2020年8月24日(赤口)

 二学期の始業日の昼休み、音楽教官室に殴り込むように一人の女子生徒がやってきた。演劇部副部長、高田である。


 そこには顧問のほかにいくらかの合唱部員が集っていた。今後の部活動の引継ぎのため、部長と副部長、11年生の各パートリーダーらである。


 例年なら夏合宿の時にこうした上層部のみの面談があった。いわゆる部の役員職の申し渡しである。だが今年はNコンに備えた合宿がなかった。

 また文化祭も取りやめになり、目途となる日がなくなってしまった。そのため、この日が充てられたのだ。


 彼女は部員らに一声挨拶を発し、押し分けるように顧問の間宮に詰め寄った。

「まだ、オンライン配信があります!」


 手持ちのバインダーから数枚のプリントとルーズリーフを出して、先生に差し出す。それらは他の文化部の部長らとの会談のメモないし、プレゼン資料のようなものだった。


「よその部はオンライン配信で自分達だけでも文化祭をやる気です。例えば被服研究会は『コロナ禍の装い』をテーマにデザイン画集を、標準服に似合うデザインマスクの型紙のデータ頒布と共に行うそうです。うちも無観客上演の映像をネットに上げます」

 平面情報部の『データ頒布企画:covid-19期間中の校内記録集(上半期編)』という企画書を見ながら、間宮先生は高田の言葉を聞き続けた。


「このままウィルスに負けっぱなしはイヤです。先生、スマホ出していいですか」

「ああ、いいよ」

 高田は自分の携帯電話を出して、何かの動画を再生、それを差し出した。


 部の全員が聞きなれた音が鳴り響く。一幕のピンカートンのアリア『ヤンキーはどこへ行っても』である。

 映し出されているのは空き教室、ピンカートン役の沖原とシャープレス領事役の香坂が所作を確かめている。


「この二人と蝶々役、スズキ役は練習を続けてます。諦めてません。商業演劇だって無観客配信とかやってるんです、それ用の設備の用意は、小ホールならできます。合同企画のオペラ部だってできるはずです」


 この言葉に、パートリーダー達はにわかにわき立つものがあった。


 だが、間宮は抑制的な態度で言った。

「そっちの地区大会はどうする。うちのNコンと違って、一応開催されるだろ」

 これに、高田は怪訝な顔になる。

「あれ、小木先生から聞いてませんか?」

 これに、間宮は手を広げて、その場にいる部員らを示した。

「私は聞いてる。彼らは違う」


 空気のような扱いを受けていた部員らは、おやという顔をして、高田を見た。


 高田はため息をついて、教員室のホワイトボード状の予定表の日付を指さした。部の予定表だが、9月中の予定の大半が白い。というより、文化祭がなくなったことで白くなってしまったのだ。


「そっちのNHKコンクールと同じで、うちも毎年高校演劇大会の地区大会がある。今年は10月10日と11日。うちは11日に出る。上手く都大会進出できれば、11月の半ばに予定されてる。どっちも一般公開はナシ」


 ソプラノパートリーダーの小柴が小さく挙手する。

「部員が足りてないという話はどうなったんですか?」

 高田はうなずいた。

「うん、最悪の場合、蝶々夫人の録音させてもらって、それで無声劇とナレーションでやってしまおうかとも思った……けど7月に本格的に学校始まってみたら、中等部で演劇やってた子らが、よその中学で演劇してた子ら連れてぞろぞろ入部してくれたの。その子達メインで、一本書き下ろした。で、今年の11年と12年は地区大会では裏方」


「じゃあ、明衣ちゃんとか沖原さんとかは」

「鈴木?」と明衣の苗字を口にして高田は舌打ちした。蝶々夫人の主要な役の一つにスズキという女中の役があるせいだ。

「……紛らわしいな。蝶々役の鈴木明衣は、ちょい役で出すよ。けど沖原は、オペラ部が最後の表舞台」


 最後という言葉に重さを感じてか、何人かの表情が重くなる。

 11年生のバスパートリーダー、津田が小さく挙手する。


「……受験、ですか」

「それもある。だけど、NHKの合唱コンクールと違って、こっちは1年がかりでやるの。10月にあるのは最初の予選で、11月に都大会、さらに地方ブロック大会があって、全国大会は次の年の夏」


「来年の夏を見越して、10年メインでやろうと?」

 これに高田は自嘲げに顔を伏して一笑し、やれやれというように頭を振った。

「うちがそんなバカみたいな強豪校なわけないじゃん。よくて都大会止まり」


「じゃあなんで?」

「沖原、都大会の翌週に推薦入試があるから。それ見てこっち一本に絞るって」


 一同は納得して小さくうなずいた。心なしか11年生たちは沈んでいる。

 彼らにとって受験と部活は天秤にかけてまだそこまで焦る事ではない。おそらく、来夏開催されるであろうNHKコンクールにも参加するだろう。


 だが演劇部側はかなり先を見越した用意が求められている。

 そうした集団に対し、合唱部は軽々しく秋の文化祭の合同企画などというものを提案してしまった。その重圧を今更に感じたのだ。


 このにわかによどんだ空気を合唱部の部長は読み取った。

 彼女は顔を掻きながら高田を見た。

「高田は?」

「なにが」

「受験」

 これに高田は意外そうな顔をして、息をのんだ。

「私は、総合選抜……っていうか、あんたこそ大丈夫なの?」

 そう返されて、部長はマスクをずらして変顔を見せて返す。これにめいめい吹き出し、間宮までも失笑した。


「なにそれ」

「意味わかんないんだけど」

「もう、笑い事じゃないから」


「……ともかく、このまま企画打ち切りでは演劇部の『オペラ部』組は肩透かしだと」

 高田は真剣な顔でうなずいた。

「はい……正直、見てられません」

 諦めきれないのは、合唱部側も同じである。


「先生、一応全員、それぞれの担当曲は体に入ってると思います」

 ソプラノの小柴美紅は、それとない調子で言った。


「やるならやりましょう。せっかく入ってくれた10年達をだらけた空気の中に置いておきたくない」

 次代部長候補筆頭、バスのパートリーダーの津田が促すようにいった。


 それを聞いて、部長と間宮先生は顔を見合わせた。

「先生次第です。12年には私から話します」

「高田さん、返事は、小木先生とも話し合った上でもいいか?」

 間宮先生はそういった。


 高田は大きくうなずき、資料をまとめて抱えた。そして「失礼します」と強い口調で言い残して彼女は帰って行った。

 再び合唱部員のみになった部屋で、間宮先生はため息をついて、部員達を見た。


「……さて、スケジュールの確認からだな」

 パートリーダーたちはマスクの中でほっと息をついた。

 事実上、練習再開の宣言である。

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