第2話(1)
星奈は久しぶりに幸福な夢を見た。
瑛一が泊まりに来ていて、朝に弱い星奈より早く起きだして朝食を作ってくれている夢だ。
物静かでクール系に見えるけれど、瑛一はかなりの甘党だ。だから、作る朝食もフレンチトーストやお砂糖たっぷりのスクランブルエッグなど、甘いものばかりだった。
夢の中、甘い香りをまとった瑛一が起こしに来てくれる。低く穏やかな声で名前を呼んで、優しく身体を揺さぶって。
それがあまりにも幸せな夢だったから、目覚めてすぐに、星奈は落胆した。
瑛一はどこにもいないし、甘い香りもしない。
けれども、絶望して泣かずにいられたのは、代わりにキッチンに立つエイジの姿が見え、卵の焼けるいい匂いがしていたからだ。
「おはよう、セナ。もう起きて、問題はない?」
星奈がベッドの上に起き上がったのに気づいて、キッチンからエイジが顔を覗かせた。問題はないかと聞かれて、星奈は昨夜のことを思いだした。
「そっか……昨日はお好み焼きを少し食べて、泣き疲れて眠っちゃったんだった」
星奈はあのまま、泣いて食事どころではなくなって、食べ残したお好み焼きにラップをかけて冷蔵庫にしまってから力尽きたのだ。何とかベッドに入ったけれど、その直後から記憶がない。
「すごくたくさん泣いて水分が抜けたはずだ。だから、補給しないと」
「ありがとう」
エイジから水の入ったコップを受け取り、それを飲み干した。ただの水道水なのにそれがひどくおいしく感じられるほど、エイジの言う通り喉が渇いていたらしい。
「そういえば、エイジはずっと起きてたの? ちゃんと休んだ?」
星奈は今頃になって、エイジには休息は必要なのか、休むとしたらどうすればいいのかを真野たちに確認していなかったことに気がついた。
「休んだ。そこで。基本的にセナが眠っているときや留守のときは、
「そうなんだ」
まるでパソコンみたいだなと思ったけれど、それは言わずにおいた。「そこで」とエイジが指さしたのが部屋の隅で、小さくなって休んでいる姿を想像するといじらしくて、そういった気遣いは間違いなく彼の“人間らしさ”だと思ったからだ。
「そんなに隅っこにいかなくていいからね。もっとくつろいで大丈夫だから」
「わかった」
星奈の体調を確認すると、エイジはまたひょいとキッチンに戻ってしまった。それから少しして、皿を片手に戻ってきた。
「目玉焼きを、作ってみた。食べられそうか?」
「朝食を作ってくれたんだ……ありがとう」
エイジが持ってきた皿には、おいしそうな目玉焼きが乗っていた。どうやら卵が焼ける匂いは夢ではなく、現実だったようだ。
「卵は焼くのと茹でるのはあの人たちから教わった。パンも焼けるけど、何枚食べる?」
「パンはいいや。ありがとう」
「飲み物は?」
「じゃあ、牛乳を」
星奈の注文を受け、エイジはキッチンへ行くと、牛乳の入ったグラスを手に戻ってきた。甲斐甲斐しいなと思いつつ、これが家庭にロボットがいる感覚かと星奈は感動した。
働きぶりに感心しつつも、ヒューマノイドロボットがここまで人間に近い姿をしている必要があるのかとふと思ってしまう。今の星奈にとっては、エイジのこの見た目や存在はちょうどいいのだけれど。
「セナの今日の予定はどうなってる?」
塩を振った目玉焼きをつついていると、エイジが隣に座って神妙に尋ねてきた。
「予定? 予定っていう予定はないかな。大学は春休みだし、バイトはまだ、お休みをもらってるし……」
カレンダーを見て、星奈の心は少し陰鬱になった。
今は三月。二月の初旬に後期課程の試験が終わり、春休みが始まっている。本来ならたくさんバイトのシフトを入れて、友達と遊びに行く約束をして、瑛一ともいろいろなところに出かけるはずだった。
それが、春休みが始まってすぐに瑛一が亡くなって、気がつけば二月は終わり、三月になっている。
四月になれば大学が始まるし、店長の厚意で休ませてもらっているとはいえ、いつまでもバイトを休んでいるわけにはいかない。カレンダーを見て冷静になると、自分がいかに甘え、甘やかされていたかわかる。
いくら親しい人が亡くなったとしても、二週間も塞ぎ込んでいる社会人はいない。どれだけ心の中につらい思いを抱えていても、それを押し隠して仕事をするのが当たり前なのだろう。
「予定を聞いたってことは、“やりたいことリスト”を消化したいってことだよね? どれにしようか?」
話しながら目玉焼きを食べ終えて、星奈はリストに視線を落とす。すると横からエイジの指が伸びてきて、あるひとつの項目を指差す。
「買い物に行こう」
「買い物、かあ……」
どうやらエイジは買い物に行きたいらしい。市街地にでも興味があるのだろうか。
星奈も買い物は好きだ。これが元気なときなら、嬉しい誘いだったと思う。
でも、今は市街地の人混みや熱気を思うと、足がすくむような気がした。
「……今日は買い物じゃなくて、こっちにしない?」
代わりに星奈が指差したのは、リストの「泣ける映画を見る」という項目だった。ロボットが泣くという感情に興味があるのが面白いし、映画を見て泣くのなら、苦もなく付き合えそうだと思ったのだ。
「うん。それなら、映画館に行くのか? それとも、レンタルショップか?」
「ううん。どっちでもないよ」
言いながら、星奈はノートパソコンの電源をつける。そして、動画サイトにアクセスした。
「映画は好きだから、月額で好きなだけ見られるサービスに入ってるんだ」
大学の講義では、たまに教授が勧める古典作品や芸術性の高いものを見ておく必要がある。図書館の視聴覚コーナーにあることも多いのだけれど、他の学生と競うようにして借りなければいけないのは面倒なため、この月額サービスに入会したのだ。
それに、星奈も瑛一も映画を見るのがわりと好きだった。邦画洋画アニメ映画こだわらず、これまでに様々なものを見てきた。
“泣ける映画”と検索しようとして、星奈はお気に入りを開いた。いずれ見たいものをワンクリックで登録しておける便利な機能だ。そこから、瑛一と一緒に見ようと思っていた作品をピックアップする。
「人が死んじゃうのは、嫌だよね……そんなの、わざわざ見なくたっていい。人が死んだら悲しいのは、当たり前なんだから」
瑛一と見たかった映画の一覧には、いわゆる“泣ける映画”があまりにも多かった。
余命が短い恋人と過ごす話。恋人の死後、その人が残したメッセージを探す話。幸せに愛し合った恋人たちの物語の結末が死の話。
そんな不幸が自分に降りかかるとは思ってもみなかったときは、それらの安易な泣けるモノが関心の対象だったのだ。
すれ違いや葛藤を描くよりも、より安直に“泣かせる”ことを目的に死を扱った作品が。
そういう作品を好む人たちや、その作品が存在していることを否定しようとは思わない。けれども、その不幸が絶対に自分に降りかからないと達観していた立場からその只中へと移り変わった今、進んで見ようとは思えない。
「人がただ死ぬだけでは、きっと見る者を涙させることはできないと思う。物語の中でその命に価値があって、意味があるから、それが喪われたとき悲しくなるんだと俺は思う」
お気に入りリストの中からあれも違うこれも違うと除外していく隣で、エイジがそうポツリと言った。
妙に理屈っぽい。ロボットだから仕方がないのかなと思いつつ、そういえば瑛一もこんなことを言っていた気がすると思い出した。
「そうだよね。それがたとえ作られた物語とはいえ『はい、登場人物が死んだぞ。泣け!』じゃ、泣けないもんね。その死を受け止めて、主人公たちがどんなふうに感じたのか、何を辛く思っているのか伝わるからこそ、視聴者は泣かされるわけだしね」
瑛一と二人でかつて、なぜ映画を見ると泣けてしまうのかという話をした。死を扱ったものだけでなく、登場人物たちの成功や挫折、苦悩を描いたものでも泣いてしまうのはなぜなのか、と。
たとえばサスペンス映画を見て、被害者が殺されたシーンには一切感情が動かなかったのに、犯人が追いつめられていき、殺人に至った事情や背景が暴かれたときには泣けてしまうということもある。
それはきっと、画面を通してその登場人物に感情移入したり、その人の体験を自分のことのように感じるからだろうというのが、二人が出した結論だった。
誰にでもわかる、ごくありふれた答え。でもそれを瑛一と二人で導き出せたことが、星奈にとっては大切で尊いことだったのだ。
「人間は娯楽を通して、自分の人生に起こり得ること、あるいは起こり得ないことを追体験する必要があるって真野が言ってた。それはロボットにも同様に必要だと」
「追体験、かあ。確かに、必要かもね」
だからといってやはり人が死ぬ映画はごめんだと思い、星奈は動物がメインの映画を二本、音楽に関する青春映画を一本見ることにした。
動物の映画は、評判やサムネイルの写真から泣けることは必至だ。もしかしたらエイジはこの二本で満足するかもしれない。だから、あとのもう一本は予備だ。面白そうだけれど、もしかしたら今は見たくないものかもしれない。
パソコンをテレビにつないで、星奈は一本目の映画を流し始めた。
一本目は、少女と犬が共に成長する物語だった。
ある日少女の家の庭に一匹の子犬が迷い込んでくる。少女はその犬を飼うことになり、余命幾ばくもない少女の母親が犬と暮らすにあたっての大切な十個の約束を少女にさせるのだ。
少女と子犬は途中で離れ離れになったり、また一緒に暮らすようになったり、長い時間、苦楽を共にする。それでもやはり、犬のほうが先に老いる。
けれどもこの物語の主題は愛犬の死ではなく、共に暮らした犬が飼い主に何をもたらし、どのように幸せをくれるかというものだった。
ラストで泣かされるだろうという予想に反して、星奈は序盤から泣いた。少女の母親の死が迫っているのを悟らせられるシーンですでに涙ぐみ、十個の約束をさせるところではボロボロ涙をこぼした。
犬と離れ離れになるところでも、再会するところでも、大きくなって幼馴染の少年と再会するところでも。とにかく、主人公の気持ちが揺れ動くところでは泣いた。
ここに今、瑛一がいたなら、「星奈はよく泣くなあ」と自分も鼻の頭と目を赤くして笑っただろう。
でも今は、隣に瑛一はいない。代わりにいるエイジはあまり表情のない顔でじっと見て、部屋の隅にいってしまっていたティッシュ箱を取ってきてくれた。
星奈はそれを受け取って、ありがたく涙と鼻水を拭った。
二本目の映画は、実際に起こったことをもとにした作品だった。
ある一家が地震で被災し、そこで飼われていた犬が自分の子犬たちや飼い主一家を守るために奮闘する。心配そうに鳴いてみたり、瓦礫から掘り出そうとしてみたり。その後、飼い主たちは救助ヘリに助けられるのだけれど、ペットはヘリに同乗できないため、犬たちは被災地に取り残されるのだ。
それから、犬はまだ小さな子犬たちを守りながら、飼い主と離れて二週間以上も生き延びなければならなくなる。
犬の健気な姿に、家族の繋がりに、被災地の人々の助け合いに、星奈はまたも涙した。飼い主たちと犬が再会できるのかわかるまで、不安でたまらなくて何度も嗚咽を漏らした。
終盤になるとずっと目元をティッシュで覆っていたから、犬の無事はエイジに、「犬、大丈夫。生きてる」と教えてもらって気づいたほどだ。
動物の映画を二本見て、泣きに泣いて星奈はまたカラカラになった。泣くことは体力を使うからか、久しぶりに心底お腹が空いたと思って、昨日の残りのお好み焼きを食べた。水もたくさん飲んだ。でも、映画の内容を思い出しながらエイジと話してまた泣くから、その水分補給が意味のあるものなのかわからなかった。
お昼すぎまでそうして泣ける映画を見てエイジは満足するかと思ったのに、まだ見たいという。これ以上泣かされるのかと星奈はためらったけれど、もう一本見つくろっていたものは青春映画だから大丈夫かと思って、結局は見ることにした。
それなのに、その日一番泣かされたのはその映画だった。
OL生活に希望もやりがいも見出だせないまま過ごしている主人公は、同棲しているバンドマンの恋人に背中を押される形で仕事を辞める。それなのに恋人は本気で音楽に打ち込む様子はなく、そのことに苛立った主人公は恋人と衝突してしまう。
そのときの喧嘩がきっかけで、恋人はバイトを辞めて退路を断って音楽活動に打ち込むものの、うまくいかない現実に打ちのめされて結局は主人公と別れることを決意する。
その後、恋人は主人公とよりを戻すことを決意して連絡してくるのだけれど、主人公のところへ向かう途中で事故に会い、死んでしまう。
その後主人公は自暴自棄になりながらも、最後は恋人が残した歌を彼がいたバンドのメンバーとライブで歌い上げるのだ。
星奈は途中までは、主人公たちの抱えるモヤモヤや葛藤に共感し、感情移入しながら見ていた。年齢が近いぶん、主人公たちの何者にもなれない焦燥感や、つまらない大人にはなりたくはないという苛立ちみたいなものがよく理解できた。
だからこそ、主人公が恋人と死別するという筋書きがきつかった。恋人はやっと何を選ぶのが幸せなのかを摑んだのに、それをなす前に、主人公に直接伝える前に死んでしまったということが。
恋人がバイク事故で死んでしまうというのも、星奈にはかなり
朝から泣ける映画を見て涙と鼻水を拭い続けた結果、家にあるティッシュをすべて使い切ってしまった。
嗚咽を漏らし、拭くものもなく涙と鼻水を流し続ける星奈を見かねたのか、エイジは「ここで拭いたらいい」と自分のトレーナーを指し示した。判断力を欠いていた星奈は、促されるままそこに顔を埋めた。エイジは、何も言わずじっと動かずにいてくれた。
これが瑛一なら、抱きしめて背中を撫でてくれただろう。エイジは、震える星奈の背中にそっと手を添えただけだった。けれど、それだけでもひとりきりで泣くよりもずっとよかった。
恋人が死んでしまうシーンを見たときは、なぜこの映画を選んでしまったのだろうと、正直言って後悔した。でも、終盤で主人公がライブのステージに立って恋人が遺した歌を歌うシーンを見て、その後悔はかなり薄れた。
主人公を演じた女優は、決して歌は上手ではなかった。それだけに、魂を込めて歌い上げるシーンは圧巻で、星奈は泣くのをやめて見入った。
恋人がこの世に存在したことを証明するために歌う主人公。恋人の死後、自暴自棄になっていたのに、その歌を歌おうと決めてからはがむしゃらにギターの練習をしていた。
その姿に、星奈はひどく心を動かされた。
どれだけ大切な人を喪ったとしても、自分の人生は続いていく。そこで突然ぷっつりと途切れたりしない。
そんな当たり前のことが、その映画を見たことで理解できたのだ。
簡単には乗り越えられない。涙も、枯れそうにない。
それでも星奈は、自分がまだ生きていて、人生が続いていくのだということを受け入れられる気がした。
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