第2話

「望月愛梨です。よろしくお願いします」


 凛と背筋を伸ばし、四十五度の角度に低頭した。長くてストレートの髪がはらりと肩から頬にかけて流れ落ちた。教室中がしんとする。


「それじゃあ、望月さんは一番後ろの空いている席に座ってください。目が悪いってことは?」


「いいえ」


「なら良いわね。はい、それでは授業を始めますよ」


 愛梨は言われた通り最後列の窓際から二つ目の席に腰を下ろした。隣の席の女生徒がひらひらと手を振ってきたのに、笑顔で返事をする。窓際の女子生徒は、細くて淡い色の髪に軽くウェーブがかかっていて、溶けるような甘い顔を向けてきた。「おんなのこ」ってのはこういう娘のための言葉なのかもしれないと思った。


 一時間目の授業が終わると、クラス中の生徒が愛梨を取り囲んだ。


「どこから来たの?」「どこに住んでいるの?」「好きな歌手は?」「恋人いるの?」


 そういったありきたりの質問に、答えたり曖昧にごかまかしたりしながら、愛梨は一つ一つ返事をしていく。質問攻撃は休み時間の度に繰り返された。


 昼休みになり、生徒たちは食事をするために離合集散を開始する。ある者は購買に食パンを買いに行き、あるものたちは机を寄せ集めて弁当を広げる。


 愛梨はその喧噪が始まるのにまぎれて、そろりと教室を抜け出す。誰かが転校生のことを思い出して「望月さんもお弁当に誘おう」と言い出す隙もなかった。


 校舎の中をあちこちと歩き回る。結局休み時間は質問責めに終始して、トイレ以外は校内を見る時間も無かった。見るなら昼休みだろう。その前に一人で食事ができる場所を探そうと思っていた。


 校舎の裏手に回り、グラウンドの片側に設置されている階段の途中に腰を下ろす。階段といっても一段が五十センチくらいはあり、スポーツの試合がある時には観客席に変わるものだ。


 膝の上に広げた弁当を箸でつつきながら、意味のないことをしていると思った。


 新しい人生を始めようと思って学校を変わったのに、相変わらず一人で昼食を取っているなんて。本当ならクラスの女子に混じって机を並べ、噂話にまみれた食事をするべきなのだ。しかしどうにも食事の時間だけは一人になりたかった。


 ぼんやりとグラウンドを眺めてみた。食事をするよりもボールを蹴っていたほうが良いというような少年が、早くも何人か集まってサッカーを始めている。


 (無邪気に生きられたらいいのにね)


 イリヤがささやく。


「周囲と折り合いつけながら、自分の思うように生きるのは大変ね」と、答えようとしたときだった。


「あ、望月さん、こんなところにいたんだー」


 振り向くと、隣の席の「おんなのこ」がいた。


「あなたは隣の、えっと……」


鞠子まりこよ。比田ひだ鞠子」


「ごめんなさい。比田さんね。どうしたの?」


「鞠子でいいわ。私も愛梨ちゃんって呼んでいい?」


「いいけど……」


「じゃあ、愛梨ちゃんね。うーんと、愛梨ちゃんとお弁当食べようと思ったら、教室にいないんだもん。あちこち探しちゃったよ」


「うんちょっと。一人になりたかったっていうか」


「あ、じゃあ私、邪魔しちゃった?」


「ううん。いいわよ」


 するりと口から言葉が出た。意図しない言葉だったが、鞠子の柔らかい雰囲気に流されてか、つい口から発してしまっていた。


 鞠子は必要以上に近付こうとしていなかった。愛梨の空間に侵入することなく、ほど良い距離を置いて接していたから、拒否反応が出なかったのかもしれない。


 そして鞠子は撫でるように愛梨が張り巡らした見えない壁に触れ、そっとその内側に入ってきた。何の違和感もなく、愛梨の隣に腰をおろした。


「愛梨ちゃんはいつも一人でご飯食べているの?」


「うん……、まあ、そうね」


「ふうん」


 不思議な子だ。「ひだまり」という名が、本当にぴったりの子だと思った。一人になりたいはずの時間に隣に座られても、何の違和感も感じさせない穏やかな物腰は、好感が持てる。自分の世界を壊さない相手は嫌いじゃない。


 愛梨は弁当箱を閉じた。


「ね、学校の中、案内してくれない?」


 午後の授業が終わり学校から帰ろうとしたら、鞠子が寄ってきて、気がつくと並んで帰路についていた。


「愛梨ちゃんは一人でいるなんてもったいないよ」


 ニコニコしながら言う。


「でも一人になりたい時ってあるじゃない? そういう時、鞠子はどうするの?」


「うーん、確かにそういう時はあるかもね。そういう時は、私ならやっぱり一人で部屋に篭もっちゃうかな。誰も入ってこないでって言って。うん、そういう時があっても良いとは思うよ? でも愛梨ちゃんが出しているオーラっていうのかな、そういうのとはちょっと違う感じがするのよね」


「そうかしらね」


「人間嫌いの振りをしているけど、本当は大好きだと思っている、とか」


「別に人間嫌いじゃないわ」


「えへへへ。そうよね。言ってみただけ。それとね、最近ブッソウなんだってよ? 『変質者』とかが出るんだって。だから一人で帰らないほうがいいよ」


「そう。気をつけるわ」


 大通りから一本入った坂の下で二人は別れ、愛梨はアパートへと帰っていった。学校と家の間は片道で十分くらい。変質者が襲う隙もないだろう、多分。鞠子のほうがよっぽど危ないんじゃないかと思う。


 薄暗いアパートの玄関を開けて、部屋の照明を点けた。


 (おつかれさま)


 イリアの声がする。


「別に疲れてなんかいないわ」


 (ああいう子は苦手なんでしょ? )


「苦手なはずなんだけどね」


 制服を脱いで、壁のハンガーにかけた。


「それほど嫌な感じでもなかったのよ。自分でも不思議なくらいに。ああいう子が世の中にいるとは、驚きだわ」


 (でも善意の塊って嫌いなんでしょ? )


「押しつけの善意はね。だけど鞠子の場合は押しつけじゃないのよ、もっとこう……無邪気っていうか、無欲っていうか」


 (随分と肩を持つじゃない。単に何も考えていないだけかもよ? )


「それはありうるわね。だったら都合が良いじゃない? 私にとってもイリアにとっても」


 (扱いやすいってことね)


 お湯を沸かして紅茶を入れた。カップを回転させるように揺らし、紅茶が冷めるのを待つ。


「……私って人間嫌いなのかしらね」


 (嫌いじゃないの? )


「嫌いじゃないって答えたわね、私」


 (じゃあ好きなんじゃないの? )


 イリアの声には含みがあった。顔が見えたら、きっとにやにや笑っているだろう。


「好きになる理由なんかないわ」


 (ほら、良く言うじゃない。人を好きになるのに理由はいらないとかって)


「冗談!」


 琥珀色の紅茶を軽く一口。やっぱり他人なんか好きじゃない。無理なんかしていない。


 でも鞠子は受け入れても良いかもしれない、そう思われる空気を彼女は持っていたのだ。


 翌日の放課後も、鞠子は一緒に帰ろうと言ってきた。それに頷いて鞄に教科書をつめていると、教室の入り口の方から鞠子を呼ぶ声がした。


 制服の男の子が手を振っている。鞠子が片手を頭のうえで大きく振った。


「ちょっと待ってねー」


 そして愛梨の耳元にそっと口を寄せて囁く。


「カレなの」


 砂糖菓子のように甘い声だった。


 結局その日の帰り道は三人並んでの下校となった。鞠子の彼氏が、やたらと自分のほうをうかがっているのが、愛梨には気になった。気になったので、思い切って言ってみた。


「鞠子、紹介して?」


「あ、そーだったね。ええと、こっちの子は、望月愛梨ちゃん。昨日転校してきたんだよ」


 少年はその名前を聞いて目を一回り大きくし、堰いたように尋ねてきた。


「望月さんって、小さい頃、親戚の家にいたことなかった?」


「え? う、うんあるけど」


「やっぱり! 愛梨ちゃんでしょ?」


「どうしたの? 愛梨ちゃんのこと知っているの? 真弥しんやくん」


 愛梨は眉間に皺を作った。その名前が呼び覚ます記憶は、


「し……んや……くん?」


「そうだよ。僕、金堂真弥だよ。覚えてない? 小さい頃、短い間だけど一緒に遊んだでしょ」


「シンヤ……くん? !」


 隣りで鞠子が、心底驚いた声を上げた。


「えー! 二人って知り合いだったの?」


 それからは鞠子の質問攻めが始まった。子犬のように二人の間を行ったり来たりする。


「真弥くんって、小さい時どんな感じだったの」


「まあ、元気がいい子って感じね」


 ——どうしょうもないクソガキだったわよ。


「元気なだけだよ。別に」


「今と反対なのねー。今はものすごくおとなしいし」


「そうなの?」


「そんなにおとなしいかなあ」


「おとなしいわよ。優しいし。小さい時も優しかったの?」


「どうだったかしらね」


 ——全然よ。優しいどころか、いじめっ子だったわ。


「別に優しくなかったよ。女の子に優しくするなんて、子供っぽくないだろ」


「そーお? 真弥くんって昔から女の子には優しいのかと思ったわ」


「優しいの?」


「そんなことないって」


「優しいわよ。生徒会の後輩なんかに、すんごく人気あるんだから」


「生徒会?」


「ああ、書記をやっているんだ。別に人気とかそういうの、関係ないって」


「でも真弥くんが人気者なのって、私ちょっと嬉しいわ」


「のろけね」


 ——反吐が出るわ。


「違うって、愛梨ちゃんたら……。あ、そうだ。ねえ、真弥くんって、小さい時から本読むの好きだった?」


「おい、鞠子、その話はやめろって」


「本? そんなこと、ないと思うけど」


「そうなの? あのね、真弥くんは小説家になりたいのよ。それで今もお話とか書いているの」


「そうなの」


「やめろよ」


「いいじゃない。私、真弥くんの書いたお話読むの、好きよ?」


「ふうん。今度私にも読ませてくれない?」


「……そんな、読ませるほどのものじゃないよ」


「いいじゃない、ねぇ。二人で読んで、未来の小説家さんにサイン貰っちゃおー」


 真弥が困った表情で頭を掻く。愛梨は微笑だけで返しておいた。


 昨日と同じ交差点で二人と別れた。鞠子と真弥は同じ方向に帰っていく。二人とも手を振っていた。


 愛梨は疲れ果ててアパートに戻り、鞄を乱暴に床に投げ捨てた。


「冗談じゃないわ」


 (冗談じゃないわね。生きていたなんて)


「生きていることくらいは予想していたわよ」


 いくらなんでも死んだらは愛梨の耳にも入るだろうし、命を奪うことまではあの時には望んでいなかった。多分。


「でもあんな風になっているとは思わなかった」


 (自分のことボクとか呼んでいるんだものね。ボクよ、ボク。信じられる? )


「しかも私のことちゃん付けよ? 『愛梨ちゃん』だって。気持ち悪い」


 (幼馴染みのつもりかしらね。それにしても鞠子といい真弥といい、なんだか平和ボケな人が多いわね)


「真弥が猫をかぶっていないとは限らないわ」


 (鞠子とは違うっていうの? )


「分からないけど。……でも、真弥が幸せな顔をしているのは、許せないわね」


 (そうね。許せないわ)


 イリアはどこまでも容赦がない。


 世間では「変質者」と呼ばれているが、当然本名を持っている。ただその名前がまだ世間には知られていないだけで、知られた時は男が逮捕される時だ。


 男の名は、佐藤さとう一郎いちろうと言った。


 極めて平凡な名前を持った男は、昼間はアイスクリームの屋台を開き、周囲の地理を観察して、夜になるとその知識を活かして犯罪者に化けるということを繰り返していた。


 佐藤がこの町にやってきてから二週間が立とうとしている。既に事件として現れているものを二件、未遂を一件起こしている。そろそろ次の公園に移動する頃合かと思っている。小さな町とはいえ、公園はいくつもあるのだ。


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