第5話

 鞠子は思い切って愛梨に相談した。


 翌日の学校でのことである。


「真弥くんが約束を破ったの」


 愛梨は合点した。昨日真弥が渋っていたのは鞠子との約束があったからだったのだ。それを放って愛梨のところに来たというのだから律儀なものだ。しかし愛梨は心底驚いた顔をして見せた。


「前にもそんなことあったの?」


「ううん。約束破るなんてなかったのに。アイスクリームなんてくだらないと思ったのかなあ」


「アイスクリーム?」


「うん、そう。公園のアイスクリーム食べようって、約束していたのに」


「理由は聞いてみたの?」


「うん……。でも誤魔化して教えてくれないの。こんなこと始めてよ」


「理由を言えないってこと?」


「わかんない。真弥くん、このところ変なのよ。電話しても出ないことが多いし、家に電話しても帰るのが遅いことが多いみたいで……」


「それってまさか……」


「なに?」


「ううん、なんでもない。真弥くんがそんなことするはずないもんね」


「なあに、それ。……浮気ってこと? 真弥くんがそんなことするはずないわ」


「そうよね。こんなあからさまに怪しい浮気なんかしないわよね。やるんなら普通見つからないようにするもの」


「愛梨ちゃん!」


「ああ、ごめんごめん。でももし何か良くないことがあるんなら、早めに話し合ったほうがいいんじゃない?」


「やっぱりそう思う? うん。今日の夜に話すことにする」


「それが良いわ」


 鞠子は走って去っていく。おそらく真弥のクラスに行ったのだろう。


 残された愛梨は開いた窓によりかかり、流れる雲に目を向けた。そこにイリアが話しかける。


 (そろそろ良いタイミングかしらね)


「そう思うわよ」


 (じゃあ今晩、機会があったらね)


「機会なんて作るんでしょ? あなたなら」


 (まあね)


 昨夜の公園でのできごとをぼんやりと思いだす。機会なんてのはいくらでも作れるのだ。条件は既に揃っているのだから。


 半分沈んだ夕日を半身に受けながら、真弥は公園に向かっていた。昼間、鞠子から話があると呼び出されて、鞠子の委員会が終わる時間に公園で待ち合わせることになっていたのだ。待ち合わせの時間には既に遅れている。真弥は急いでいた。


 ポケットの中の携帯電話が鳴った。愛梨からだ。走りながら電話に出る。


「もしもし」


「今から来て」


 その場で立ち止まる。


「これから用事があるんだよ」


「来なさい。反論は認めないわ。すべてを捨てて、まっすぐに私のところに来なさい。貴方はそれに逆らえないはずよ」


 真弥は考える。愛梨の声が何度も頭の中で繰り返される。


 ——逆らえないはずよ。


 逆らえないだって? 本当に逆らえないのか? 自分は確かに愛梨をいじめていた。ひどいことをしたと思う。そしていじめている最中に落ちてきた岩に挟まれて怪我をした。あれは罰が当たったんだと思う。それ以来、贖罪のつもりで女の子にはやさしくしようと心掛けてきたつもりだ。ああ、そうか、まだ罰は続いているのか。償いは終っていないのか。それなら自分は彼女に逆らえない。すべては自分の責任だ。


 行き先の公園の方角をしばらく見つめ、やがて踵を返した。


 鞠子は待っていた。公園で一人、真弥が来るのを待っていた。街灯の真下は虫が集まるから、少し離れて立っていた。


 すっかり座り慣れてしまった椅子に、真弥は腰掛けた。背後では愛梨がお茶をすすっている。最早彼に逆らう気力はない。ただひたすらに愛梨に命じられるがままに、小説を書き綴るだけである。自分の過去の贖罪のために。


 その日もいつものようにエドワードがアリスの部屋を訪れていました。しかし、その日のエドワードはなにやら思い詰めたような表情をしていて、口数もいつもより心なしか少な目です。


「どうしましたの?」


 エドワードはしばらく黙っていましたが、心を決めたのか、顔を上げてアリスに言いました。


「僕と結婚してくれないか」


「まあ、なんですって?」


「本気だよ。僕と結婚しようって言ったんだ。君はずっとこの家にいていいんだよ」


 このことは、すぐに主人の耳に入りました。当然主人は反対しました。息子が知らないだけで、エドワードとアリスは、半分は血が繋がっているのですから。主人はアリスの部屋にやってきて、アリスを諭しました。


「まさか本当に結婚しようなんて考えてはいないだろうね」


「まあ、お父様、どうしていけませんの?」


「当たり前じゃないか。君たちは半分兄妹なんだよ」


 そんなことはアリスだって分かっています。しかし、これは彼女にとってまたとない機会なのです。自分の辛い人生の元凶である父親の、財産も家柄も、なにより大事な息子も奪って自分のものにできるというのですから。


 アリスは考えました。そして鉢植えにお茶を注いで窓際に置き、夜空に向かって祈りました。幸せになるようにと祈りました。


 愛梨が立ち上がった。


 その気配を背中で感じ取った真弥が振り向き、焦点の定まらない目で愛梨をみつめる。


「ちょっと買い物に行ってくるわ」


 そう言って愛梨は部屋を出ていった。


 佐藤は公園内をぶらぶらと歩いていた。昨日今日と、連続して事件を起こせばさすがにこの場所も警察の注意を惹くだろう。この町は今日で最後にしようと思っていた。


 街灯の下に女性が立っていた。誰かを待っているようで、虫を払いながらしきりに時計を気にしている。佐藤は何食わぬ顔をしてその横を通りすぎ、ぐるりと回って草むらに分け入った。この木立の中を突っ切れば、丁度背後に出る。


 足音を立てないように靴の底にはゴム板を張り付けてある。佐藤は女性の背後から一気に襲いかかり、その口を押さえて後ろに引きずり、木立の中に押し倒した。女性は叫ぼうとするが、口の中には丸めた布を押し込められていて、うめき声にしかならない。佐藤は女性の頬を左右に二発殴った。まだ抵抗をやめない女性を重ねて殴打しようと、佐藤が手を振りかざした時だった。


 激痛が佐藤の背中を襲った。ゴトリという音と共に、背中を伝って拳ほどもある石が落ちる。痛みに顔を上げた佐藤の後頭部を、二発目の石が襲った。


 佐藤は頭を押さえてうずくまった。その下敷きになっていた女性は、この隙を見逃さず、佐藤の腹部を思いっきり蹴り飛ばした。両腕で身体を引きずりだし、死にものぐるいで起きあがると、口の中の布の塊を吐き出しながら走って逃げた。


 肩に三発目の石が命中し、佐藤は悲鳴を上げる。訳が分からないままだったが、この場所にいては不利だと判断し、這うようにして木立の中に逃げていった。


 その後ろ姿を、赤い目をした影が見送っていた。佐藤の行動を見届けようとするかのように、その後をゆっくりと追っていく。影は笑っていた。


 佐藤はそのまま公園の反対側まで這っていった。何が起きたのかを理解できてはいなかったが、とにかく邪魔をされたのは間違いない。腹の中は恐怖と怒りとで、煮えたぎっていた。復讐してやらなけれな気がすまない。いっそ誰でもいいからこの怒りをぶつけたい気分だ。


 身を起こして植え込みの中から道路に出た。


「ひっ」


 若い女の驚く声がした。女性は佐藤が出た植え込みの隣の街灯の下に立っている。数十センチの距離にいきなり男が現れたのだから、驚くのも無理はない。


 鞠子だった。


 真弥の手は休むことなく動いていた。愛梨が部屋に帰ってきても、それに気がつかずに一心不乱に物語を生み出していた。


 それから数日して後のことです。屋敷内が急に騒がしくなりました。アリスは何事かと思い、お付きの召使いをつかまえて尋ねました。


「旦那様が落馬されたのです」


 それは一大事です。しかし表に立つことのできないアリスは、陰から運び込まれた父親の姿を見ていることしかできません。その隣りにエドワードがやってきました。アリスはそっと彼の手を握ります。エドワードはその手を握り返し、


「大丈夫だよ」


 と優しく言い聞かせました。


 都会から有名な医者が呼ばれましたが、看病むなしく父親は亡くなりました。


 それから時が流れ、喪が明けて一ヶ月後、アリスとエドワードは結婚しました。結婚パーティの会場で、エドワードは「これからは二人で屋敷を守っていく」高らかに宣言しました。それを聞いたアリスは、良き妻として手助けしていくことを言い添えました。その時のアリスの顔が笑っていたのは言うまでもありません。


 そして二人は、幸せに暮らしました。


 めでたし、めでたし。


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