よもやまばなし

天雪桃那花(あまゆきもなか)

第1話 源蔵と京助

 夏の夕暮れが近づいてひぐらしが鳴いていた。


 寺の鐘の音がする。

 辺りを浄化するかのような重くも澄んだが人々の胸をすうっと落ち着かせる。

 ここは天下のお膝元、江戸の城下に近しいとある町の端くれの長屋のお話。


「なぁ? おめぇさん、明日も仕事なくなったんだって?」

「あぁ。だったらどうした」


 居候の京助きょうすけ源蔵げんぞうに念押しのように言うと、源蔵はさも面白くなさそうな顔をしてちびちびと薄い茶をすすった。


「働き者の源蔵さんのことだ。二日も仕事が無いんじゃつまんねえだろう?」

「嫌なこと言うねぇ、京助」

あっしに良い提案があるんだよ、源蔵さん」

 源蔵はごろりと体をむしろの上に横たえてふてくされた。

「ふんっ。全くもって詰まるもつまらねぇもおめぇ、仕事がずっと無かったら御飯おまんまが食えねぇってことよ。一大事だ。それよりお前の方の話ってなんだい? それこそつまんねぇ話でもしてみな? 今にも家から追い出してやらあ」

「まぁまぁ落ち着きなって。源蔵さん」


 源蔵をなだめるようにそう言いながら京助はどこからかいわしの焼き物を出してきた。立派な鰯を膳に載せた。

 薄目でちらちらと京助の行動を見ていた源蔵は横になっていた体を起こした。胡座あぐらを組んで座る。

 京助は源蔵の目の前に鰯の焼き物と胡瓜の浅く漬けた物を載せた膳をずいっと差し出してきた。

 こうばしい魚の香りと胡瓜の青くさい夏の旬の匂い。

 ぎゅるぎゅるっと源蔵の腹の虫が鳴いた。

 源蔵の目は鰯と京助を交互に見やる。


「金も無いのに京助お前、どっから鰯を持って来た? ――まさか、お前」

「ふふっ。盗みなんざしてないよ、源蔵さん。美味い話が舞い込んできてね。前金をちぃっとばっかし貰ったんだよ」

 源蔵はあからさまにイヤな顔をした。京助に、源蔵が露骨にこんな顔をするのは訳がある。

 京助は甲斐性なしの男だった。働き者の源蔵とは大違いでいつも少ない働きで一攫千金を夢見るような男だった。

 源蔵は熊みたいな顔つき体つきで京助はここも正反対。顔だけは美形である。通りを歩けば年頃のいった女たちから熱い視線を向けられる。

 色目を使ったりしてくる良いとこの娘や花魁おいらんに色気ムンムンに迫られたりもしていた。

 商家の娘に気に入られた時には随分と貢がせていたっていうからたちが悪い。


 外が急に暗くなったと思ったら激しい雨音がし始め遠雷の響きを源蔵は聞いた。ほどなくして稲光が源蔵の家の窓の隙間や壁戸の隙間から一瞬入り込むようになった。頼りない行燈あんどんの光だけの暗い部屋をぴかぴかっと何度も照らした。

 ゴロロ……ゴロゴロ……。

 雷の激音はどんどん近づいてくる。


 源蔵は決して臆病ものではないが雷さんだけは大の苦手ときたもんだ。

 付き合いの長い京助はその辺のことは熟知しており雷さんのおかげで話がしやすくなったと腹の中でニンマリしていた。


「一杯どうです?」


 京助は笑顔になって雷を怖がる源蔵に酒を勧めた。顔は取り繕って平気な振りをしたって源蔵の怯えは京助には伝わっている。

 源蔵はお猪口に注がれていく酒を見てゴクリと喉を鳴らす。

 酒は源蔵の大好物。だが最近は大工の仕事が他に取られて源蔵は酒を買えずにいた。

 口の上手くない源蔵は腕は良いのにしばしば余所からやって来た大工に言いくるめられた上客を説得できずにいた。


 とくとくとく……。

 京助が酒をお猪口になみなみと注ぐと源蔵は酒の美味い風味があたかも口中に広がっていく妄想をいだいた。


(こいつぁ、上等な酒にちがいねぇ。たいそう旨そうな艶をしてやがる)


 源蔵の目は酒に釘付け。

 心は既にとらわれてしまっている。


 京助がほくそ笑んだように源蔵には見えたが酒を呑めるという誘惑には抗えなかった。

 先に京助がお猪口に手を伸ばすと源蔵は我慢が利かなかったのだ。


「美味そうだな。おれにも呑ませてくれよ」

「だから一杯どうですと言ったじゃないですか。この酒は源蔵さんに差し上げますよ」

「おぅっ。悪いねぇ。いただくよ」


 源蔵がゴクゴクと喉を鳴らして酒を飲み干していく。

 京助はしめしめと思うとニヤリと笑い自らもお猪口の酒をすすった。


 これで源蔵さんはあっしの頼みを断れなくなった。


 酔いが回ってきた頃に京助は、源蔵にある儲け話を話し出す算段だった。

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