2021年2月13日(友引)、同14日(先負)(※約5000字)

 今年の片想いの生徒達は、その日学校があることに感謝したかもしれない。


 その朝、11年4組の教室に見慣れぬ美人が現れた。大坪未來だ。

 彼女はクラスの生徒をつかまえて鈴木明衣の机をきくと、彼女の机に包みをひとつ仕込んで出て行った。そのことはほどなく登校してきた当人にも知れた。


「なんか、すっごい美人の先輩だったよ」

 これだけで明衣は未來と理解した。


 明衣にとって、未來は嫉妬すればきりがないからと心の中で一線引くほどの容姿の持ち主だった。

 あの容姿で女優志望であれば、成功しうるだろう。それほどに俗にいうオーラのある美人だった。

 自分のように全て努力だけで獲得しなければならない地味で泥臭い演劇志望者とは違う。クリスマスのビンゴのように、望めば機会のほうから手を差し伸べてくるタイプだ。

 それを含めての嫉妬、それに対する心の一線である。


 先日の昼食も、行き交う男子のほとんどが自分ではなく彼女を見ていた。


 それに好意を向けられているのだから、柾目りょうという男は幸せ者だ。

 どこか優越感があるとすれば、その男をいまのところ自分の物にしている、という点くらいだろう。


 だがその彼に、もしも面倒くさい女だと思われるようになったらどうだろう。たちまち心の天秤はあちら側に傾いてしまう。

 彼の優しさに甘えながらも、それに怯えているところもあった。


 かといって、彼の気真面目さを傷つけないためを思えば、いわゆる押し倒してしまうということもできない。

 既に、はじめてのデートでそれに近いことをしているのだ。これ以上彼の誠実さにつけ入ることはできない。それこそその時、関係が壊れてしまうかもしれない。


 ……そうなるくらいなら、本当に友達で居続けてくれるのなら、関係を戻した方がいい。

 そういう風に考える面もある。

 だから、敢えてあの美人に大切なりょうを押し当てようとしているのである。


 明衣は大きく息をついて、忌まわしさに似た重たい気持ちを、自分の中から追い払う。


 それから未來の仕込んでいった包みを封じたシールの端を爪で掻いた。

 破れないように包みを解いてみると、中からコルク栓の小瓶が出てきた。中身は茶色い砕いた枯葉のようなもので、コルク栓ごしに香ってみると、オレンジに似た良い匂いがした。

 添えられたカードには、金字の印刷で『Happy Valentine's Day』とある。それに加えて、青いインクの読みやすい字でこう書かれていた。


『家の近くの専門店でブレンドしてもらった紅茶です。

 彼氏と一緒の時にどうぞ。 大坪』


 明衣は頭を抱えるように、目頭をこすった。

 悩ましかった。煩わしいほどにである。


(蝶々さんも、子供をピンカートン夫妻に預けることを決めた時は、こういう気持ちだったのかな。そう解釈したら、また違う芝居が出来そうな気がする)

 ささやかな現実逃避のように、そんなことを思い、自嘲から笑いがこみあげてきた。


「まったく、そうじゃないでしょ」

 自分で突っ込む言葉が、何気なく口から洩れる。その拍子である。


 ――『そう思うならもう寝ちゃいなよ』

 先日掛けられたその言葉がよぎって、冷や水でも浴びたように目を見開いた。


 紅茶の小瓶を包みに戻して、カバンの中にしまい込み、席を立った。

 廊下にかけ出て、まっすぐトイレに入る。そして、手を洗う。

 水は痛いほどに冷たく、その真っ赤に冷えた指を顔に当てた。


 鏡を見据えて、いくばくか熱っぽく思える額を、なでて冷ました。

(悪魔のささやきって、こういうことをいうの?)

 そんなことさえ思った。

 ――それだけはいけない。りょうの方から求めようという気持ちが起きるまでは、こちらからこれ以上動くわけにはいかない。


 だが、それにはどうしたらよいのだろう。

 鏡に背を向け、流し台に腰をもたれる。

(アダルトビデオでも一緒に見ればいいのか?)

 明衣は自問し、自答した。


(――いやそうじゃない。そういうことではない)

 ではどうすれば、りょうを傷つけずにそういう気持ちへと導けるのか。


 難題にため息をつく間もなく、他の生徒がぞろぞろと談笑しながらトイレに入ってきた。

 彼女たちに場所を譲るようにトイレを出た時、ポケットのスマホが震えた。


 見ると、りょうからのメッセージだった。

『未來さんからいただいてしまった』


 トイレに戻り、個室に入る。

『私も、何もらった? チョコ?」

 そう打って、少し考え、一字削除を連打する。そして『私も』という一言だけ返信する。


『クッキーだった。明衣と一緒に食べて、って』

 明衣はほっとして大きく息をついた。本命ではない、ということだ。


『こっちは紅茶。あんたと一緒の時にって。お返し、何か考えないとね』

『そうだな。今日もうち来る?』

『もちろん』

 そう返して携帯をしまい、トイレを出た。


 ――その日の放課後、手弁当の昼食からの午後の合唱部の部活を終えた。内容は1時間半ずつの学年別練習である。

 いつもの、合唱部の面々の駅までの集団下校は小規模なものだった。朝から標準服の子もいれば、授業の後に一度帰宅して昼食と着替えをしてまた登校して練習に出た子もいる。


 部員たちの間では、まるで何かの取引のように、ブラックサンダーやうまい棒のような駄菓子が手渡しで回っている。

「このくらいの気軽さだと、バレンタインも楽だよね」

 明衣は堤とならんで歩きながら、軽い調子で言った。


明衣めーは渡さないの?」

「んー?」

「え、柾目とできてんじゃないの?」

「できてるよ。けど月曜日に渡すつもりでいたから、今日は持ってきてない」

「そっか」


「堤は誰か宛があるの?」

 そういわれて、彼女はにひひと笑って返す。そして携帯を出し、画像を見せてきた。

 見慣れぬ少年と、共にマスクを顎に下げた顔で、体を寄せたツーショットである。


「おー」

 などと、明衣もとりあえず歓声は上げて見せたが、誰かは知らない。

「ダンス部の先輩」

 堤は自分からそう教えてくれた。


「どこまで行ってんの」

「まだ受け取ってもらっただけ、そしたらオーケーって。明日デートしてくれるって」

 これに明衣は思わず手をとって、心からの歓声を漏らした。


「やったじゃん、おめでとう」

「ありがとう、ちょーうれしい。ダンス部には、内緒ね。内緒ね」

「うんうん。大丈夫。絶対、絶対漏らさない」


 心から喜ぶ彼女をみて、明衣は少し羨ましく思った。

 自分とりょうも、こういうまっすぐな告白で付き合い始めていたら、もう少し違う展開もしていたのだろうか。

 いや、それはない。少なくとも、高校に上がって大坪未來と柾目りょうの間に接点が生じた時点で、そういう交際の始まり方はありえなかっただろう。


 いうなれば、この付き合い方しか自分とりょうの間にはありえなかったのだ。

 それに気づいて、明衣は鼻がつんとするのを感じた。


「ちょっと、なんでめーが泣きそうになってるのよ」

 堤にそういわれて、明衣は笑い、首を横に振った。すると目元が濡れる感触がした。気が付いたら、涙まで出かけている。

「ううん、わかんない」

 そういって、目頭を抑えながら笑みを作って見せた。


 堤や未來をはじめ、他の部員達を駅の階段で見送る。

 それから徒歩下校組もそれぞれに散開して家路についた。

 ここからりょうと明衣はふたりきりである。


「今年は月曜日ね」

 明衣はさきほどの泣きかけた目元を隠すように、ややそっけなく言った。

「おう」


 何かは2人にとって言うまでもなかった。

 例年通りであれば、コンビニにでも行って適当なそれっぽい少し高めのチョコを買い、コンビニのポリ袋ごと渡す。

 だが今年は事情が違う。今年のバレンタインは日曜日である。


 なお、りょうの親も一応は週休2日だが、どちらも日曜以外の休みは月曜か水曜に取っている。

 土曜の今日は、両親ともに不在だが、明日は違う。


「しかし、今日渡されるとは思わなかったわー」

 明衣がそういうと、りょうは涼しい顔で首をかしげてみせた。

「そう? 部活があるから、なんか貰うとしたら今日だとは思ってた」

「そっかー」


「けど、明衣にまで渡すとは思わなかった」

「え、一応付き合ってるの知ってるから。先輩」

「そうだよな。気を使わせちゃったのかな」

「かもね」

「……あのさ」

「ん?」


「やっぱり、日曜日会わない?」

 これに、明衣はえっと声を出して戸惑った。


「なんか予定入ってた?」

「入ってたというか、あんたにあげるチョコ、明日作るつもりだったから。っていうか、レッスンは? 日曜と水曜でしょ?」

「明日は夕方から入れてもらってるから、それに間に合えば大丈夫。それに、別に手作りじゃなくていいよ。ゴディバで」

「あんた、そこはウソでも手作りをうれしいっていうトコでしょ」

「いやいや、是非ゴディバで」

「マジかよ」


「いやゴディバでなくてもいいけど。高そうだし、行列できてそうだし……けど、手作りなんて面倒なのじゃなくていいよ。一緒に食べれるやつにしよう。毎年なんだかんだで一緒に食べてるじゃん」

 それは、確かにそうだった。

 毎年、明衣がコンビニで買ってりょうに渡したチョコレートを、その場で開封し、帰り道で分け合って食べながら歩くのである。


「それは……うん」

「じゃあ、一緒にならぶか、ゴディバ」

「なにそれ」

 そう口にして、明衣はああと何かに気付いたような声を漏らした。

「……そっか、先輩にお返し買わなきゃか」


 そういわれて、なぜかりょうも驚いたような顔をした。

「あー、それも考えなきゃだったな」

「なによ、そういうつもりの話じゃなかったの?」


「違うよ。ふつーにデート」

 明衣は目を丸くした。

 それから嬉しくなって思わず笑み、ずれそうになったマスクを抑える。

「ま?」

 りょうは少し照れがあるのか、目元を笑ませて「ま」と返す。


「クリスマスもばたばたしてただろ。ベタだし、いいかなって」

 そういわれて、明衣は心から嬉しくなり、りょうの腕にすりついた。

「ありがとー愛してるよ」

「まだ早い」

「え?」


「そっちの親が、電車に乗るならダメっていうかもしれない」

 これを思い出して、明衣は「ああー」と項垂れた。


 だがすぐにその頭は起き上がり、すっとりょうの顔を仰ぐ。

「いいもん、その時は強行突破で」

「こら、それママさんと喧嘩になるやつだろうが」


「いいもん」

「よくない……まあ、その時はそっちの近所まで俺が行く」

「ほんとに?」


「うん。ずいぶん遊びに行ってないし、久々にドンちゃん撫でたい」

 ドンちゃんというのは明衣の家で飼っているパグである。

「……うん」

「じゃあ決まりな」


 そこからのふたりは普段通りだった。

 ただ違うところがあるとすれば、道すがら買うテイクアウトの量が控えめになった。

 そしてりょうの家で未來からのメッセージカードの通り、二人がもらったものを共に食べた。いずれも食べ合わせがきちんと意識されたもので、実によいものだった。


「これは、ちょっと真面目にお返し考えないといけないレベルな気がする」

「そうだね」

「なんか調べようか」

 ふだんならゲームをするところを、その日は未來へのプレゼント検索に充てた。


 その夜11時過ぎ、福島宮城沖を震源地とした大規模な地震があった。

 だれもが10年前の3月11日を思い出すような大きな揺れである。

 幸いにしてこの地震の被害は停電程度、津波も土砂崩れもなかった。


 りょうも明衣も互いの無事はすぐに確認できた。

 というのも、まさにその時、ゲームのオンライン協力プレイの真っ最中であり、コントローラーを投げ出して部屋のドアを明けたり、棚の突っ張り棒のチェックをしたりしていたためである。


「明日どうする?」

「震度見てるけど、電車止まってなければ行くよ」


 そして翌日、その言葉通り、りょうは彼は明衣の家に出向いた。

 この日は温かな晴れで、りょうは軽めの上着のきちんとしたデート向きの、流行りを取り入れた装い、靴も下ろしたてである。

 だが、その肩には最近から通うようになった音大受験用の歌唱レッスンの教材のカバンを抱えている。

 二人はそのまま明衣の最寄り駅にほど近い百貨店へと向かった。


 目当ての品は喉ケア用のプロポリススプレーである。見つからなければデパートコスメのハンドクリームだ。

 むろんそれだけではなく、普通のデートとしても時間を使った。ゲームセンターに寄り、カフェに入り、マンガ原作の映画も観た。


 時間は瞬く間に過ぎた。

 最初は手を繋いで歩いていたが買ったものの包みをりょうが抱えると、明衣はまるで服の裾をつかんで歩く子供のように、りょうの上着のポケットに手を入れて歩いた。


 ときおり人気がない階段などにくると、防火扉の陰にひそむようにしてマスクをずらし合い、唇を重ねた。

 以前に比べ、それを求めあう気持ちが互いに生じているのを感じ合っていた。


 それでも最後の時間、明衣がりょうを見送る頃には、普段通りの幼馴染のような二人に戻っていた。

 しかも話題は『どちらがお礼の品を先輩に渡すか』という押し付け合いである。

 最終的に駅前でじゃんけんとなり、明衣が負け、そしてりょうはレッスンの教材の入ったカバン一つで電車に乗った。


 幸か不幸か、翌日になってみるとこれで良かったような事態が生じた。

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