第二十五話 近づく異臭
「戦のにおいがしますね」
風呂を共にしてから数日後に、東城は朝からそんなことを言ってジェネットとバンローディアを困惑させた。
「えーと……このパンとスープのことじゃないよね」
「当たり前です。私が作ったんですから」
東城は美味しいですよと食事を続け、もうその話題には触れない。曖昧を嫌うジェネットだから、
「ねえ東城さん、戦のにおいってなんですか」
と率直にきいた。東城は口を拭いながら目だけで微笑んだ。
「水を汲みにいったとき、騎士たちが慌ただしかったし、行商も少し緊張していました」
それに、と目を擦った。右目である。
「ここの奥がなんだか疼くんです。こういうときは、喧嘩が起きる。まあ、これは勘ですけどね」
「本当に戦闘が起きるなら、私に通告があるはずだよ。忘れてもらっちゃ困る、これでも騎士なんだから」
「そ、そうですよ。東城さん、あんまり怖いことを言わないでください」
東城はあははと笑って、あとは美味しいですねと料理を褒め、食事が済むとジェネットとバンローディアを連れて騎士の営舎まで出向いた。
「昨晩の風呂の礼をしにいくんですよ」
ジェネットにはそうやって説明したが、
「バンさんには、ちょっとお話が」
と湿気のある視線をぶつけた。
「なんだよ、文句でもあんのかよ」
「ききたいことがあるだけですよ」
東城曰く戦さのにおいがあるらしい騎士たちの雰囲気は、ジェネットには特に日常と変らないものに見えた。執務室にいるハーベイにもおかしな様子はなかった。
「おはようございます。ハーベイさん」
「や、ジェネットさんに東城さん。おい、バン、なんでお前が」
「いてもいいっしょ」
軽口が激化する前に東城が口を挟んだ。
「昨日の件でバンさんに無理を言ってついてきてもらったのです。風呂を拝借したのですが、彼女の口添えだろうと思いまして」
「ああ、そのことですか。いいんですよ、バンローディアもようやく役に立ったというところでしょう」
「あのね隊長、これでも祈祷師なのよ。有事の際には口添え力添え、なんでもござれだっての」
有事の際、となんの気無しのバンローディアの言葉にハーベイの眉がかすかに動いた。東城はそれを見逃さなかった。
「それと、あの倉庫の修理なんですが」
「うちのものにやらせますよ」
「そういうわけには」
ごねると、バンローディアは飽きてあくびをし、ジェネットを連れて外に出ていった。
「祈祷師の打ち合わせがあるんだった」
と、言い訳を残した。珍しく東城がのらりくらりとごねたので、その妙な雰囲気を察したのもあるだろう。
ニコニコ顔の東城は、その顔つきのまま、
「戦が近いようですが」
と、ハーベイをぎょっとさせることを言った。
「近いからここにあなた方をおよびしたのです」
しかししらを切った。それでも東城は引き下がらない。
「兵たちに落ち着きがありません。これでも現場には慣れています、うまくいえませんが、戦さがすぐそこにある、そういう気がするのです」
ハーベイはじっと東城を見つめ、それがデタラメではないことを見抜いた。
「東城さん、それは他の誰かには」
「いいえ。先ほどジェネットさんとバンさんにだけそういう気がするとだけ」
「どうもあなたは、戦に慣れているというか、鼻がきくのでしょうな」
「そこにしかいませんでしたから」
笑みこそ絶やしていないが、ぞっとすることを言う。
ハーベイは静かに状況を説明し始めた。
「帝国兵が陣を築いているのです。冊と矢倉によって簡易的ではありますが」
東城が「数は」と息巻いた。
「百はいるだろうと。馬も十数頭いて、祈祷師は少なくとも一人」
「地図」
と言った。強い物言いは、まるで部下にするようなものである。これにはハーベイも顔をしかめたが、地図と繰り返されると従わなければならないような心地になった。
ハーベイは地図を広げたが、もっと詳細なものを要求された。しかし、どの地図も不明瞭である。
「……地形を詳しく知りたい。こちらの戦力も。馬はどうだ。武器はあの倉庫にあるもので全てか」
睨むようにハーベイを見た。その表情に映る自分にはっとして、
「失礼をいたしました」
と謝罪した。気まずそうに頭をかき、自分への戒めのつもりか、一歩下がった。
「これらはあなた方の領分ですね。俺は護衛。そうでしょう、そうでしょうとも」
「あ、いえ、ご説明いたします」
「いいのですか」
「役に立つものはなんでも使った方がいい。祈祷師でも、その護衛でも。国難です、悠長にはできない」
東城はここまでやっておいて、気後れしている。俺に何ができるのだといわんばかりに、曖昧な返事をしてハーベイを困らせた。
そうなると意地になったのはハーベイだった。
「あなたはもう関係者だ。このことを知っているものは少なく、それらはみんな騎士です。戦闘に参加する。あなたは使えるお人だ、腕も立つし、頭も回る。無意味に放ってはおけません」
「護衛の任がありますので、無意味ではありませんよ」
「東城さん。怖気付いたのですか」
一歩下がった足が、自然と前に出た。軍人としてではなく、侍の矜恃によってである。
「舐めるな。にしゃらの誰より俺ァ戦さを知っている」
侍としての、戦士の勘がある。前進するのか後退するのか、戦いの潮目を見抜けた。そこに軍人としての近代的な知略がある。俺が会津の、そして陸軍の東城であるという気持ちで、東城大尉は口汚くハーベイに怒鳴りつけた。
「我が兵士の意気は高くとも、練度が不十分である。さらにこの地図では地形による有利不利も不明である。兵器の有無も同様である。戊辰ですら銃があった。チャンバラをする気か?」
「ぼ、ぼしん? いえ、あの、チャンバラではなく真剣ですが」
「一緒だ。では真剣で切り合いをするのか? 明治も十年だぞ。そういうのはまず術を練り、然るべき工作ののちに行うものだ。」
「めいじがどうのはわかりませんが、祈祷師がおりますから、切り合いの他にも魔法の類での戦闘になります」
「ああ? 魔法? ————魔法……」
東城はぶつぶつと何かを呟き、次第に顔を真っ赤にして、
「失礼します。また後で、ええと、ともかく失礼します」
とものすごい速さで部屋を出て行った。
(……おかしくなったのか? しかしあの剣幕は)
ハーベイはしばらく呆然としていたが、すぐに一等騎士を集め会議を始めた。そこで明日にでも東城を呼び出すことを認めさせたが、当の本人は知るはずもない。
「どうしたんだよ東城。帰ってくるなり、すげえ汗だなおい」
「本当だ。何かあったんですか?」
「……あなた方は祈祷師で魔法……が使える。俺はそれをこの目で見ていたはずなのに」
それを完全に排除して戦さを考えていた。自分の培ってきたものが崩れていく感覚に動揺し、抜け落ちていた知識に気がつかず熱くなっていた己がたまらなく恥ずかしくなったらしい。
「そりゃ使えるっしょ。祈祷師だもん」
「だから呼ばれたんじゃないですか」
「そう! そうなんです! ああ、ハーベイさんに合わせる顔がない!」
珍しく取り乱す東城に、二人は驚くと同時に、新しい発見をしたような興奮も覚えた。
(この人もこんなふうになるんだ)
この人間離れした殺戮と春のそよかぜのような雰囲気を併せもつ男でも、やはり自分たちと同じ人間なのだと安堵したようである。何があったのか詳しく説明を求めるその声は、いつもよりずっと楽しげである。
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