紅斬 -Bloody Blade-
岩井喬
第1話【プロローグ】
【プロローグ】
少女が地面にうずくまり、胸元から血を流している。
彼女の血ではない。正確には、彼女が胸に抱いた幼子からの出血だ。事切れてから、僅か数秒といったところか。
「五太……五太ぁ……」
だんだん冷え行くその身体を、少女はぎゅっと抱き締める。
もう少し。もう少しだけ、自分が早く到着していたら。そうしたら五太を――最愛の弟を死なせずに済んだかもしれない。
だが、そんな後悔は、一瞬にして消し飛んだ。代わりに、彼女の胸中に去来したのは、怒りと憎しみだった。
何に対して怒るのか? ――この理不尽な現実に対して。
何を憎むのか? ――今自分たちを囲んでいる、異形の怪獣たちを。
事実、今の少女は『怪獣』に包囲されていた。
真っ黒な、身の丈ほどもありそうな硬質な獣。いや、獣というより蟹や海老の類と言った方がいいだろうか。
晴れ渡った夜空の下、月光を反射するようにして、化け物は不気味に蠢いていた。
ちょうど月に雲がかかり、あたりが真っ暗になる。その瞬間に、少女の背後の化け物が動いた。昆虫のような三対の脚部のうち、後ろ足を突っ張って少女に跳びかかったのだ。鋏状の前足が、少女の背中を切り裂くべく振り下ろされる。
ザシュッ、という生々しい音と共に新たな鮮血が飛び散り、どさり、と倒れ込んだ。ただし、怪獣が。
いつの間に鞘から引き抜いたのか。まさに目にも留まらぬ速さで、少女は刀で怪獣を両断していた。青黒い血飛沫の向こうで、刃が照り輝く。
それはちょうど、彼女の着ている道着と同じ赤、取り分けて言うなら紅色だった。じり、と距離を取る怪獣の群れ。
後頭部で一つに括った黒い長髪を揺らし、少女はゆっくりと立ち上がる。
五太をそっと地面に横たえて、もう一本の刀を抜いた。二刀流だ。
「じゃあな、五太。姉ちゃんはすぐ戻るからな」
ゆっくりと膝を立て、立ち上がる少女。無言のまま、すっと足を入れ替えて周囲を見回す。
彼女の目つきは厳しい。その視線の前では、どんな鉄鋼も切断され得るのではと思われるほどだ。
「貴様らが……貴様らがあああああああ‼」
少女は叫びながら、どん、と地面に足を叩きつけた。怯む怪獣たち。
次の瞬間には、少女の姿は怪獣の眼前にあった。全方位を囲まれた上での、敢えての強行軍。はっきり言って、無謀である。
自分が何をしているのかという自覚が、その時の少女にあったかどうか。少なくとも冷静ではなかったはずだ。しかし、その燃えるような紅色の姿には、死相は全く浮かんでいなかった。
今度の怪獣には、鋏を振るう間も与えられなかった。袈裟懸けに斬り落とされた鋏が地面に着く頃には、返す刀で本体がばっさりと切断されている。
隙を見て少女に鋏を伸ばした怪獣は、しかしもう一方の刀で顔面から背後までを貫通されている。
すると、やっと時が動き出したかのように、少女の背後から怪獣たちが大挙して押し寄せてきた。知性の欠片も見られない外見だが、それなりに危険性を認識し、焦りを覚えたらしい。
だが、その群としての勢いも、一瞬のものだった。
怪獣の脚部が、取り残された五太の身体に突き刺さる直前。少女が弾丸のような速度で突っ込んできたのだ。
「でやあああああああ!」
直前に、少女は地を蹴り、斬り捨てたばかりの化け物の倒れ行く死骸をも蹴って、水平に跳躍していたのだ。
あまりの急接近に、怪獣たちは防御する間もなかった。
身体をぎゅるり、と捻った少女は、腕を思いっきり振るい、寸分の狂いなく怪獣たちの鋏を斬り落としていく。
ちょうど鍔までが刺さった状態で、刀は怪獣を串刺しにする。少女は軽く地を蹴って、すぐさま刀を引き抜いた。
だが、今度ばかりは攻めには出られない。怪獣たちとの距離が近すぎる。それに、五太を放り出しておくわけにもいかない。
「ふっ!」
少女は、今度は垂直に跳躍して後退。五太の下へと舞い戻る。
これほどの怪獣を斬り捨ててなお、少女の顔には緊張の色があった。
何せ、怪獣たちは数が多い。跳躍中に見たところでは、先ほど倒した怪獣の死骸を踏みつけて、新たな個体が迫ってきている。
着地した少女は、奥歯を噛み締め意を決した。
五太のそばにひざまずき、手首を回して刀を両方とも逆手持ちにした。すっと短く息を吸い、肺の、そして心臓の動きを意識する。
目を閉じて、怪獣たちの存在を気配で感じ取る。どんどん距離は狭まり、次々に鋏は振り上げられ、殺気が円を描くようにして迫ってくる。
これ以上は間がもたない。まさに、その次の瞬間だった。
「魔晴剣術奥義――風塵斬舞‼」
凄まじい勢いで、少女は回転した。
独楽のように軸をしっかりと保ち、水平方向には両腕を突き出している。
その手に握られた刀は、風を巻き起こし、その風に斬撃が乗って広がり、一瞬で周囲の化け物たちを薙ぎ払った。
ギュイイイッ、と耳障りな声を残し、怪獣たちは灰燼に帰していく。その四肢も臓物も甲殻も、いずれもが等分されたかのような正確さで地面に散らばり落ち、青黒い血の海を広げていく。
少女が回転を止めた時、しかし、それでも怪獣たちは、数にものを言わせてきた。
「はあっ!」
勢いよく息を吐き出し、少女はその場に膝を着いた。一瞬で、あまりにも多くの体力と精神力を使いすぎたのだ。
(退きなさい、楓)
楓、と呼ばれた少女は、はっと顔を上げる。
「師匠!」
(一旦退くのです、楓。これではあなたの身がもちません)
「師匠は? 本堂の皆は無事ですか?」
(とにかく、急いで戻っていらっしゃい)
囁くような、しかし芯の通った女性の心の声に、楓は従うことにした。刀を収め、そっと五太の身体を抱え上げる。
足の裏に意識を集中し、再び垂直に跳躍。やや離れた大木の枝に着地した。
「ふっ!」
そのまま、続けざまに木々を蹴って、本堂のある山道へと入っていく。
麓の石の階段の前で、怪獣たちは足止めを食っていた。本堂に通う剣術者たちが、化け物たちとの一進一退の攻防を繰り広げている。
だが、やはり押さえていた。
化け物の鋏が一つ飛ぶ度に、一人の人間の悲鳴が響く。これでは、長くはもつまい。
楓は一旦地面に下り立ち、助勢に入ろうとしたが、それは叶わなかった。
(楓、あなたは早く本堂へいらっしゃい。あなたにしかできないことがあります)
「そんな、師匠! 皆を見捨てろと仰るんですか!」
(見捨てるのではありません。皆には皆の、わたくしにはわたくしの、そして、あなたにはあなたの責務というものがあります。急ぐのです、楓)
防衛線に背を向けた楓に、最早迷う余地はなかった。
奥義を放った直後とは思えない速度で階段を上り、本堂へと至る。流石に息は切れ切れになり、嫌な汗が顔中を覆っていたが、それでも楓は油断のない挙動で、師匠の姿を探し求めた。
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