第百四十八話 近づく約束
「お客は取らないとお花さんから聞いてないんですか?」
雛菊は東城の顔を見てそう言った。いつもの部屋で、化粧をして金の簪で琴の前に座りながら、そう言った。
「聞いたが、無理に頼み込んだんだ」
あの子のことをよろしく頼むと、女主人のお花は東城に頭を下げた。東城も雛菊も、それについては知らないふりで座敷にいる。
「明日の、そうだな……いつ迎えに来ようか」
チェインに確かめると、時間は不確かだという。
「いつでもどうぞ。根無草が二人ですもの。どこに行くでもないんでしょう?」
「言ったじゃないか。こことは別の世界だよ」
雛菊は茶化した。マホーで火が勝手についたりする世界、と語尾を上げた。
「そう。驚くだろうね」
(おい待て。この娘を連れて行くつもりか)
チェインの声には焦りがある。刀の一本くらいなら己の力の範疇だが、人間となると話が違ってくるらしい。
(そんなことはできないぞ。お前そのものだって運ばなくてはならんのだ、いっぺんに二人なんてできっこない)
(やれ。藤枝殺しの望みを叶えてやるのだから、そのくらいは死ぬ気でやれ)
(か、神に叶えてやるだと? 逆だ、俺が叶えてやるんだ)
(だったら叶えろ。あんまりおかしなことを言うな)
(馬鹿が。藤枝の次に死ぬのはお前だ。俺が殺す)
(フォルトナが先だよ)
その次がチェインだ、とは言わないが、そのつもりでいる。
「妙な世界。だからあなたも不思議な感じがするのでしょうね」
「俺はずっとこうだよ。それはお前が見てきた通りだ。この傷は返せないが、ああ、この話をお前は俺にしていなかったかな」
「……過去の自分にお会いしたのですか?」
雛菊は、きっと本人から聞いたのだろうと思った。その発想が面白くなって、東城は笑う。
「俺が俺に? そんなことする必要がないよ。あいつだって、自分の秘事を語ろうとはしないさ。それが自分自身だとしても、あいつにそんなことはわからない。説明しても、今の俺ほど柔軟ではないから」
「頭が痛くなりそうなことをおっしゃいますね」
そういえば、俺はジェネットさんに語ったな。と笑いながらも反省した。
(あれは、一時の気の迷い……でもないが、参ったな)
ジェネットにかかると自分が自分ではなくなる気がする。それは雛菊に対しても同じかもしれない。
「迎えにくるなどとは言わず、ここにいればよろしいのに」
「そうしたいが、ちょっと面倒に巻き込まれてな」
「いつものことじゃありませんか」
「そうなんだが、実は何人か斬ってきたばかりでな」
「……冗談、ではなさそうですね」
「うん。だから追われていると思っていい。空き部屋かどこかに隠れていようと思う」
でしたら、ここでも同じではありませんか。雛菊はそういうが、東城は違うらしい。
「窓をな」
「はい」
「窓を開けたくなるのよ。ここにいると俺は空を見たくなる」
「どうして。思えばあなたはずっとそこの窓辺にいますね。私がいるのに月ばかり。嫉妬しそうでした」
「あはは。気の利いたことを言おうとすれば、できる」
「では、どうぞ」
「言わないよ。照れるから」
勇気を振り絞り、しかし言った後で照れてはずがしがる無様さを、東城は経験している。ジェネットを前に何度かそれを味わった。
「照れてもいいじゃないですか。ぜひお聞きしたいのです」
「素直には慣れているし憧れもある。そうあるべきだし、そうならねばならん。だが——上手くいかないのさ」
「そのようですね。でもいつか聞かせてくださいね。なぜ私を買ったのかを」
「買いたくなったからよ」
「なぜ?」
「なぜって……いつか聞かせるよ」
「よかった。理由もなしに身請けしたんじゃなくって」
(俺には教えてくれ。吹聴したりせんから)
(うせろ。夜のうちは出てくるな)
(お前が呼んだんだろうが!)
幕末の空気は体に合う。寒くて、殺伐としていて、秋冬の全てがある気がした。自分に備わっているものがそこらじゅうにあるから好きなのだろうと思う。自分にないものしかないからあの世界が好きなのだと、ジェネットたちを想いもした。
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