お母さん
「五年も経っているのね……。ふふ、自由な時間は楽しんだ?」
俺は大人の顔を見ることができなかった。
身体が震えそうになる。
顔を見ると、全てを思い出してしまいそうであった。
「あら、本当に普通の男の子みたいになったのね? すごいわ。これであなたは更に成長できるわ」
何を言っている? 俺は――あの小学校を――脱出して――?
俺はどうやってあの厳重な小学校を脱出できたんだ?
俺はどうして幼馴染である花園がいる中学に入学する事ができたんだ?
俺はどうして一軒家に住んでいるんだ?
俺はどうして多額の貯金があったんだ?
どうして――どうして――どうして――
「わんわん!! わふーん……」
犬が鼻先を擦り付けて俺を慰めてくれる。
俺は何かを忘れるように犬を執拗に撫でた。
「ふふ、リセットしたからね――」
大人は俺に顔を向けながら喋っている。
俺は犬しか見れない。
大人の顔を見れない。だって――見てしまったら――。
「約束では後一年だったけど……あなたの成長具合を診てたらもう良いかなって思ってね。もう立派な普通の男の子よ。――そろそろ戻ってもらうわ」
俺は絞り出すように声を出した。
「も、戻るとは? お、俺は明日大事な体育祭がある。どこかに行くわけには――」
「大丈夫よ。リセットしたら全部忘れちゃうから。苦しい事も悲しい事も、経験だけ残して忘れましょう? ほら、私と一緒に行きましょう」
全身の毛穴から汗が吹き出る。
感じたことのない恐怖が俺に襲いかかる。
田中と、花園と、学校のみんなと二度と会えなくなる――
そう思っただけで尋常じゃない苦しみが俺を痛めつける。
何故、今なんだ。記録では後一年大丈夫なはずであった。
一年? 俺は知っていたのか?
俺は……俺は……。
大人は優しく囁いた。
「花園さん、田中さん。二人が一番好感度が高いわね。あら、道場さんに笹身さんも大事な友達なの? ふふ、友達沢山できたわね。みんなのおかげであなたは沢山成長できたのね」
大人の口から俺の友達が出た。
その事実が俺の心を黒く染める。
「――やめてくれ……俺の友達に関わるな」
「あら怖いわ、大丈夫よ。リセットしたら全部消えてなくなるわ」
俺は大人の顔を見据えた――
何も感情を感じさせない顔。懐かしさの微塵もない。
そこにあるのは虚無であった。
「あなたにとって私はお母さんよ? 仕方ないわね。明日の夕方迎えに行くわ。それでいいでしょ? だってこれは約束……、ふふ、あなたの成長が早かったから迎えに来ただけよ。お母さんとの約束は守ってね」
――約束。それは俺を縛る言葉。
俺はうなだれる事しか出来なかった。何も間違った事を言っていない。
約束は守らなければいけない――
「わふん!!」
犬が俺から離れて大人の元へと帰っていった。
俺は言葉を口にできなかった。大人には逆らえない。俺はそういう風になっている。
心がぐちゃぐちゃで整理がつかない。
そうだ、全部リセットすれば痛くない。
リセットするんだ。そうすれば――
みんなの顔が浮かんだ。痛みと共に歩くと誓った。
初めての学校のイベントの参加が楽しみだった。
一緒に競争をするのをワクワクしていた。
よくわからない競技に出てみたかった。
ダンスなんてしたこと無かったから、田中に教わった。
今日はお弁当の準備をする予定であった。
明日の昼休みはみんなでお弁当を食べる予定であった。
騎馬戦が興味深かった。
笹身が出場するマラソンを見たかった。
――体育祭が終わったら俺の想いを田中と花園に伝えるはずであった。
俺は声にならない慟哭をあげた。
大人の足音が遠ざかっていく。気配が薄れていく。
この場を去っていった。俺一人残して。
俺は目に汗が流れていた。
これはいつもと違う。
悲しみじゃない。胸の痛みじゃない――
どうにもならない悔しさだ――
「わふーん!!」
遠くから犬の声だけが俺に届いた。
まるで元気付けているようであった――
俺は街を彷徨った。
行く宛もなくひたすら歩き続ける。
六年間だけだったんだ。
これは約束。大人と俺との約束。
――なるほど、俺はやはり普通の生活ができないようだ……。田中、花園……。
過去に心を縛られたと思っていたが、俺の現状も大人の手のひらの上で転がされていただけだったんだ。
現実に向き合う必要がある。
俺はリセットして全ての想いを無くして――大人の元へ帰るか?
それともリセットをせずにみんなと悲しい別れをして、傷ついた心で大人の元へ帰るのか?
「――ふっ」
俺は自嘲をする。帰る選択肢しかないじゃないか。俺は何度もリセットを繰り返してきた。心を壊さないためであった。
大人が俺に戻れと言った。だから俺は戻る選択肢しかない。
俺は大人に逆らえない。嫌だと思っても身体が動かない。心が絶対服従してしまう。
ずっと街を歩いていた。いつの間にか慣れ親しんだランニングコースを歩いていた。
何度も何度も友達の事を思いながら。
今まで起きた出来事を回想しながら。
気が付いたら自分の家に戻っていた。時間は深夜を大幅に過ぎている。
――最後の一日を――精一杯――
お弁当の準備をしなくては、少しでも寝て競技の準備をしなくては。
俺は花園と田中が喜ぶ顔を想像しながらお弁当を作り始めた。
作業をしていても、心の奥には消えることのない重たい感情が居座っている。
俺は成長して、人の心が少しはわかるようになったんだ。俺がいなくなったら――二人は――悲しむ。
二人だけじゃない。笹身だって道場だって、五十嵐だって佐々木だって、特別クラスの仲間だって――
「田中――、花園――」
いつの間にか声が出ていた。
「笹身――、道場――」
名前を呼ぶだけで心が少し落ち着いてくる。
だから俺はお弁当を作りながら何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、名前を呼び続けた――
****************
俺の家には自分の荷物がほとんど無かった筈だ。
それでもスーツケース二つ分の荷物になってしまった。
花園が選んでくれた服。佐々木がおすすめしてくれた小説。
友達が出来てから知らぬ間に物が増えていた。
捨てられるものは何も無かった。
今日この家に戻る事はない。
きっと俺は体育祭が終わったら、大人の後を付き従わなければならない。
俺は家を出た――
特別な朝であった。身支度はいつもよりも入念にした。
いつよりもほんの少しだけ早い時間。
まだ学生は登校していない。
俺はゆっくりと歩く。
そして、通学路の途中で立ち止まった。
時間が経つとぽつりぽつりと学生だちが登校し始める。
俺は賑やかな雰囲気が好きであった。
生徒達が楽しそうに話しながら登校しているのが好きであった。
学校の雰囲気が一番感じられる時間。
「おはようございます!!」
俺は知らない生徒に挨拶をされた。
昔の俺なら戸惑って挨拶できなかったり、色々勘ぐってしまっただろう。
俺は彼女に笑顔で挨拶をした。
「ああ、おはよう――」
女生徒は顔を赤くしながら友達の元へと走り去った。
「……ねえねえ挨拶しちゃったよ!! 今日は一段とかっこいいって!!」
「あーー、ちょっと変わった人だよね? ……あれ? ヤバくない? 超イケメン……」
続けて男子生徒が俺に話しかけてきた。
「おはようございます!! 今日は一緒に頑張りましょう! ピンク優勝っす! 藤堂さんの筋肉には脱帽っす!」
ピンクの鉢巻をしているから、きっと面識があるんだろう。
俺は軽く手を上げる。
「――あ、ああ、頑張ろう」
その後も、俺が立ち止まっていると、次々と声をかけられた。
俺は内心戸惑っていた。普段、こんなに話かけられた事がない。
何が起きているんだ?
聞き慣れた声がした――
「お、おはようです。お兄ち……先輩! 今日は先輩に走りを見てもらえますね!」
「ちょっと笹身、お兄ちゃんって言いそうになってない? はぁ、すごい変わりようね……。まあいいわ、藤堂君おはよう」
笹身と道場が手を繋いで歩いていた。
自然な感じで俺に話しかけてきた。
「笹身、道場――おはよう」
昨夜、何度も繰り返していた言葉。言葉が現実に現れる。
二人は笑顔を俺に向けてくれた。
気負い無い自然な笑顔であった。
俺の心の重たい何かが少しだけ薄れた気がした。
何故だ? 二人に二度と会えないかも知れない。
それなのに……心が軽くなった。
小さな変化。
俺が一晩考えても心の重たさは変わらなかった。
それなのに――友達に会えただけで――変化が起こった。
「は、ははっ……、なるほど、こういう事もあるのか? 一人は本当に駄目なんだな。――笹身、道場、ありがとう」
俺は二人の頭をくしゃくしゃに撫でた。
無性に撫でたかった。
感謝の現れだ。
「な、なにが起きたっすか!?」
「き、君ってやつは――」
二人は照れたのか、走って学校へ向かってしまった。
俺は気配に気が付いた。
ああ、そうか、俺はずっとここで待っていたんだ。
この時間に来ることは予測できた。
待ちたかったんだ。大切な――大事な――人達を。
俺は両手を広げて振り向いた。
「よーっす! ……ていうか荷物すごいじゃん! 気合入ってるね? ――へ!?」
「あれは恥ずかしいね。藤堂、おはよう! あれ? 目にくまが……。――きゃ!?」
そして二人を同時に抱きしめた――
「――おはよう……」
俺は色んな想いを込めてその言葉だけ伝えた――
感情が整理出来ないけど――、俺は……今この瞬間を大切に生きるんだ!!
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