。さ、最悪だ。こ、こんなところで、し、死が、近づいてくる……」

「そんな! ここって行き止まりなのに」

 茜は両親にすがるような目を向けた。

「どうしよう、直道さん」

「通路には幅がある。相手によっては横を走り抜けることも可能だ」

「それなら直線の長いところで待っていた方がいいよ。勢いが付き過ぎて壁に激突したら自滅するからね」

 茜の提案は二人にすんなりと受け入れられた。ハムは動揺が酷く、涙目となって震えている。

 通路の長さは目測で七メートル。三人は万全の姿勢で待ち受ける。ハムは臭気が目を直撃して涙が止まらないと訴えた。

「クッサ!」

 茜が思い切り顔を背けた。

「これは」

 直道は自ら鼻を摘まむ。冨子は少し動作が遅れて、吐きそう、と呟いた。目尻には涙が溜まっている。

 臭いの元凶がふらふらと歩いてくる。

 大半の髪は抜け落ち、露出した頭皮の一部からぶよぶよした脂肪のような塊がみ出していた。右の眼球は白く濁り、残りは眼窩がんかから飛び出して欠けた鼻の横で揺れている。衣服は無いに等しい。薄汚い端切れとなって身体に張り付く。

「臭いし、目が痛い」

 茜は鼻を摘まんだまま、手の甲で目を擦る。

「意識が薄れてきたよー」

 何が見えるのか。冨子は斜め上を見て微笑んだ。

 一人、直道は前に出た。鼻を摘まんだ状態で元凶に立ち向かう。

「お父さん、なんで」

 目を擦りながら茜が小声で言った。

 直道は足を止めた。距離は二メートルもない。その状態でゆっくりと横手に動いて壁に背を付けた。

「そんなことって……」

 茜は目を見開いた。元凶は直道を無視して通り過ぎた。傍目には全く感知していないように見えた。

「みんな、私と同じようにして」

 後ろに声を掛けると茜が先に動く。直道の示した通り、壁に背中を付けた。弱々しい歩き方で冨子が真似をする。ハムは壁際で横倒しとなって四本の脚をピクピクとさせた。

 元凶は気付かない。ウロのような口で、あー、と低い声を出して通り過ぎた。

 真っ先に駆け出したのはハムであった。

「階段はどこだああああ!」

 見事な遁走を見せた。三人も必死に後を追い掛ける。

 元凶と距離を取ったことで臭気の問題は解決した。三人と一匹は安らいだ表情で深呼吸を繰り返す。

 落ち着いたところで茜は逃げてきた先を振り返った。

「ゲームだと序盤で登場するモンスターなのに。ここまで苦しめられるなんて、全然、思わなかったよ」

「鼻の奥の方が、まだツンとするよー」

 冨子は目尻の涙を拭った。

「密閉空間で、あの肉体の損傷。無理もない」

「知能もないなんて、思わなかったよ。ゲームでは弱いながらも人を襲ってくるし」

「そうなのか。私は見た目で判断したに過ぎない」

 直道は目を周囲に向けた。茜は肩の力を抜いて笑った。

「お父さんは堅物だけど、それが長所なのかもね」

「そうなのか?」

「あ、その、たまにね!」

 慌てて言葉を付け足す。隣ではハムが別の通路を見て小刻みに震えていた。開いていた鼻の穴をキュッと閉める。

 横目で見ていた冨子は泣き笑いの表情を浮かべた。


 脱兎の如く逃げ出した一行は臭いの元凶を避けて探索に励んだ。嫌がるハムを美辞麗句で褒め称え、探知豚として大いに活用したことは言うまでもない。

 その努力がそこそこ報われ、精根尽き果てる前に降りる階段を見つけたのだった。

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