第3話(1)

「これ、変じゃないかな?」


 姿見で確認してから、星奈は背後に控えていたエイジに尋ねてみた。

 二週間ぶりにきちんと服を着て、二週間ぶりにきちんとメイクをした。

 引きこもっている間に季節は移ろい、着るべきものも変わっている。毎日外出していればそれが感覚でわかるのだけれど、閉じこもっていたから星奈はまるで浦島太郎にでもなった気分がしている。だから、不安だった。


「色彩感覚やファッションの流行というものはわからないが、この時季の服装としては問題ないように思う」

「……それならよかった」


 エイジの口から「可愛い」とか「似合ってる」とかいう言葉が出るのを期待していたわけではないものの、あまりにも理屈っぽいことを言われて苦笑してしまった。

 こういう場合の望ましい受け答えを情報として収集させておくべきかと思うものの、面白いからやめておくことにした。それに率直な意見というものも、必要なときがあるかもしれない。


「じゃあ、行こうか」


 星奈はエイジを伴って家を出た。

 二週間ぶりの外の世界だ。

 そんなに長い時間、家に閉じこもっていることなど、これまでの人生ではなかったことだ。だから、感覚としては風邪をひいて何日も休んでしまって学校に行くときに似ている。不在の間に自分の居場所がなくなっていないだろうかと恐れるような、そんな気分が。

 けれども、風の匂いが少し春めいているくらいで、外の世界に大きな変化はなかった。

 瑛一を喪っても、星奈がいなくても、世界は変わることなどなかったのだ。

 当たり前のことだけれど、そのことは星奈をひどくほっとさせた。変わらずにいる場所があるというのは、すごくいい。簡単に世界が揺らがないというのは、救いだ。


「今からモノレールに乗って市街地まで行くからね」

「わかった」


 学生街からモノレールで数駅離れたところに市街地はある。日用品なら近所の店で事足りるのだけれど、おしゃれなものを買うなら絶対に市街地に出たほうがいい。デートをするときも。


「モノレールには乗ったことあるの?」


 いつもはIC乗車券にお金をチャージしてからモノレールや電車に乗るところを、今日はエイジがいるから切符を買った。


「いや……初めてだと思う」


 券売機に向かうのも改札を通り抜けるのもおぼつかないところはなかったから、てっきり研究所の真野や長谷川と練習しているのかと思った。それなのに、エイジから返ってきたのはそんな曖昧な返事だった。


「何それ。初めてかどうか、はっきりしないんだ?」


 エイジの答えが人間っぽい気がして、星奈はつい茶化すように笑ってしまった。でも、本人にとっては笑い事ではないらしい。考え込むようにうつむいてしまった。


「うん。……何だろ、わからない」

「そういうこともあるよね、きっと」


 表情が陰ったような気がして、星奈はあわてて話題を打ち切った。ロボットにも記憶が曖昧になるということだろう。特にエイジはいろんなことを覚えている最中だ。記憶が混濁することもあるに違いない。

 何となく触れてはいけないことだと感じて、星奈はハッと気がついた。まだ真野たちに一度もレポートを送っていないことに。

 エイジが来て三日目。一日一回と言われていたレポートをまだ一度も送っていないのはさすがにまずい。

 エイジのこの気になる様子も含めて今日はきちんと報告しようと心に決めたところで、モノレールは目的の駅についてしまった。

 モノレールの駅を降りてすぐ、にぎわっている通りに出る。その通り沿いにもオシャレな店はあるけれど、星奈が目指すのはその先の大型ショッピングモールだ。

 そこならメンズファッションの店が多く入っているし、何より常に人がたくさんいて店員に張りついて接客される可能性が低い。エイジはボディの継ぎ目を見なければ表情のあまりない人間に見えるけれど、やはりしげしげ眺められるのは避けたい。

 ショッピングモールに入ると、そこは大勢の人でにぎわっていた。とはいえ平日だし、中高生がまだ春休みに入っていないから人の出は少ないほうだ。


「もうすっかり春なんだね」


 メンズのフロアはレディースのフロアの上にある。エスカレーターで上階に行く途中に春物のコーディネートのディスプレイが目に入って、星奈は少し興味をひかれた。

 これが以前ならすぐにそのフロアに降り立って、マネキンが着ているものをチェックしただろう。どこのショップのものなのか確かめて、その店に足を運んだだろう。

 でも、今日はそんな気分になれない。何より今日の目的はエイジの服を買うことだ。

 少し悩んでから、星奈はメンズ向けのファストファッションの店に入った。カジュアルからきれいめまで揃う店といえば、やはりこういうところに限る。あまりメンズの店での買い物に慣れていないから、星奈にとってはこういう店のほうが入りやすい。


「エイジ、こういうの似合いそうだね」


 店に入ってすぐ、マネキンが着ていたTシャツとストレートジーンズにジャケットを合わせたきれいめなコーディネートに目が引かれた。

 こういった清潔感のあるこなれたコーディネートというのは、スラッとして整った男の子の特権だと星奈は思っていたのだけれど、瑛一は決してしてくれなかった。

 彼がファッションにおいてこだわっていたのは、バイクに乗っていて安全かどうかだけだ。

 一緒に買い物に行って星奈が手頃な値段でオシャレなものを見つけて勧めても、瑛一はそれを少し見るだけで「転けたらすぐ破ける」とか「何回か着たら風で縫い目が解けそう」などと言って買わないのだ。そして何万円もする古着のライダースジャケットなんかやそれに合わせたジーンズを、吟味に吟味を重ねてたまに購入していた。だから彼のワードローブは、なかなか増えることはなかった。


「セナは、こういう服装が好きなのか?」

「うん、好き。それに値段も手頃だしね」


 エイジが興味を示したようだったから、星奈は改めて値札を確認してみた。マネキンが着ている三点すべて購入しても、一万円で少しお釣りがくる。さすが学生たちに人気のファストファッションだ。


「ジーンズとTシャツは買いかな。でも、最近って春が短くてすぐに夏が来ちゃうから、とりあえずジャケットは見送りで。代わりに買うのはカーディガンかなあ」


 店内をグルッと見回すと、シンプルな柄の入ったTシャツに鮮やかな色のカーディガンを合わせたコーディネートも展示してあった。星奈は無難に白のTシャツを購入しようと考えていたけれど、胸のあたりに三本だけ細いボーダーが入ったTシャツが気になってしまった。マネキンはそのTシャツに黒のカーディガンを合わせているけれど、星奈の手はサックスブルーのものに伸びる。


「……やっぱり、似合う」


 サックスブルーのカーディガンを手にとって顔映りを確認してみると、それは驚くほどエイジに似合った。少し目の色素が薄いし肌も白めできれいだからか、明るい色がよく映える。


「今履いてるインディゴブルーのジーンズにも合うし、黒のチノパンかジーンズがあれば合わせやすいよね。それとオックスフォードシャツとTシャツが二枚くらいあれば、しばらく着回せるかな」


 ああでもないこうでもないと言いながら、星奈は選んだ服がエイジに似合うか確認していく。そしてカゴを取ってきて、気に入ったものを放り込んでいった。

 傍目からは、彼氏の服選びが楽しくて仕方がない彼女に見えるだろう。実際に、星奈は楽しんでいた。この二週間ずっと塞ぎ込んでいた反動かのように、とてもはしゃいでいた。

 

「セナ、楽しそうだな」


 そろそろ星奈が会計をしようかと考え始めた頃、ずっと黙って店の中を連れ回されていたエイジが言った。言葉の調子か光の当たり具合か、エイジの顔には微笑みが浮かんでいるように見える。


「私ばっかりはしゃいじゃって、ごめん。エイジの買い物なのにね」

「セナが楽しそうだからいい。それに買い物に興味があって、何か買いたいものがあったわけじゃないんだ。だから服でもティッシュでも、セナが買い物するところが見られればそれでいい」

「もう……ティッシュのことはひとまず忘れてよ。じゃあ、これ買ってくるからね」


 ロボットゆえなのか、寛大にプログラムされているのか、エイジの言葉は優しい。それが胸に刺さったのとティッシュのことを冷やかされたのが恥ずかしくて、カゴを手に星奈はさっさとレジへ向かった。

 でもその途中であることに気がついて、くるっと振り返る。


「この代金は、気にしなくていいからね。私がやりたくてやってることだし、エイジのことで報酬ももらえることになってるし」


 エイジに気にしないで欲しかったのと、本音が半々だった。

 言葉にしてみて、自身で妙に納得した。

 星奈はこうして男物の服を選んでみたかったのだ。バイク乗りの瑛一は星奈の選んだ服を着てはくれなかっただろうけれど、こうして一緒に選んで、それを贈ってみたかったのだ。あわよくばその選んだ服を着てもらって、デートがしてみたかったのだ。

 瑛一といるときにはさして意識しなかった願望が、いなくなって初めて表に出てくるなんて……。気づいてしまって、鼻の奥がツンと痛くなった。

 でも、涙は出てこなかったのは、昨日泣ける映画を見て散々泣いておいたのがよかったのかもしれない。閉じこもっていた二週間と昨日だけで、星奈はもう一生分涙を流した気がする。


「セナ、疲れてないか? 見てると、ここに来てからずっと興奮してるように見える。そろそろどこかに座って休んだらどうだ?」


 会計を済ませて店を出ると、エイジにそっと上着の袖をつままれ、そう提案された。数歩先を歩く星奈を呼びとめる方法がそれしか思いつかなかったのかと思うと、何だか可愛くて少し笑ってしまう。


「休憩かあ。そうだね。久しぶりに歩いたし、ヒールで足ちょっと痛いから、どこかで休もうかな」

「それなら、クレープ屋やアイスクリーム屋に行ったらいいと思う。女性は甘いものが好きだろう? それに、甘いものを食べるとドーパミンというやる気を出す神経伝達物質やセトロニンが分泌されていいらしい」


 どこかで軽くお昼ご飯を食べようかと思っていたのに、エイジが熱心にスイーツを勧めてくるのがおかしい。理屈っぽいことを言いつつも、本当は自分が興味があるだけなのだろう。

 そう思って、星奈は瑛一に初めてデートに誘われたときのことを思い出して笑った。そういえば瑛一も、何やら理屈っぽいことを言っていた。

 

「何で笑ってるんだ?」

「瑛一が……彼氏がね、初めて私をデートに誘ったときも、そんなこと言ってたなって。『今度、甘いものでも食べに行かない? 女の子って、甘いもの好きだろ』とか言ってきたから、何だろうなこの人って思いつつとりあえずデートしてみたんだけど、あとからわかったのは彼氏自身が甘党だったの」


 大学に入ってまだそんなに経っていない頃、一般教養などの講義で顔を合わせる程度の知り合いだった瑛一が、突然甘いものを食べに行こうと誘ってきたのだ。オシャレなケーキ屋さんがあるから、一緒に行こうと。

 最初は、“女なんてみんな甘いもの好き”と決めつけて誘ってきたのだろうと思っていた。でも、あまりに熱心に誘ってくるし、話を聞いているとどうにも詳しすぎるから、星奈は興味を持ったし、瑛一自身が甘党なのではないかど推測したのだ。

 そして実際に一緒に行ってみると瑛一が甘いもの好きだとはっきりわかった。

 一見するとクールで硬派でバイクにしか興味がない瑛一が、実はかなりの甘いもの好き――そのギャップに、星奈はやられてしまった。

 それに、カムフラージュのためとはいえ星奈を誘った理由が「牧村さんなら、俺が甘党ってわかっても面白がって言いふらしたりしないかなって」というものだったのも、星奈としては好感度アップのポイントだったのだ。

 

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