赤い目の影が笑う

木本雅彦

第1話

 母親が死んだ。交通事故だ。


 雨の日に横断歩道を渡ろうとして、十九歳の若者が運転する車にはねられた。若者は飲酒運転だった。その日の雨は止むことなく、通夜の今日まで降り続いている。


 望月もちづき愛梨あいりは、母親の遺影をぼんやり眺め、弔問客が一人一人挨拶していく度に機械的に頭を下げていた。


 喪主は愛梨ということになってはいたが、高校生の愛梨に何ができるわけでもなく、実質的には親戚と近所の人が色々動き回ってくれて、あとは葬儀屋の言う通りに行動しているだけだ。母親の極めて個人的かつ特殊な事情で、普段の親戚づきあいはほとんどなかったが、事情が事情だけにどの親戚も親切にしてくれた。


 縦に並んで座る親戚の列の、入り口側がざわついた。中年男性の弔問客が入ってきたからだ。愛梨の母をはねた自動車を運転していた若者の父親だった。


「ほら、あの人が」「事故を起こした本人は来ないのかしら」


 そんな声が親戚の列からぼそぼそと発せられる。


 中年男性は焼香を済ませて、愛梨の前で正座した。


「この度は息子がとんだ不始末をしでかしまして、本当になんと言えば良いのか……。正式な形でのけじめは後日弁護士とも相談して、改めてご挨拶には上がりますが、今日のところはひとまずご焼香させて頂きにあがった次第です」


「……息子さんは、今日は?」


「家でおとなしくさせております。いや、息子が悪いのではないのです。ひとえに私の教育が悪かったわけでして、責めるなら私を責めてください。このとおりです」


「やめてください。母が戻るわけでもありませんし、私もなんて言えばよいのか……。どういう顔をすれば良いのか分からないんです」


 横から叔父が口を挟む。


「突然のことで、この子も混乱しているのです。来て頂いたという誠意は頂戴いたしましたので、今日のところはこれでお引き取り願えませんか」


 中年の男性は、すいませんすいませんと、何度も頭を下げていった。


 愛梨は表情を隠すように、下を向いたままだった。周囲の親戚は、そんな愛梨のことをおもんばかってかそっと距離をとり、愛梨の望むがままにしておいた。だから、下を向いた愛梨の口元がかすかな笑みを浮かべたことに、誰も気がつかなかった。


「愛梨ちゃん、じゃあ叔母さんたち帰るけれど、本当に一人で大丈夫かい?」


 愛梨はうなずく。


 弔問客も帰り、手伝いに来ていた親戚や近隣の知人も帰っていき、アパートの部屋の中は愛梨と横たわる母だけになった。どうせこれまでも二人だけで生活してきたのだ。それが一人になったからと言って、大した違いはない。母親なんて名前ばかりで、母親らしいことをしてもらった記憶なんかない。


 愛梨は遺影の正面に正座をした。床には細長い木の箱があり、その中には司法解剖から戻ってきた母の遺体が入っている。顔以外の場所は見えないようになっていて、愛梨も事故にあった母親の遺体の状態は知らないし、知りたくもなかった。


「お母さん」


 笑い顔の遺影に向かって話しかけた。


「これでもう、私のことをぶったりできないわよね」


 母は答えない。当たり前のことが、とても気持ち良かった。もう母の激昂した声を聞くこともないし、容赦のない殴打におびえる必要もない。


「あなたが悪いのよ。あなたがあまりにも理不尽だから」


 愛梨は笑っていた。


「でも良かったじゃない? 家庭裁判所とかに駆け込まれて、面倒な裁判とか訴訟とかになるよりは、あっさりと死んじゃったんだから。これでもうみんなが幸せなのよ?」


 視線を落とし、辺りに飾られた花を見た。百合の白色に、菊の黄色。清楚な色合いで、生前の母を思うとどうにも似つかわしくない。


 軽く息を吸い、宙に向かって呼びかけた。


「イリア? イリア、いるんでしょ」


 (いるわよ? )


「うまくいったわね。見事なくらい」


 (ええ、本当に。これであなたは自由ね)


「そう。あなたのお陰よ。あなたが、お母さんを突き飛ばしてくれたから」


 (車を運転していたのが未成年で飲酒運転ってのは、良い方向に予定外だったわ。これで誰もがあなたに同情するわね)


「そうね。ここまでうまく行きすぎると、かえって信じられないわね。ボロを出さないように、慰謝料の話は慎重に進めないと」


 (まあでも、愛梨はそういうのって得意でしょ? )


「ええ。大丈夫よ、任せておいて」


 イリアの姿は誰にも見えない。だけどイリアはいつも愛梨と一緒にいた。愛梨が呼びかければイリアは答えてくれた。


 いや、イリアの姿を見たことないというのは正確ではない。一度だけ、最初にイリアと出会ったときに見ているはずだ。今はもう記憶が曖昧になっているけれど、真っ赤な瞳の輝きだけは記憶の中に鮮明に残っている。最初にイリアに出会った、あの日の記憶の中に。


 愛梨の母は十九歳の時に未婚のまま愛梨を生んだ。父親については本人がどうしても口を開かず、娘の愛梨も最後まで知らないままだった。最初は親元で愛梨を育てていたが、数年して両親が亡くなり、その後どうしても自力で娘を育てると主張して二人での生活を始めた。


 とはいえ、その生活は経済的にも精神的にも楽ではなかった。母親は何かと理由を見つけては愛梨を殴り、そのストレスと生活できるぎりぎりの収入は愛梨をやせ細った子供へと育てていった。


 ある日、幼稚園が終わった愛梨を、母親は迎えに来なかった。幼稚園の教師が愛梨の家に電話しても誰も出ず、ほうぼうに連絡をとった結果、とりあえず親戚の家で預かることになった。翌日になって、愛梨の母が勤め先の男性上司と駆け落ちしたことが分かった。


 愛梨はそのまま親戚の家で暮らすことになった。叔父も叔母も、愛梨のためにはその方が良いと考えたからだ。無理に母親を探そうともしなかった。


 叔父と叔母は出来る限り愛梨を他の子供と遊ばせようとした。あくまで普通の子供として、普通の子供と一緒に育って欲しいと考えたからだ。だから毎日「外で遊んどいで」と言って、愛梨を外に送り出した。


 しかし愛梨はあまり友達を作ろうとはせず、お気に入りの絵本を抱えては公園のすみで座って読んで一日をすごしていた。愛梨のお気に入りの絵本は異国を舞台にした「むかしむかしあるところに」で始まるような物語で、アリスやクララという名前の少女たちが王子様と結婚して次々に幸せになっていくものだ。結婚がどういうことなのか、愛梨にはいまひとつ理解できなかったけれど、きっとそれは素敵なことなのだろうと思ったし、なによりもこんな素敵な世界を与えてくれる絵本の世界が大好きだった。自分もいつかこんな絵本を創り出したいと漠然と思いながら、その世界に入り込んでいた。


 愛梨が座って本を読んでいると、決まってシンヤという男の子がちょっかいを出してきた。シンヤは男の子の中心で、活発な子供だった。その日も愛梨の絵本を取り上げて、高く掲げた笑ってみせた。


「かえして」


「しらねーよ。とってみろよ」


「かえして」


「なんでえ、いつもひとりでほんなんかよんでいてさ」


「かえしてよ」


 シンヤは背伸びをしながら絵本を高く上げ、一歩飛ぶように逃げる。愛梨は必死に絵本に手を伸ばす。


「おまえなんかイラナイコのくせに」


 その言葉に愛梨の動きが止まる。シンヤにゆっくりと近付いた。


「なによ、それ」


「だってママたちがいっていたぜ。アイリのママはアイリをすててにげたって。だからアイリはイラナイコなんだよ」


「もういちど、いってみなさいよ」


「ほんとうのことだろ? イラナイコってのは!」


 愛梨はそのまま走って家に帰った。


 夕食になっても部屋から出てこない愛梨を心配して、叔母が声をかけた。途中から叔父も加わり、一時間近くしてからようやく愛梨は昼間の出来事を話した。


 二人は愛梨を連れてシンヤの家に抗議に言った。口調こそ穏やかだったが、言っている内容は厳しいもので、シンヤの母親はひたすら「すいません。申し訳ありません」を繰り返し、横にいたシンヤの頭を何度も拳固で殴った。


 愛梨はその様子が恐ろしくて、叔母の後ろに隠れてそっと窺っていた。


 いじめられたことよりも、その後の展開のほうが恐ろしくて、帰宅してからは早々に蒲団に潜り込んだ。


 そこにイリアが現れたのだ。


 最初は何が起こったのか分からなかったが、仰向けに寝ている愛梨に向かって話しかける何かがいることに気がついた。


 (愛梨……)


 暗闇の中で人型の影が浮かんでいるような気もするし、まぼろしのような気もする。でも、天井を見ていたはずの愛梨の視線の先に、真っ赤な二つの目が浮かび、双眼は愛梨をみつめていた。


 (愛梨? 聞こえるんでしょ)


「だれ?」


 恐る恐る返事をする。


 (私はあなたを助けるために来たの)


「たすける?」


 (そうよ。助けて欲しいんでしょ? 憎いんでしょ? )


「よく、わからない……」


 (分からないことはないはずよ)


「わからない! あっちいって!」


 それきり声は聞こえなくなった。


 翌日。愛梨はいつものように叔母に促されて、絵本を持って外に出た。国道とは名ばかりの田舎の山道に出たところで、シンヤが待ち伏せしていた。


「つげぐちしやがって!」


 愛梨の姿を見つけると、走って襲いかかってきた。


 愛梨は来たばかりの道を逃げ出したが、あっという間に追いつかれ、道路脇に押さえつけられた。


「つげぐちなんてまねして、ひきょうだぞ」


「やめて! やめて!」


 道路の片側は切り立った山の土がむき出しになっていて、愛梨の服は土色に汚れていった。シンヤが愛梨の頭を殴る。何度も何度も繰り返し殴る。


「おまえなんか!」


 愛梨は助けを求めるように空を見た。大人が通りかかってくれないかと期待した。顔を上げた愛梨の頬を、シンヤの拳が直撃した。ふっと意識が遠くなる感覚がする。


 (助けて欲しいの? )


 昨夜と同じ声が聞こえてきた。


 (その子が憎いんでしょ? その子が怖いんでしょ? )


「た……たすけて、たすけて!」


 (そう、それでいいのよ。いいわ。助けてあげる)


 愛梨は両手で思いっきりシンヤを突き飛ばそうとした。その手を軽くかわして、シンヤは愛梨の目の前で立ちはだかる。その背後に黒い影が忍び寄ったように、愛梨には見えた。


 突如、シンヤの身体がぐらりと傾き、切り立った山肌にぶつかるようにして倒れ込んだ。その上から土の中にのめり込んでいたはずの大きな岩が、ゆっくりと粘土状の土を崩しながら落ちてきた。誰かの力で無理矢理に引き出されているような、そんな不思議な光景だった。


 岩は山肌を転がり落ちてきて、倒れたシンヤの足の上に激突した。


 シンヤが大きな悲鳴を上げる。痛い痛いと大きな声を上げる。


 愛梨は逃げ出した。後ろを振り返ることはせず、ひたすらに走って逃げる。


 頭上の声だけが離れずについてくる。


 (あれでいいんでしょう? あれがあなたが望んだことなんでしょう? )


「あなたがやったの?」


 (そうよ。これからもあなたが望むのなら、私はあなたを守ってあげるわ)


「あなたはだれ?」


 (私はイリア。あなたの心と対をなす存在。そしてあなたを守るもの)


「いり……あ?」


 (そう。それが私の名前。あなたを守る存在。ただしこれだけは覚えていて。憎しみの心を忘れてはいけないわ。あなたの憎しみが私の力になるの。憎しみを持つ限り、復讐を渇望する限り、私はあなたを守り続けるから。私はあなたの盾であり剣であるの)


 愛梨は立ち止まって、肩で息をした。いつの間にか家の目の前まで辿り着いている。シンヤがどうなったのかは全く分からない。


 愛梨は絵本を地面に落す。イリアを受け入れようと思った。


 それから二週間後、愛梨の母親が突然愛梨を迎えに来て、親戚を巻き込んだ騒動の結果、愛梨は再び母親と暮らすことになった。


 その後の数年間で、イリアの手によって愛梨の近辺の四人が重傷の怪我を負い、二人が死んだ。母親が三人目だった。


 生命保険の支払いと慰謝料の交渉は、滞りなく進んだ。事故の状況からして、運転手に非があるのは明らかだったし、何よりも飲酒運転であるというのが決め手になったのだ。見晴らしの良い道路に、愛梨の母がどうしてふらっと飛び出したのかという点は問題にもならなかった。


 一通りの手続きが終わった段階で、愛梨はそれまで住んでいた2DKのアパートを引き払うことにした。親戚の中からは引き取るという声もあがったのだが、それを丁寧に辞退して、1Kの小さなアパートを借りて一人暮らしを始めることにした。


 通学のことを考えて学校も移ることにし、草凪原学園への転入手続きを取った。


 新しい生活を始めようと思った。


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