第21話 白銀の雪



 長い廊下を歩き、角をいくつか曲がった先にある奥まった部屋の前で立ち止まり「こちらでございます」と一礼した。欧州から取り寄せたのであろう重厚な扉がしつらえられた部屋であった。

 羽崎は部屋の鍵を開けて道を貴之たちに譲った。部屋は絨毯敷きの床にベッドが一つ置かれただけの簡素なものだった。三つある窓はすべて塞がれ、明かりはすべて天井から吊り下げられた洒落たライトのみであった。

 もともとは、客間であろう。塞がれる前は、おそらく正面にある窓から中庭が伺えたはずだ。

 ドアを開けた瞬間から残る瘴気が鼻についた。肩に乗ったままの宮が嫌そうに鼻を掻く。応接間よりも色の濃い瘴気は、まだ室内に充満していた。


(この空気じゃ、治らないのも無理ないな)


「と、祝子ときこ……さん。失礼いたしますね……」


 ためらいがちに声を掛けつつ、雪乃は祝子の傍らにそそと歩み寄る。顔を覗き込んだ雪乃は小さく悲鳴を上げた。

 遠目にしか見たことがないが、明るく朗らかだった祝子の頬は、げっそり別人のように痩こけていた。


「祝子さん……このような……」


 雪乃は震える声で呟いた。雪乃は痩けた頬に手を伸ばす。


「いけないっ」


 焦って声を掛けるが、雪乃の指が頬をそっと撫でた瞬間――


「いやあぁぁぁぁっ!」


 突如、半狂乱となった祝子が、滅茶苦茶に手を振った。

 振り回された手は雪乃の頬に当たり、乾いた音を室内に響かせた。勢いで尻餅をつきそうになった雪乃を、すんでで抱きとめる。


「雪乃ちゃんっ、大丈夫?」


 声を掛けるも、張られた頬を押さえるでもなく、貴之の腕の中で呆然と祝子を見つめていた。祝子は怯えきった様子で震えていた。


「ごめんなさい。ごめんなさい……お婆さまっ! ごめんなさいぃ……」


 雪乃たちのことも見えていないのか、しきりに祖母への謝罪を口にする。とりあえず雪乃を立たせてやりながら「大丈夫?」と再び声を掛けた。

 貴之の声も耳に入らないのか、雪乃は怯え悶える祝子を呆然と見つめていた。


「ねえ、貴之……今までの被害者は、このような状態になったあと、どうなった? あの男は……どうなった?」


 あの男とは先の大工のことだろうか。貴之が出張していた間、雪乃は数人の面倒を見てくれていた。帰宅後は貴之が引き継ぎ、雪乃は関与していなかった。

 声をいささか震えさせつつも、祝子から目を逸らすことなく、平静な声音で雪乃は問うた。雪乃はある程度まで覚悟を決めたようだと感じたので、包み隠さず雪乃に伝えた。


「生きてるよ……なんとかね。総勢二十八名――祝子ちゃんを含め、二十九名だけど――全員が錯乱し、発見が早かった者はおおよそ快方に向っているよ。何とか話したりできるくらいにね。でも、発生から七日以上が経った被害者二十二名は全員が死に至っている」


 告げたその瞬間、雪乃の体が震えたのが伝わってきた。雪乃の顔はやや青ざめ、唇を切れるのではないかというほど噛み締めていた。


「祝子さんは……霊感がある上に、物の怪好きする性質なんだ」


 ポツリと雪乃は呟く。貴之は雪乃の呟きに「なるほど」と納得する。

 時々いるのだが、物の怪と相性がいい、物の怪を引き寄せる体質のことを「物の怪好きする」と呼ぶ。物の怪好きする体質の者は、大抵どこかの霊的な組織と関わりを持って自己防衛の術を身につけるが、祝子は財閥令嬢ゆえに、かえって組織とは無縁で育ち、禍したということだ。


「守袋を渡したのだ。よく悪いものを背負っておられる故、初めてお会いした頃から、時折……守袋を作って渡したのに」


 腕の中の雪乃は喉を震わせた。数秒の沈黙の後、雪乃は咽ぶように呟いた。


「また、守れなかった」


 雪乃の言う「また」が、祝子が危険な目に遭ったのが複数回あるのか、泰雪のことも含めてなのかわからない。いずれにせよ、悔恨に震える雪乃に何も言ってやれなくて、支える手に力を込めた。


「どう……すればよい?」


 やがて、震える声で問うた。考えに考えたのであろうが、はっきり方針を決めかねているに相違ない。触れた雪乃の震える身体から不安と迷いが感じられる。

 無理もないと、貴之は思う。中途入学で、しかも普通の女の子との集団生活ということで緊張していた雪乃に、最初に笑い掛けてくれた子であったと雪宮から聞いている。

 今でも一番の仲良しの友人である。学校帰りに仲良く寄り道したり、買い物を楽しんでいる姿を時折ちらほら見かけた。

 今までの経験則からいって、貴之は祝子の予後は想像がつくが、あえて言わずに逆に問い返してみる。


「どうすればいいと思う?」


 一つの件に真剣に取り組むことによる効果は大きいだろう。雪乃の修行によいであろうと思うが、利用するようで祝子に悪いなと、貴之は内心で密かに詫びた。


「まずは、瘴気を払うこと。次いで、傷ついた竜門を修復してやることだ。でも、お体が弱っている上に、これほどの瘴気……下手な術を使ったら命に関わるやも知れぬ」


 語尾になるほど力なくなってしまう雪乃がほほえましい。が、ここは笑みを噛み殺して、努めて優しい声で少しゆっくりと話す。


「そうだね。そういう時は、まずこの場をできるだけ綺麗に祓ってから、一度とにかく加減した術で、祝子ちゃんの瘴気を可能な限り祓ってしまう。肝心なのは、無理に祓わないこと」


 雪乃はゆるりと貴之を見上げる。自信のなさそうな気弱な視線に、貴之は苦笑いをこぼしそうになって、慌てて己を戒めた。


(自信ないんだね、雪乃ちゃん。まだ術の精度は甘いけど、ちゃんと力は持ってるんだよ、君は)


 心中で語り掛けてから、じっくり続きを説明する。


「衰弱した体に負担を掛けないことは、大事だよ。あと、祝子ちゃんの瘴気を祓った以降も、清めの香でできるだけ場の空気を正常に保つように。回復は早くなるからね。あの大工の人も雪乃ちゃんが奥さんに香を渡してくれていたから、予想より回復してる。まだ支えられて起き上がれる程度だけどね」


 大工の男は、ぎりぎり七日であったので、助けられるか微妙なところだった。若く、元々の活力があったのも影響しているだろうが、大工の妻がきちんと香を焚いてくれたのが決め手だったと貴之は思う。


「ああ、それは重畳だな」


 声はか細かったが、表情のこわばりが、少し和らいだ。


「今迄の経験則から殺生鬼に遭遇してから七日が境界線だろう。ただ、祝子ちゃんは若いから、適切な処置で助けられると僕は診るよ。雪乃ちゃんは守れなかったというけど、守袋の効果は一定あったと思う。竜門の乱れが思ったほど酷くない」


 雪姫から祝子に不動明王の身代わり符を縫い込んだ守袋に、弁財天の護身咒法をかけたものを渡していると報告を受けている。身代わり符が致命傷を防ぎ、咒法がぎりぎり瘴気の毒から守っている。


(七日何もしていないわりには状態はいい。それこそ、大工の人よりは乱れていない。でも気になるのは……)


 貴之の見解を述べてから「ただ」と付け足す。いささか迷いながらも、言葉を選んで正直に続ける。


「この前の大工の人よりは体力がないから、回復にはかなり時間がかかるかもね」

「うむ。……そうか。……では、私は場を清浄にする。貴様は祝子さんを……頼む」


 話すうちに気弱な色は消え、強い意志が滲んだ。ただ後半は己の力量では祝子自身への施術を無理と判断し、他人に託さねばならない悔しさが滲んでいた。

 だが、最後の「頼む」に雪乃の信頼の情が滲んで感じられ、貴之の胸の内がじんと熱くなった。雪乃は背筋を伸ばして立ち、双眸に凛と強い光を感じた。

 貴之がうなづくと、雪乃はゆっくりと部屋の中央付近まで行き、一拍うつ。音に乗せて清浄な霊気が波紋のように広がった。

 次いで、刀印で九字を切ると、室内に凝った瘴気が揺れる。一呼吸の後に組むのは、両手の指を組み合わせて握る、内縛印。


「ノウマクサンマンダ バサラダンセン ダマカラシャダ――」


 剣印・刀印を結び、真言を唱える。次々と印を結び、


「ノウマクサラバタタ ギャテイヤクサラバ ボケイビャクサラバ タタラセンダ――」


 朗々と真言を唱える声に迷いはなく、凛と力強い。高ぶった霊気の波動が空気をびゅうと鳴らして、瘴気を掻き乱す。


「オン キリウン キヤクウン!」


 諸天救勅しょてんきゅうちょく印いんにて真言を唱えると、瘴気の上に不思議な色合いの網が幾重にも顕現けんげんした。


「ノウマクサンマンダ バサラダンセン ダマカラシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン!」


 外縛印を組んで唱えると、雪乃のまとう眩い霊気と同じく眩い色へと変じ、瘴気は網に絡めとられた。遂には、完全に動きを封ぜられて霧散した。

 凛とした確かな作法であった。瘴気を封じた雪乃の所作に、貴之の口からわずかな吐息が漏れた。


(これが本来の、雪乃ちゃんの力なんだ……)


 綺羅星のような眩い霊気と凛とした立ち姿に胸が熱くなる。眩い霊気は白銀の雪のようだ。

 清らな雪の舞う白い世界の中、雪乃だけがくっきりと浮かび上がったように鮮やかに、凛々しく思えた。

 貴之は雪乃の姿に、鬼気迫るような美しさを見た。気高さを纏う雪乃に体が痺れるほどの澄みきった美しさを感じたのだ。

 小さな体を抱きしめてしまいたい。だが、ここで情動に浸るのは拙い。全ては後だと、己を戒める。

 祝子の周囲に清めのために塗香という、香木を砕いて作った粉末状の香を気を混めて振りまいた。祝子の苦しみを少しでも和らげようと鎮静の呪を唱えた。

 これから使う術は、施術者はもちろん、受術者にとっても負担は大きい。気休めにしかならないだろう。

 それでも、しないよりはよほどマシであろう。祝子の状態によっては、術の途中で中止し、別の方法も考えなくてはいけない。


(じゃ、頑張りましょうか)


「悪霊妖気邪気退散!」


 印を組み替えて結ぶは、智拳印。


「タリツ タボリツ ハラタボリツ タキメイタキメイ カラサンタン ウエンビ ソワカ!」


 ――大元帥明王に帰依し奉る。成就あれかし。

 白色の霊気が迸る。祝子の体を包みこみ、白炎となって燃え上がった。祝子の顔が、苦痛に歪む。

 女子の華奢な体にとっては、耐えがたい苦痛であろう。己の両手で喉元に爪を立て、掻き毟ろうとしているのか、首を絞めようとしているのか分からないが、呻き声を上げながら藻掻いている。

 もがく祝子は哀れだが、苦しみと引き換えるように揺れる白い焔に焼かれて、瘴気が少しずつ滅していく。霊気の放出を抑えながら、印を組みなおす。


「急急如律令。以漸悉令滅!」


 祝子に巣くう瘴気の大半を焼き尽くしたのを確認して、貴之は合掌して「成就」と締めた。

 術を終えた途端に、どっと汗が噴き出し、一気に体が冷えた。

 祝子の状態を見ながら加減しての施術の、なんと難しいことか。全力で術を放ったほうが、まだ何倍もマシであると貴之は改めて思う。

 情けなくも、たった数分のことでへたり込みそうになる。辛うじて踏ん張って、祝子の様子を伺う。

 顔色は土気色になっているが、脈は弱いながらも、確かにある。


(あとは定期的な治癒と、この子の力で治るだろう。ま、それでも一応は……)


「雪宮や、とりあえず今日一日は、祝子ちゃんの傍にいておくれ」


 命じると「かしこまりました」とベッドに上がる。傍にいれば守りと癒しに特化させた雪宮の影響を受けるだろう。祝子はまず心配ないと思われる。

 祝子の様子に気を揉んでいるが、何をしていいのか皆目わからなくて、もどかしげに立っている雪乃の姿に、小さく笑みをこぼす。


「雪乃ちゃん」


 膝をついて小さく「おいでおいで」と手招きすると、雪乃はほっとしたように貴之の傍まで来る。

 雪乃の手を取ってベッドの傍らに膝をつかせ、祝子の手を握らせる。雪乃の手を包むように握って、


「宮を傍にいさせるけど、少しこうしてから帰ろうね」


 気を送りながら提案すると、雪乃はしばし無言であったが、やがて「貴之」と呟いた。


「……ありがとう」


 小さな、心の籠もった一言に、貴之は頬をほころばせた。



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