第百四十一話 動乱の接近
東城は雛菊に、
「もうすぐここを離れる」
と言われたことがある。当時はどうも思わなかったし、そういうものだという諦観もあった。
彼女にそれを言った人物について考えもせず、東城は激動の時代を生き抜いた。
(ああ、俺が言ったことをそのまま俺に言ったのか)
妙に繋がっていそうな過去と未来を前にしても平然としている。冬の訪れとともに京はどんどん慌ただしくなる。年末年始のそれではなく、雪と血が際立つ物々しさによってである。
(おい、俺はあとどのくらいで戻れるんだ)
チェインを呼ぶと、すぐに返事がある。
(一週間もない。と思う。年明けの前には藤枝は俺たちの世界へ戻ってくる)
(なぜわかる)
(俺の使徒だった男のことだ、これくらいは造作もない)
つまりはお前の動向も、やつに知られているかもしれん。とチェインは憎々しげに言う。やつとは運命を司る女神フォルトナのことである。
(俺は使徒じゃない)
(フォルトナに唾をつけられているのだから同じことだ。こんな山の中で寝泊まりしているのだから、もう死ぬ覚悟はできているとみえるが)
挑発か鼓舞か曖昧である。東城は「さあな」と濁したが、それはこの時代の東城少年の頃からいつでも腹に抱えている。
(しかしあと一週間か。存外に短いな)
(藤枝の成長が異常なんだ。数ヶ月の予想だったが、半分もなかった)
(……この時代のものを持ち帰ったりできるのか? 刀を用意できればいいんだが)
太い騎士剣も手に馴染むようにはなったが、そこらの侍の刀ですら名刀のように感じてしまう。
(そのくらいなら平気だ。さすがにお前が足繁く通うあの店を、と言うのであれば話は別だが、刀の一本や二本くらいは簡単だ)
(そうか。まあ店を持って帰ったところでどうにもできんがな)
(あのフォルトナ信者の娘に土産でも買っていけ。喜ぶだろう)
(……お前らが彼女の名を出すときに、ろくなことはない)
(フォルトナのことか? 俺は違うよ、フォルトナが憎いだけで、その信者まで皆殺しにしようとはそれほど思っていない。改宗は大歓迎だし、愚かを崇めるのは不憫だもの)
土産といっても何も思いつかない。青春を過ごした土地のはずなのに、この都についてどれほどの詳しさもなかった。
月が出ている。雛菊に伝えなければならないことがある。一週間ほどでここを離れるから、それまでに用意をしておけと、一言程度交わして酒でも呑もうと、寝床にしている木の洞から起き出した。
「お前か。最近の人斬りは」
そこに侍がやってきた。十人ほどいた。
「なぜ薩長ばかりを狙う。恨みでもあるのか」
上司と部下の関係ではないのだろうが、しきり役の男が東城の顔に提灯を近づけた。
「そんなつもりはない。土佐訛りだろうが武州だろうが、岩手の連中だって斬ったさ」
東城は把握していないが、その男たちが調べたところ、十一人を殺し、二人の片腕を切り捨て、三人の指を落としている。
「人斬りよ、その手腕を幕府のために役立ててみないか」
「俺が? また?」
そして大きく笑った。どうなるかを知っているからこそばかばかしくなった。
そして少し泣いた。またあれを俺にやれと言う、何も知らないからこその無邪気な残酷さのためである。
「なぜ泣く。それにまたとはなんだ」
思わず声がかすむ。病人のような弱々しさだった。
「なんでもない。悪いが予定がある。引き受けることは——」
途中、小さく咳き込んだ。それが頷いたように見えたのか、侍はよかったと安堵して、東城の前で膝を折った。
浪人でもなさそうな奇妙な男に、しかも人斬りにするにはもったいないほど整った礼をした。下げた頭は木の根に触れそうであえる。後ろの侍たちもそれに従い、まるで東城が役人か貴人であるかのような敬い方である。
「ま、待て。俺は」
「かたじけない。幕府からの恩を忘れたものどもに貴方の忠義と腕前を、どうかお見せ願いたい」
嫌だと一喝したいのだが、彼らの本物の忠義にたじろいだ。
(偶然、むせてしまったなあ)
チェインが言った。東城は立ち上がり、自分の寝床であった木の洞を蹴り壊した。
「……腕は貸す。だが、一週間のうちだけだ」
ぜひ今後ともというような侍だが、渋々頷いた。東城の奇行と睨みに怯えている。
(何が偶然だ。貴様も殺す。必ずだ)
(やってみろ。まずは藤枝からやれ、あれは俺の使者だからなあ)
山道をくだる。先頭は東城だ。
罵声をあげて剣を抜きそうになるのだけは堪えた。鴨のヒナのように自分の後ろにくっつく連中のためである。
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