雪の中の幻影 1

 大陸北にあるこの地方は冬が長く、寒さが厳しい。真冬になるとたびたび雪が降り、街は雪に閉ざされ、人々は冬支度をして春の訪れを待つ。


 気温が下がってきたのを肌で感じた冬のはじめのある日、クーユオの街に雪が降った。朝から舞っていた雪は、午後には大粒の雪になっていて、窓の外を白く染めていた。


 アスタは事前に揃えておいたファーつきのコートを着てマフラーを巻き、手袋をつけブーツを履いて、倉庫にあったシャベルを手にして館の外に飛び出した。


「雪ですよー!」


 新雪の上に真新しい足跡をつけ、既に足首より上まで積もった雪に倒れ込む。


 ――やばい。楽しい!


 自然に笑い声が上がった。


 前世で十五歳で死んで、この世界で生まれてもうすぐ一年だから精神年齢十六年。大人の分別、節度。そんなもの、この光景の前では無意味だ。


 雪が降っているときに外に出たことなんて、前世でも大分昔の子供の頃以来だった。入退院を繰り返す頃になると、親に止められた。というかさすがにそんな状態で冬の雪の中で遊ぶことは、自重した。


 でも、いまは違う。ホムンクルスの身体では寒さに強いし、長時間雪の中にいたところで風邪も引かないだろう。


 そして雪の量も、転生前に住んでいた地域からしたら大雪の部類だ。これだけあれば雪だるまだけでなくかまくらも作れるかもしれない。


 目を輝かせてアスタが雪玉を転がして大きくしてると、少し遅れてヨルンと他のホムンクルスたちも外に出て来た。


 ノーラとマトが庭の雪をかき、街に通じる道まで人が通れる幅の分、雪の合間に道を作っていく。しかしかいた端からも雪が降ってきて、薄く雪の層ができた。ヨルン曰く、やらないよりはマシらしい。

 ヘラは屋根に梯子をかけて上がって行き、裏庭のほうへ雪を落としていった。


 アスタも最初は雪かきを手伝っていたが、途中から積み上げた雪に自分の頭より大きくした雪玉を載せて、雪だるま作りに夢中になっていた。


「アスタ……元気だな」


 呆れた声をかけられた。振り返ると、黒い外套を着てマフラーや手袋を身に着けたヨルンがアスタのほうを見ていた。


「ヨルンさんもやりましょうよ。楽しいですよ」

「結構だ」

「そう言わずに。見てくださいよ、この力作」


 アスタの前には雪だるまが三体ほど並んでいた。飾りつけるものもなにか用意しておくんだった、といまになって思う。目鼻にできそうな石や木の葉の類はすっかり雪の下だ。


 食料庫にある野菜を飾りに使ったらカラフルだろうけど、この冬の時期に野菜は貴重なのだからとノーラに怒られそうだ。


 写真が撮れるなら自分がつけているマフラーや手袋を一時的に雪だるまに着せて、撮影して回収ができるのだけど、とアスタが画策していると、ヨルンが白く染まった溜息を吐き出した。


「君はこの街の冬を体験するのははじめてだから新鮮かもしれないが、毎年これだとうんざりもする」


 雪の被害が大きい街で生まれ育った者の言葉は重かった。

 いまはまだ初冬だから日本の関東の大雪レベルだが、真冬になるとこんなものではないらしい。周辺にある湖や川は凍りつく。山は真っ白になり、草原は雪に埋まる。


 大雪が降って積もると道は塞がり、街に出て行けなくなる。足りないものがあるから買い出しに、というわけにはいかないようだ。そもそも店が開いているとは限らないし、物資が入って来なくなることもある。


 雪がやんだ後は溶けかけた雪が凍りつき、屋根から氷柱が降って来る。外を歩くのも一苦労だ。

 だから街の住人は冬を越すための準備を入念にし、温かくした家の中でこれまでに蓄えた食べ物を食べ、家の中でできることをする。


 ヨルンも雪が降る前頃に、春に受け取りに来るという依頼を大量に受けていた。冬の間はそれらの依頼をこなして過ごすという。


「だが、昔は嫌いでもなかったな。雪で行動が制限されると、家にいるしかなくなるから」


 どこか遠い目をして、ヨルンは言った。


「みなさんと会えないのは寂しいですけど、館で過ごすのもいいですよね」

「……そうだな」


 いまはとにかく雪で遊びたかったが。雪で街に行けないことが続くと、街が恋しくなったりするのだろうか。


「そうだ、ヨルンさん。かまくらって知ってますか?」

「かまくら?」

「雪で作る、こんな感じの……」


 身振り手振りを合わせて形状を説明すると、ヨルンは白い息を吐き出した。呆れの混じった溜息だ。


「この辺りの雪は、一度降ると長い時間降っていることが多い。入口が埋まったら出られないぞ」


 いまも雪は積もり続けている。かいていない部分の庭の雪は、アスタのブーツが埋まるほどになってきた。


「雪の中の空間か。ずっと放置されたら、人間なら寒さで体温が低下して死ぬな。ホムンクルスなら、春まで閉じ込められていても案外なんとかなるかもしれない」

「いえ、やめておきます……」


「雪が強くなってきたな。中に戻るか」

「あ、わたしはもう少しここにいます」

「だったら、雪をかいた部分にさらに積もるようならかいておいてくれ」

「はい」


 アスタは元気よく返事をした。




 冬のはじめに雪が降った日のこと。雪はそれほど積もることなく、街の住人たちは翌日には外に出てきて活動を再開していた。


 子供たちが雪かきをしながら雪だるまを作っているのを目にした。数人で協力して、大きな雪だるまを作っていた。家から持ち寄ったのか、毛糸で編んだ帽子やマフラーで飾りつけている。


 笑い声が上がった。なにがそんなに楽しいのだろう。


 家に帰って、庭先で小さな雪だるまを作った。ものを作る楽しさはわからないでもないが、彼らのような陽気な気分にはなれなかった。


 冷たくなった指先に、幼いヨルンは息を吐きかけた。


 ――男の癖に外で遊ばないんだ?

 ――なんで? おかしくない?

 ――気に入らないならやり返したり言い返したりしろよ。変なやつ。

 ――本なんて読んでなにが面白いんだよ。

 ――うちの親が言ってたぞ。お前の父親、お前のこと異常だって言ってたって。


 そうした言葉は聞き飽きていた。だけど、独りで平気だと割り切れるほど、達観してはいなかった。


 雪で冷えた手を温めてからヨルンが母と家の整理をしていたら、箱が出てきた。父方の祖母の遺品だという。中には装飾品の他に、小さな瓶があった。


 透明なガラス瓶の中に入った、雪だるまと雪景色。逆さにして瓶の蓋を下にして置くと、白いきらきらとした雪が降ってくる。この街の冬を切り取ったかのような置物だった。


「綺麗ね」


 母の言葉にヨルンは頷いた。

 瓶を部屋の窓際に飾ってしばらくして、どこからか声が聞こえてきた。


「きみはいつも一人なんだね」


 親がいない部屋を見渡す。部屋の中に、膝の上で本を広げたヨルンの他には誰もいない。


「誰……」

「ここ」


 瓶が光ったかと思うと、ヨルンと同じ五、六歳くらいの男の子が現れた。


 鮮やかな色のマフラーを巻いて帽子を被り、黒いボタンがついた白いコートを着ている。装飾品は氷のように透明で、光を反射している。氷のような透明感のある白い髪に、黒い石のような瞳。


 瓶の中の雪だるまが人間になったかのような少年だった。


「……君は」

「ぼくもずっと暗い箱の中で一人だったんだ。外に出してくれてありがとう」


 あの箱の中に入ったまま、何年も何十年も放置されていたからだろうか。この子も自分と同じだったんだ。そう思えた。


「お礼に願いを叶えてあげるよ」


 彼の言葉は、澄んだ水のように、ヨルンの心に染み込んでいった。


「じゃあ……」


 友達になって、という言葉が途中で飲み込まれた。


 不安と期待が去来する。友達とはなんだろう。父親や近所の子供曰く、いないとおかしい、寂しい人だと言われるもの。人は人と助け合わないと生きていけないから、誰かとつながり、集団になるのだという。


 友達がいない人間、他者とかかわれない人間は普通じゃないらしい。父や近所の大人たちが街外れに住む錬金術師をそんな風にあげつらうのを、聞いたことがあった。会ったことのない錬金術師に、ヨルンは密かに共感を覚えていた。


 友達ができたら普通になれるのかもしれない。ヨルンの周囲にいるこの街の普通とされている住人は、自分たちとは違う者を仲間外れにすることで結束しているように見えた。


 他人をおかしいと決めつけて笑いものにするような人間には、なりたくなかった。


「話し相手になって」

「いいよ」


 快い返事をもらい、ヨルンは心が躍った。この子は近所の子たちと違って、ヨルンがなにか言うたびに嘲笑うことはない。馬鹿にすることはない。


「僕はヨルン。君、名前は?」


 男の子は上を見上げてなにか考えていたようだったが、


「……なんだっけ。忘れちゃった」


 返ってきたのはそんな答えだった。


「きみがつけてよ」


 これまで動物を飼ったことはなく、なにかに名前をつけたことはなかった。責任重大だ、とヨルンはこぶしを握り締めた。


「じゃあ……頑張って考える」




 冬は長く、雪が大量に積もると街の住人は家で過ごすようになる。家の中に一人でいても、ヨルンは話し相手に困らなくなった。


 家の中に大きな足音を立てて当然のように大声を上げる人間がいても、騒音にいちいち怯えなくなった。母親以外に味方がいる状況が、とても頼もしく思えた。


 男の子とは沢山話をした。直接話をしなくても、同じ部屋で一緒に過ごしているだけで心が安らいだ。


 その日は母が持っていた植物の図鑑を一緒に眺めていた。


「春になったら森で薬草を採取するんだよ」


 母の手伝いでやっていることを伝えると、男の子はきょとんとした顔のまま、問いかけてきた。


「冬は行かないの?」

「雪が降っているから薬草は生えてこないんだって」

「ヨルンは冬は嫌い?」


 黒い瞳でじっと見つめられた。

 この子はもしかしたら、あの瓶の中の雪だるまが人の姿を取った存在かもしれない。ヨルンは焦って返答した。


「そんなことないよ」


 部屋の中でも白いコートを着ている男の子の手をつかむ。白い手は、ガラス瓶のように体温が感じられなかった。びくりと肩が跳ねるが、手は離さなかった。


「本当?」

「うん」

「そう。よかった」


 黒い目が細められる。それを見て、ヨルンは安堵した。


 大丈夫。彼は雪だるまそのものの化身ではない。だから、冬が終わったら溶けていなくなってしまうなんてことはないはずだ。


 そう思っていたのに。




 部屋の中で近所の子ではないなにかと会話をする息子の様子を、わずかに開けた扉の隙間から窺っている者がいた。


 常日頃から、内向的でなにを考えているかわからない子供のことをまともではないと感じていた彼は、ごく普通に思った。


 家長としていまのうちに矯正しておかないと、と。




 ヨルンが朝起きたら、枕元に置いていたはずの瓶がなくなっていた。


「どうして……」


 あの男の子の姿はない。周囲を見渡しても、雪が舞う窓の外を見ても、どこにも。血の気が引いて言葉を失って立ち尽くすヨルンに、父は当たり前のように「瓶なら捨てた」と告げた。


「お袋の持ち物だったらしいな。大方あの錬金術師からもらったものだろう。人を惑わす悪いものが入っていたに違いない。早いうちに気づいてよかった。お前まで邪法に手を染める異端者になったら困るからな」


 諸悪の根源を断ち切ってやったと言わんばかりの言葉が、棘となって心を突き刺していく。石でも飲み込んだかのように胸が重くなり、頭の中がかき回されたかのように気分が悪い。


 また否定された。大切なものを捨てられた。いや、そうじゃない。これまで勝手に捨てられたり壊されたりしたものとはわけが違う。


 あの男の子は人間じゃなかったかもしれないけれど、生きていた。言葉を交わし、一緒に笑い合った。確かにここに存在していた。


 心が冷たく凍りついていく。


 名前は色々考えたのに、これというのが決まらずに、つけてあげられないままだった。それに男の子とヨルンの二人だけなら、名前がなくても困らなかったから。

 いまになって思う。名前がないと、こんなときに名前を呼んで探すこともできないのだと。


 ヨルンは父の目を盗んで外に出て来た。薄く積もった雪が溶けて凍りついた道で、何度も滑って転びそうになった。氷のようになった道にさらに雪が降り、気温は肌を突き刺すように寒かった。


 家の近くのごみ捨て場には、ガラスの破片が散らばっていた。瓶は割られてしまったのだろうか。雪だるまも壊されてしまったのだろうか。


 その辺りに積もった雪で、小さな雪だるまを作った。

 砂利とガラスの破片が混じった雪玉は、まだら状に汚れていた。薄い朱に染まっているところもある。ガラスで手を切ったらしい。


 長い溜息が漏れた。白い息が雪だるまにかかり、消えた。あの瓶の中の雪だるまのようには作れなかった。もう二度と、同じものは手に入らない。


 ――あの男の子には、会えないんだ。

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