第6話 誰もが通る道



 貴之はゆっくりと登ってゆき、階段を登りきる少し前で、雪乃は背から降りた。

 瘴気は本堂にあると依頼状に記されていたと、貴之は語っていた。本堂まではさほどの大事はないだろうが、やはり参道途中で止めるのがいいだろう。

 半ば倒壊したような朽ちた山門をくぐる。くぐった途端、濃い瘴気に袖口を押さえた。かなり妖気が活性化しているようだ。


「雪乃ちゃん、ちょっとお腹に力を入れて気を高めて集中させてごらん。それでも気持ち悪かったら、清めの呪を」

「わかっておる」


 むっとして言い返し気を集中させる。普段外に流れている霊気を集中させ盾となす。基本の術など、わざわざ言われなくても、ほぼ条件反射的に可能だ。気を集中させると、うっすらと輝く盾となって雪乃を覆う。


「うんうん。結構結構。じゃあ……この調子で、あっちもいってみよう」


 促すように振った手の先は、半壊した本堂を指していた。


「おい。貴様が受けた仕事であろうが」

「それがねー。雪乃ちゃんおんぶして階段を登ったから、疲れちゃった!」


 えへっとごまかし笑いを浮かべる貴之に怒鳴りつける。


「この、バカ貴之!」

「ごめんね? 修行だと思って、頑張ってね」


 納得したわけではない。だが、貴之が雪乃を負ぶったために疲れたから代わりにやってくれと言われたら、雪乃としては「貴様が不甲斐ないからだ!」とは言いにくい。


「では、大人しゅう、そこに控えていろ」


 貴之は「うーい」と調子よく返事して後ろに下がる。入れ替わるように雪乃は一歩前に出た。

 本堂はほとんど瘴気に包まれ、形もおぼろげにしかわからない。

 だが、七間程度の本堂からふつふつと溢れる瘴気。蒸気と違って消えることはない。室内に充満する湯気のように辺りに溢れてたまっていき、凝って乾きかけた墨のように端にたまっていく。

 朽ちた山門だったが、一応は結界の役割をまだ保っているらしい。

 おうおうと瘴気の生む臭気が渦巻いて、人の呻き声のような薄気味の悪い音を立てている。まさしく大気が鳴いているようだ。

 鳴動する大気に共鳴するかのように、木々が枝葉を鳴らす。鳴きながら渦巻いていた瘴気は、雪乃の存在に気づいたのだろう。

 霧のように掴み所のない存在であったのを、しっかとした存在に変えて、雪乃を屠ろうと集ってくる。不気味に鳴きながら迫ってくるのは獣のようである。

 嵐の逆巻く夜間の波濤にも似た瘴気の群れを、雪乃は見据えた。黒々と渦巻く渦に雪乃の着物の袖は翻り、切りそろえ整えた髪は強風によって、水藻のように招展かされ、揺れる。

 雪乃は、渦の半ば――一番力を感じる瘴気の中心を見据えて印を組み、呪を唱える。


「ナウマクサンマンダ バサラ ダン カン!」


 雪乃の内側から眩い光がほとばしる。焔の如く湧き上がった霊気が、瘴気の群れを本堂ごと包みこんで瘴気を喰らった。逆巻く瘴気が霧散し、後には静寂とも言える静けさが戻った。

 ふ、と息をついて印を解いて、雪乃をうっすらと包んでいた輝きも霧散させる。


「帰るぞ、バカ貴之。とりあえず、辺りを散策しながら妖の気を探りながら帰ろう」


 界隈を探って適当な場所に迎えに来てもらうのが一番いいだろう。タクシーは高価な上、東京市内――しかも、銀座あたりから来るのをいったいどれくらい待たなければならないか。時間と経費を考えると迎えに来させるのが無難だろうと考えつつ、振り返るとすぐ傍に貴之がいた。いつになく真摯な眼差しで前を見据えていた。


「いや……」

「貴之?」


 前を見据えたまま、掠れた声を出す貴之にどうしたのかと問おうとした瞬間、ぴっと空気が張り詰め、軋んだのを背に感じた。

 どうと背後で轟音が響く。瘴気が――いやもっと存在を感じるものは妖と呼ばれるものだ。


「……っ!」


 半ば振り返ったものの、地を割ってすでに眼前に迫っている妖の黒い触手に、雪乃は叫び声すら上げられなかった。


せん!」


 刀印を結んだ貴之が腕を一閃し、瘴気を薙ぎはらう。

 庇って一歩ささっと前に出た貴之は、落ち着いた声で雪乃に命じた。


「下がって」

「貴之! 大事無い! 私がやれる!」


 声を張り上げて主張してみるが、貴之は腕で制したまま雪乃を前に出さない。


「いや、僕がやる。一度は虚を突かれた相手だし、本当なら、あれで君は終わりだよ」


 貴之の言うことは、もっともだった。本来なら、あれで雪乃は殺られていたのだから。


「しかし……」


 貴之を警戒してか、呻くように鳴きながらも一定の距離を保っている。

 雪乃は貴之の背に半ば隠れながら、焔のように揺れる妖が何かに似ているとじっと見つめていた。

 だが、一瞬ちらっと見えたものに、雪乃は縫い取られたように動けなくなった。身が寒くもないのに震えている。


「貴之」と溜まってもいない唾を飲み込んで呼びかけた声は、やや掠れてしまう。

「あれが、瘴気の本体……だな?」


 胸に起こる嫌な感覚を抑えようと、ゆっくりとした口調で確かめるように問いかける。


「……そうだね」


 歯切れの悪い貴之の返事であったが、雪乃は構わず続ける。


「あれらが住みついたから、ここの瘴気が爆発的に増えたのだな」

「……おそらく」


 淡々と貴之は肯定した。

 雪乃は膝が萎え、後ずさりそうだった。でも、神無月の直系としての矜持が、辛うじて踏み留まらせた。

 喉が渇いているのか、ひりひりと痛むが、雪乃は問いかけを止められなかった。


「これは、震災の罹災者だな」


 喉の引き攣れる痛みよりも、目の前にある妄執と怨嗟に嘆く声に疼く胸の痛みのほうが苦しかった。

 震災の最大の罹災地は本所・深川と聞く。やや距離が離れているこの界隈も、家財の倒壊や、またところにより炎上し、数々の犠牲が出た。


「正確に言うと、被災者の念が集ったものだよ。どこの地のものか皆目わからないけど、地脈に乗ったか、瘴気に惹かれたか、なんにせよ震災後一年を経て、ここに集ったってところだね」


 淡々とした物言いの貴之の声も、どこか遠く聞こえる。見れば見るほど目の前の妖と化した魂に足がすくむ。

 哀れであり、また恐ろしい。妖は「封じてやらねばならぬ寂しいもの」と手ほどきの際に教えられてきて、雪乃は教えを疑いもしなかった。妖を恐れたことはなかった。でも、今、目の前の妖を現実に見て、足がすくんでいる。


(私の……私の咎だ……私が務めを果たさなかったから……)


 未曾有の大災害となった関東大震災のとき、神無月の直系として、術者としての責務を果たしていれば助かった命もあっただろう。

 そう思うと、足がすくんでしまう。また何もできず、動けない状態の己が、歯がゆくも情けない。


「ここは、僕が出るよ」

「でも……」

「雪乃ちゃん。その指で印が組めるの? 気を集中できる? できないなら、止めたほうがいい」


 聞いたこともないような――いや、一度だけ聞いたことのある真摯な声で、貴之はぴしりと言い放つ。雪乃は何も言えずに立ち尽くしていた。


「いかな力の持ち主でも、揺らいだら何にもならない。決めるまではともかく、決めた後は迷ったらいけない。下のものを無駄に消費させるだけだから」

「……貴之」

「泰雪は……決めたら、強いよ」


 喉が詰まって、何も言えなかった。泰雪の名を出されたら、雪乃は何も言えないではないか。


(ずるい……)


 心中には罵る言葉しか浮かばない。


「誰もが通る道だよ。……だから、今日は僕がやる。いいね」

「……うむ」


 一拍の間の葛藤の後、雪乃は頷いた。


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