第20話 祝子(ときこ)


「貴様、何をしに来た」


 雪乃は怒りつつも、微笑を浮かべて小声で叱りつけるという器用な真似をしていた。

「女性は顔で笑っていても怒っていることがあるから難しい」と浅草の行きつけの店で常連と立ち話をしたことがある。


(女性は器用だね)


 つくづく感心する。


「雪乃ちゃんのお迎えだよ」

「私は頼んでいない!」

「雪乃ちゃんの女学生姿が見たくって来ちゃった」

「ふざけるな! 家でも見られるだろうが」

「だってすぐに着替えちゃうじゃない。じっくり見たかったんだよ」

「図々しい!」


 打てば響くような反応を見せつつ、つかつかと早足に裏道を急ぐように進んでいく。貴之と雪乃の体格差があるため、雪乃には早足でも、貴之にとってはさしたる労もなく追いつけるものだった。多分、それも気に入らないのだと察しているが、言うとさらに怒るだろうことは容易に予想がついた。

 というわけで、怒れる雪乃に貴之はへらへらと笑いながら答え、雪乃の怒りを受け止めることなくひらひらとかわす。かわしながら怒りが治まっていくのをひたすら待つ。

 しかし、今日は怒りが続く時間が長いなと貴之は感じていた。

「おかんむりだなぁ」と小さくぼやく。

「貴さまがいけないのですよ。ご友人の前でご婚約のことを仰るから」と肩に乗った雪宮がやんわりと苦言を呈する。


「え? そう? ちょっとした意趣返しだったんだけどね」


 雪乃に気取られないように小声で雪宮に返すと

「まだ完全に受け入れてはいらっしゃらないところに人前で仰るのは、あまりに配慮がなさすぎなのですよ。もっと女性の繊細な心というものに思いを寄せてください。もう少しご内室さまのお心に寄り添わねば、お心はつかめませんよ」と雪宮は珍しく苦言を続けた。


『ああ、申し遅れました。僕は天海貴之と申します。雪乃さんの兄上と懇意にしておりますご縁で、神無月の家に住まわせてもらっております。雪乃さんとは、将来を言い交わした仲です』


 この説明は間違ってはいないと貴之は思う。貴之は泰雪とは友人関係だ。そこは間違ってはいない。居候しているのも間違っていない。婚約も泰雪の勧めで行ったが、契約書のような覚書を作ったわけでもないし、結納のようなことをしたわけではない。だから、口約束をすること、特に結婚することを意味する「言い交わした」という表現は間違ってはいない。

「間違っていない、ということが、必ずしも正しいわけではありません」と貴之の心を見透かした雪宮の言葉に二の句が継げない。

 ただ、雪乃の希望ではない。

 その一点だけでも雪乃には不服なのだ。

 女学校では、雪乃が書籍でみて憧れた〝女学生〟らしくなるよう、猫をかぶって生活している。しとやかな様を崩すような真似はできなくて、小声で苦情を言うより他はないのが腹立たしいのだろう。

 そこは認めなければいけない。ただ、雪乃を宥めるだけの信頼も、口の上手さも持ち合わせていないので、ひたすら憤懣の聞き役に徹するほかはない。


「あ、電車来るよ」


 ちょうど市電がゆっくりと近づいてきていた。市電を停め、乗降口の高い段差に手をかして雪乃を乗せた。貴之も貴之と雪乃が乗り込むとまたゆっくりと走り始める。車内は比較的混んでいたが、座席に並んで座れた。

 昨年の震災で送電が途絶し、また車両の焼失もあり、一時不通となった。だが、一週間もしないうちに一部区間で再開となり、今年の六月には全面復旧となった。だが、自家用車を持つものが増えたため、以前ほど混雑はしていない。

 雪乃の澄ました横顔から、微かな怒りを感じ取り、貴之は内心で困惑した。


(そんなに怒らなくてもいいのに……あ、この考えがダメって宮に叱られたよなぁ……うーん。しばらく待つしかないかな)


「貴さま、宮が「ご内室さまが日々のお勤めで疲れているでご登校なさったから、疲れているか心配して貴さまが見に行っただけだから怒らないでください」と言っているとお伝えください」


 雪宮の言葉に「え?」と戸惑いの言葉が漏れた。今回来たのは、単に女学生仕様の雪乃が見たかったというのが大きい。


「嘘も方便でございますよ」

「あ、うんそう……だね」

「どうなさいました? 先程から何やらこそこそと」


 こそこそとやり取りをしていた貴之と雪宮に、雪乃は微笑を崩さぬまま、おっとりと声をかけてくる。端に棘を潜ませた声にちくりと刺さったような痛みを感じたが、貴之は何も気づかなかったふりをして「いや、宮はね、雪乃ちゃんが……」と先程の雪宮の言葉を伝えた。


「ふん……」


 完璧な〝淑やかな女学生の顔〟を一瞬凍りつかせて、小さく雪乃は鼻を鳴らす。


(絶対嘘だと思われてる)


 貴之は確信した。


(どうしよう……怒られるかな……)


 内心どころか、実際に背筋に冷汗をかきながら、雪乃の反応を待った。

 雪乃は澄ました顔で、すーっと視線を前に戻した。どうやら追及はしないようだ。


(あー良かった。とりあえず助かった)


 問題の先送りでしかないにしろ、これ以上の追及がないことに、貴之は心底安堵しながら大人しく座ることにした。雪宮は貴之の姿に何かしら言いたげにしていたが、何もいう事はなく黙っていた。

 雪乃は市電に乗ってから雪宮が助け舟を出して以降は市電の中では、ふっつり口も開かず、閑静な邸宅地に入っても同様だった。邸宅地と言っても、普通の家の数倍以上の屋敷が連なる高級住宅地である。見たところ洋館が多いようだ。


「へぇー、祝子ときこちゃんのお家は、ここら辺りなんだ。思ったより近いねえ」

「煩い、黙れ!」


 貴之は数歩前を行く雪乃に明るく話題を振りまくが、雪乃は端的に言い捨てて、やや早足に歩いている。貴之は頑なな雪乃の背中を見つめて内心困惑した。


(ああ、まだ怒ってる……まあ、口を利いてくれ出したから、少しは怒りも収まってきたかな?)


 雪乃は学校では勉学も運動もよく努め、花のような顔に美しい微笑を浮かべて、清楚優雅で礼儀正しく、細やかな気配りのできる優等生である。下の学年からは「雪乃お姉さま」などと慕われている。

 雪乃の同期生が羨ましい反面、貴之には常に地を見せてくれるからいいかな……などと思っているあたり、やはり下僕根性が染み着いている。

 雪乃の友人である祝子の見舞いに自宅へ向っている。今日一日ずっと雪乃の間近に控えていた宮――泰雪の元へは姫を残している――から話を聞くと、祝子はしばらく学校に来ていないらしい。雪乃は昨日も見舞いに行ったが、会えなかったようである。

 延々と続いた煉瓦作りの壁が途切れたと思ったら、堅牢で洒落た施しのある鉄製の門扉が聳えていた。


「ごめんくださいませ、わたくし、祝子さんの同級生で、神無月雪乃と申します。祝子さんのお見舞いに参りました」


 呼び鈴を押して雪乃は、か細い声で来訪を告げた。いかにも友人宅へのおとないに緊張しているような姿は、しごく愛らしい。ただ、友人を気遣う雪乃の様子には、演技ではないものが感じられた。

 呼び鈴を押して待つこと、数分。やがて応対に出てきた初老の紳士――名を羽崎はざきという――は、雪乃の見舞いに何度も丁寧に頭を下げた。

 通された洋風の応接室で、羽崎は言葉を濁す。


「申し訳ありませんが、今日のところは、お引き取りください」


 理由を問うも、祝子との面会を頑として許さない。


「せめて一目、お会いすることは叶いませんか? 祝子さんが何日もお休みされてると伺って、雪乃は心配で……」

「お嬢様は、病身を親友に晒したくないと申されております。神無月様には何度もご足労頂いて申し訳ありませんが、お引取りください」


 維新後より海外と取引をして財を成しているという祝子の実家だけあって、明治初期の古めかしくも趣のある外観にあいまった、見事な調度品ばかりであった。洋風の調度品を眺めるのにもいささか飽きた頃、隣から吐息が聞こえてきた。


「どうしても、お会いできませんか……。ではせめて、これを祝子さんにお渡しください」


 雪乃は眼に涙を浮かべて、とても悲しそうな声で言いながら、袖から護符を取り出す。


「お加減が芳しくないと聞いておりましたので、大げさとは思いつつ、家人の伝手で高名な霊力者の先生に作っていただいた護符を持参いたしましたので、せめてお受け取りください」


 心痛を堪えて声を震わせながら護符を差し出す健気な姿に、羽崎はいたく感動したらしい。何度も礼を言いながら、護符に手を伸ばしたところで、びくりと細い体躯を震わせた。


「雪乃ちゃん……何でも術で解決しようとするのは、よくないよ」


 貴之が嗜めるように言うと、雪乃は血相を変え、語気荒く、捲し立てる。


「煩い! こうでもせねば、さっぱり埒が明かぬ。……それに、貴様も気付いておろう。この屋敷の異様な瘴気……絶対に何か、変事があったに決まっておる」

「どす黒い異物感を孕んだ瘴気はね、雪乃ちゃん、殺生鬼の瘴気だよ」

「やはり、これが……このように酷い瘴気は、いつぞやの大工の家で感じたものに似ていると思った。しかし、いやに濃い瘴気だ。あの大工より酷い」


 被害者に残った瘴気よりもなお濃い瘴気に、隣で控えている雪宮は鼻を掻いた。

「殺生鬼の出現は、おそらくここ何日かばかりのうちかと」という雪宮の言葉を伝えると、雪乃は「まことか?」と身を乗り出して宮に確認する。宮が頷くと、雪乃はすっと人差し指と中指を揃えた形――刀印を羽崎の鼻先に突きつける。


「益々もって、家人から話を聞かねばならぬな」

 雪乃は嫣然とした笑みを唇の端に浮かべて、重々しく告げる。

「〝貴様の知ることを、すべて話せ。祝子さんが倒れたのはいつだ〟」


 傲然と言霊をこめて言い放つと、焦点の定まらぬ羽崎は緩慢な仕草で顔を上げ、無機質な声音で話し始めた。


「七日前の夜半のことでございます」


(祝子嬢が遭遇したのは七日前か……厳しいな)


 貴之は雪乃には悟られないように、内心で呟いた。


「〝貴様はそのとき何をしていた。怪しいものを見たか〟」

「ふと目を覚ましたついでと、灯りを片手に見回りをしておりましたところ、中庭の電灯の下、着物姿の女が立っているのを発見いたしました」

「女? ……〝どんな女だ〟」

「年のころ二十歳前後の女。薄紫の着物で髪は長く、美しい女でした」


(殺生鬼は若い女の形か……)


 ようとして姿が知れなかった殺生鬼の情報を得るいい機会である。貴之も質問してみる。

「〝女は何をしていたのか教えて〟」


 貴之の問いにも答えるよう暗示をかける。操り人形状態なので、単純に問われたことしか答えないため、細かく質問してやらねばならない。


「直立に立ち、口の端を歪めて禍々しい笑みを浮かべているだけでした。ただ、ほんの数秒目を離した間に女は消え、同じ場所に老女が立っておりました」

「〝老女とはどんな老女かであるか〟」

「大奥様――祝子お嬢さまのお婆さまと瓜二つの姿でございました。しかし、大奥様は遠方にお住まいで、夜半に当家においでになるはずはなく……」


 暗示にかかった状態であるが、羽崎も困惑しているのか歯切れは悪い。


「他人に化ける能力があるのか……〝して、老女はそれからどうした〟」

「二階を、見上げておりました。祝子お嬢様のお部屋のあたりをじっとみつめて、皺の深い顔を禍々しく歪めて、可笑しそうに声もなく嗤っておましたが、唐突に姿を消しました」


 雪乃は唇を引き結んで、「〝それから?〟」と続きを促す。


「わかりません。わたくしは、祝子お嬢様のもとへ駆けつけました故に、老女の行方は存じません」

「〝祝子嬢の部屋に向ったのはなぜ?〟」


 硬い表情で視線を下げた雪乃に代わって、貴之は確認する。


「物音がいたしました。お嬢様の悲鳴のようなお声や言い争うようなお声が聞こえましたので、取りも直さず駆けつけました」

「〝争っていたの? 誰と、何と言っていた? 祝子嬢はどんな状態だったの?〟」

「存じません。部屋にはお嬢様お一人でございました。「ちがう。そんなつもりじゃない」、「ごめんなさいお婆さま」などとおっしゃって、お嬢様は酷く興奮なさっておいでで、わたくしの他にも何人かの家人が駆けつけましたが、そのこともお分かりになっておられないご様子でした」


 雪乃が無言で唇を噛んだのを目の端で捕らえた。雪宮が心配げに身を揺らすが、貴之は無言で背を撫でて、羽崎に質問する。


「〝その後の祝子嬢の様子は?〟」

「酷い興奮状態が続きましたので、侍医を呼んで鎮静剤を施しましたが、あまり効果なく、急遽別室を用意いたしました。一晩中興奮状態が続き、明けて昼頃にはまるで心を無くしてしまわれたかのように呆けていたかと思えば、うって変わって暴れてしまわれることがありまして、点滴もほとんどできる状態ではありません」


 術にかかった羽崎はどこまでも淡々と説明した。だが、内容はまるで口調と似つかわしくない、剣呑な話であった。


「行くぞ」


 一瞬、ふっと青ざめたような顔をした雪乃は、次の瞬間には感情を窺わせない決然たる表情を作っていた。


「〝祝子さんのところへ案内いたせ〟」


 さっと身を翻しながら、急に飽いたような声色で言った。


(予想通り、なかなか剣呑だね)


 雪乃の後を追いながら、密かに内心で困惑してしまう。

 殺生鬼の情報が入ったのは嬉しい誤算だ。幻惑能力があるらしいと推察していたぐらいで、被害者本人とまともに話ができていなかった。

 羽崎の話でいくつかわかったが、それでも未知数な部分は多く、危険性の高い相手だ。

 肩に乗った雪宮が「このまま御内室様を行かせてしまってよろしいのですか? ご覧になられて、決して愉快なものではございませんよ」と耳打ちする。

 宮の背を撫でてやりながら、そっと「止めて聞く子じゃないからね、暴走しないように頑張って止めるよ」と声を掛けた。

よく磨かれた廊下を歩きながら、今度は普通の声で雪宮に話しかける。


「はぁ~それにしても、いいお屋敷だねぇ。さすがは、明治の頃から欧州貿易で陶朱猗頓とうしゅいとんの富をなす財閥、鷹乃崎家ってところだね。造りも頑丈だし、結構、今風な趣も取り入れてるんだね~。お庭の配置も見事だ。見てごらん、宮。綺麗だね~」

「モダンな窓枠も大層ようございます。普段、馴染みはありませぬが、西洋のものは西洋もので、宮は好いてございます」と宮が女の子らしい意見を述べたとき――


「やかましいっ」


 一喝される。数歩前にいた雪乃は振り返り、切れのよい双眸を細めて睨みつける。


「きょろきょろしおって、みっともない。大人しゅうしておれっ」


「怒ったお顔も可愛いねぇ」と素直に感想を述べたあと、少しだけ意地悪く付け足す。


「術を使って言うこと聞かせたね、雪乃ちゃんは。……嘆くよ、きっと」


 誰が、とは言っていないが、かっと頬を染めて、雪乃は罰の悪さをごまかすように語気荒く捲し立てる。


「へらへら笑って嘘つくよりも、ましであろ! 天海とは、真紀子の実家の名で……」

「僕の母上の実家の名でもあるんだよ」


 雪乃が言葉を言い終わらないうちに、貴之はさらっと言った。雪乃の友人に「天海貴之」と名乗ったことを指して貴之を黙らそうとしたらしい。

 雪乃は、逆に虚を突かれたように「えっ?」と立ち尽くす。少し目を見開いて、ぽかんとした表情を雪乃が見せるのは、すこぶる珍しい。


「だから、まったくの縁も所縁もないわけじゃないんだよね」

「ちょ……ちょっとまて。……と、いうことは貴様は紀一の……」

「愛しの従兄弟ちゃんってわけ」

「信じられんな。何かの間違いではないのか」


 あまりにきっぱりと言い切られて、貴之は泣きたくなった。


「ひ、ひどい……。でも、確かにそうだよ。母上の実家は「天海」で、母上の妹の名は「真紀子」で、東京に嫁いだって聞いてるし、霊気の波長が母上と似ていたからね」


五つ離れているが仲のよい姉妹であったと母から聞いていた。常に行動を共にしていたという。どこまでも少女のような麗らかな性質が瓜二つで、すぐに母の妹だと知れた。


「私は……また聞いておらなんだぞ」


 ごちるようにぽつりと言った雪乃に、頬が緩んでしまう。見られて睨まれ、慌てて補足する。


「きいっちゃんは知らないよ。真紀子さんには、きいっちゃんと泰雪には言わないでねって、お願いしたから」


 真紀子は約束を破るような人ではないから、彼らが知ることはない。自分の母の旧姓が天海であると告げたのは真紀子だけであり、その折に先のことを頼んだわけである。

 真紀子の性格上、話す相手は良人等の口の堅い極少数だけであろう。


「なぜ……貴様は半端な真似をしたのだ?」


 口止めを泰雪と紀一のみに限定したことを指しての言葉に、貴之は一瞬どんな顔をしていいのかわからなくなった。曖昧な笑顔を作って、束の間ふっと考える。結局、曖昧な顔のままで、静かに言う。


「友達……単なる友達でいたかったんだ。ただ、それだけ」


初めて出逢った同年代の二人の前では〝紀一の従兄の貴之〟ではなく、〝ただの居候の貴之〟でいたかった。どうしても、そういう境遇がよかったのだ。


「ふん。まあいい。行くぞ」


雪乃は追求はせず、踵を返した。

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