藤堂が望んだもの


 目の前にある海老を黙々と下処理する。

 流水で洗い流しながら専用ハサミで真ん中から切り裂く。

 アルバイト先の洋食屋さんの仕込みである。


 企業訪問も終えて、普段通りの週末を迎えた。

 今日と明日はバイトである。


 料理の仕込みは好きだ。手を動かしながら色々な事を考えることができる。

 それに、徐々に下処理の技術の向上がわかるから面白い。


 隣でドリアの仕込みをしているシェフが話しかけて来た。


「いやー、本当に藤堂君は真面目だね〜。社員でもここまで早く出来ないよ」


「ありがとうございます――」


 それっきり沈黙が広がる。俺は大人と喋るのが苦手である。シェフは良い人であるが、どのように会話を広げていいかわからない。

 それに、海老の下処理は熟練の域に達したが、それ以外はまだまだ修行中の身である。


 最近学校でも他者から褒められる事が多くなっていた。

 俺はそれに慣れない。小学校の頃は出来なかったら――出来るまでやらされた。出来たとしても褒められる事なんてない。だから不思議な感覚であった。



 厨房にはシェフと俺以外に、数人のアルバイトとコックさんがいた。

 アルバイトたちは会話をしながら和気あいあいと作業をしていた。


 シェフはそれを見てもため息を吐くだけであった。

 アルバイトは所詮アルバイトである。いつか辞める存在。シェフは諦めているようである。


 ホールから足音が聞こえてきた。この音は……田中だ。


「シェフ、準備出来ました! 手伝えることありますか?」


 田中は今日も元気である。俺はそれを見ているだけで嬉しくなる。


「ああっと、準備は大丈夫だ。……そうだな、じゃあ休憩行くか? おい、藤堂君も一緒に行きなさい」


 シェフは俺を見る時の目が妙に優しい。理由はわからない。

 俺がシェフと初めてあった時、シェフは俺の目を見てため息を吐いた覚えがある。

 その時俺はまたか、と思っただけであった。だが、シェフは『ここは嫌な大人がいないから安心して――』と言ってくれた。


 不思議な人である。


「はい、休憩行ってきます――」


「田中さんとお喋り楽しんでよ!」


 俺はシェフに温かい目で見送られながら休憩室へと向かった。

 ……大学生からは何故か嫉妬の視線が送られた。





 休憩室で田中と対面で座る。

 学校の時とは違い、少し気恥ずかしい。

 ……もう長い間アルバイトしているのに、新鮮な気分である。ここ最近色々あったからだろう。


「へへっ、藤堂久しぶりじゃん!」


「……いや、一昨日の企業訪問では一緒だった気がする」


「細かい事はいいじゃん! 昨日は私が用事あったからさ。あっ、そういえば道場さん大丈夫だった?」


 企業訪問の後、道場は約束の時間に来ることが出来なかった。

 道場はカフェの前で力尽きていた。

 病院に運び、大事には至らなかった。あの時の道場の顔は妙に印象的であった。


「ああ、後に残る怪我もない。ただの疲労であった。それに落としたスマホも……道場の元へ返ってきた」


 道場はスマホを落としたから遅れてしまった。としか言わなかった。

 何度も何度も俺たちに謝った。途中、疲労と怪我のせいで眠ってしまったが、うわ言でも謝っていた。


 病院に着いて起きた時の道場はスッキリとした顔であった。

 俺はそれ以上何も聞かなかった。俺はただ病院に連れていき、親御さんに連絡をしただけである。


 昨日、俺は昔の教室へと出向いた。佐々木と五十嵐に会いに行くついでに、道場の様子を伺おうと思った。


 道場は一人であった。手には自分のスマホを見ながら勉強している姿があった。不思議な光景であった。

 道場は企業訪問の時は、友達からからかわれていたはずなのに、教室ではクラスメイトが誰も道場に干渉しようとしない。

 まさに孤高という言葉がぴったりである。

 それなのに寂しさや不安、孤独感、悲壮感が感じられなかった。


 俺はこの時思った。道場は前に進んだんだろう――




「そうなんだ……。道場さんよかったね。藤堂と話す事が出来て」


「俺と? 何故だ?」


 田中はキョトンとした顔になった。


「彼女は自分の心をリセットできたんだよ。藤堂に触れて――色々な感情が落ち着いたんじゃないかな? 多分じゃん?」


 人は不思議なものである。

 道場は駄目な子であった。それなのに今は前向きに生きようとしている。

 別人を見ている気分であった。


 視線を感じる。

 田中が俺の事を見つめていた。


「む、むむ、ど、どうした? 流石に恥ずかしい」


「あ、ごめん。ふふ、だって藤堂と関わって道場さんは良い方向に進めそうなんだよ? 嬉しいじゃん!」


 俺が関わる事によって、道場が良い方向に進んだのか――

 簡単な言葉に聞こえたが、俺には衝撃的であった。


 俺は自分の事を大した人間ではないと思っている。

 だから、俺がそこまで人を左右するなんて思わなかった。


「――藤堂はね、自己評価が低いの。勉強も運動も出来るけど、一番素敵な所は……純粋で優しいの。だからみんな惹かれるじゃん――」


「だ、だが、俺はみんなから馬鹿にされていた。正直、俺と一緒にいて田中が、花園が――馬鹿にされないか不安になる時がある。……少しは成長したと思う。だが、いまだに口下手は治らない。知らない学生と話すと緊張してしまう。アルバイト仲間とうまく付き合える気がしない――」


 そうだ、俺は不器用である。

 それでも――田中は――


「そんな不器用な藤堂がいいんじゃん。……それにね、過去は気にしなくていいの。私は――私達はそんな藤堂と一緒にいたい」


 田中の優しさが俺に伝わる。お世辞で言っているわけではない。

 だから俺も真剣に答えた。


「――ありがとう。こ、これからも迷惑かけるかも知れないがよろしく頼む」


「うん、任せてじゃん! あっ、そうだ、この前カフェに行けなかったから、みんなで行こうよ! せっかくだから……」


 田中は口を閉じてしまった。残念そうな顔をしている。

 誰かがホールに入ってきた。





「ふーっ、お疲れ様っと!! あっ、田中ちゃんいるよ、ラッキー!」


 大学生のアルバイトスタッフ三人が出勤してきた。着替えを終えてここで出勤時間まで待つつもりだ。

 確か田所と同じ大学である。


 俺たちは会話を止めて会釈をする。


「え、なになに? どこか行く約束してたの? へー、青春って感じでいいねー」

「藤堂と田中ちゃんってできてたの? 俺ショックだわー」

「馬鹿ね。高校生にかまってないでレポートまとめなさいよ! 田所みたいになっちゃうよ?」


 よくある事である。

 俺はアルバイト大学生の集団が苦手だ。

 更衣室では一切話さないのに、グループを組むと途端に態度が変わる。


 嫌な感情に包まれる。田中とお喋りしていた高揚感が消えそうになる。

 田中も無言になっていた。このまま時間が過ぎるのを待つだけだ。


「ちっ、相変わらず付き合い悪いな……」

「てか、藤堂って何考えてるかわからねえよな? 真面目に仕事してて疲れねえ?」

「馬鹿ね、あんたたちよりもイケメンでしょ? まあ無愛想だけどね」


 こういう時は何度もあった。

 俺はどうしていいかわからなかった。俺に話しかけているふりをしながら仲間同士で会話をしている。

 俺を――話のネタにしているだけだ。


 このままだと、せっかくの良い気分が台無しになる。

 大学生たちに悪意があるわけじゃない。これが彼らの日常なんだ。


 田中が席を立とうとした。

 そうだ、この状況なら話をしても仕方ない。俺はてっきり田中が更衣室に向かうのかと思った。

 俺の手を取ってくれた。


「ほら、藤堂、行こ。外で話した方が気持ちいいじゃん!」


 俺は固まってしまった。

 好奇な視線が俺に刺さる。俺が嫌いな視線だ。だが今はそんなものはどうでもいい。


「おっ、田中ちゃんマジ!?」

「おいおい、茶化すなって! 可愛らしいじゃねえかよ」


 田中は外野の声を無視する。

 田中は言っていた。――流せばいいって。


 でも、俺は不器用だ。そんな事は出来ない。俺だけだったら我慢できるけど――

 田中を――


 だから、前に進むんだ。はっきりと思っている事を言うんだ。


「え? と、藤堂?」


 俺も立ち上がり、田中に向かって小さく頷いた。

 


「田中は俺にとって大切な人だ。――これ以上俺たちを馬鹿にするな」

 


 存外落ち着いた声色であった。

 好意は消えてなくなったはずだ。だが俺の心の中に小さな何かがある。

 それが何かわからない。記録にない感情であった。


 田中の事を想うと――花園が頭に浮かぶ。

 花園の事を考えると、田中が頭に浮かぶ。


 道場の心配をすると、笹身が心配になってくる。


 みんな俺の事を都合の良い男だと認識していると思っていた。

 胸の痛みはリセットで消してしまえばいいと思っていた。

 だが、そんな簡単な事ではなかった。


 リセットしても関わりは消えてなくならない。これはリセットしてから始まった青春である。


「お、おい、た、ただの冗談だろ?」

「そんな顔すんなって、な? 悪かったよ」


 こんな戯言にはもう屈しない。俺の心が弱かったんだ。

 人と話すのが苦手なのは変わらない。

 俺の本質は変わらない。それでも――俺は足掻く。


 いつか本当の意味で、人の心をわかる時までは――



「すまないが、仕事の時間だろう? もう一度言うが、俺は今、大切な――人と会話をしているんだ。君たちはただの部外者だ。これ以上関わらないで欲しい」



 バツが悪そうにホールから出ていく大学生たち。

 田中が俺に近付いて来た。


「ね、ねえ、大丈夫? 藤堂、あんなにはっきり言うとは思わなかったじゃん。しかもそんなに怖くなかったし……」


「そうだな、俺もあんなに言葉がはっきり出るとは思わなかった。……ただこの時間を邪魔されたくないと思っただけだ――」


「う、嬉しいじゃん……、へへ、大切な――人……」


 田中が俺の肩にぶつかって来た。


「む、い、痛いじゃないか」


 本当は痛くない。恥ずかしさを誤魔化しているだけだ。

 俺の胸がポカポカしてる。

 これはなんだ? 懐かしい気持ちで一杯だ。


「花園にも会いたいな――」


「え!? こ、ここで華ちゃんかーー!! うぅ……幼馴染パワー恐るべしじゃん!? じゃあ今日は帰りに華ちゃん誘って公園でケーキ食べようか?」


 魅力的な提案だ。

 ちょっと前の俺の生活では考えられない。


「ああ、せっかくなら俺の家でコーヒーを入れてあげたい。いつもお世話になっている二人に、せめてものお礼だ」


「お、おうち!? ちょ、恥ずかしいじゃん……、で、でも華ちゃんと一緒なら――」


「そうと決まれば頑張ってバイトを終わらそう。今日は夕方まで――」


 田中は俺の顔を見て固まっていた。

 俺はそれを不思議そうに見た。


「藤堂? 大丈夫? 無理してないよね?」





 俺は言葉の意味がわからなかった。

 そうか、これは顔から汗が出ているんだな。感情が高まるといつもそうだ。

 大丈夫と言ったら安心するだろう。

 ……なのに言葉が詰まって出ない。

 これはなんだ? 俺に何が起きたんだ?


 誰かが嗚咽を洩らしていた。

 田中は心配そうに見ているだけである。

 俺しかいなかった。


 



 ああ、理解した――俺は自分にとって大切な人が誰かわかった瞬間なんだ。普通の青春というものが実感できた瞬間なんだ。特別な瞬間なんだ。

 自分の心が少しだけわかったんだ。



 わかっていた、俺は普通じゃなかった。



 大丈夫だ。きっと俺は普通になれる。

 大切な人の為に普通になるんだ。



 駄目だ、目から――涙――が止まらない。

 今までずっと憧れていた普通の生活。ネット越しでしかみたこと無かったそれ。誰も想像が出来ない苦しみの小学校生活、馬鹿にされ続けて予想と違った中学校生活。人とうまく関われない自分が悔しかった――それでも、間違えだらけの俺に手を差し伸べてくれた友達がいた。


 過去の記録が強く浮かび上がる。

 それは頭の中で形を成して、俺の感情を揺さぶる。


 俺は強く感じた。

 これが――俺が望んだ普通の青春なんだ――


 田中、それに花園――。道場も笹身も佐々木も五十嵐も弟君も――

 友達だった犬と猫の姿も頭に浮かんだ。愛おしい姿であった。



「ぐっ……これ……は……、う、嬉し……泣き……だ――」



 うまく言葉が出せないから心の中で感謝を述べる。



 ――ありがとう。俺はみんながいなかったら――普通の青春なんて出来なかった。



 田中はそんな俺が泣き止むまで待っててくれた――





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