第35話 退屈な『屁理屈』にさよならを――

 そうしてぼんやりと漂う雲をカフェテラスで眺めることしばらく。


「ねぇ、依頼ってキャンセルできないのよね」


 ポツリと空に溶けるようなしのぶの言葉に、危うく大事な特製クレープを落としそうになった。


「ねぇちょっと聞いてるの?」

「わ、わりぃ。クレープに夢中で聞いてなかったわ」


鹿があろうことか「キャンセルできないのか?」と聞いてきたのだ。


 これまでどこか反抗的だったからこそ、この発言の仕方は意外すぎた。

 

(まさかあのじゃじゃ馬がこれほどまでに素直になろうとは……)


 いままで一方的に命令口調だった彼女からは考えられない変化だ。

 それほどしのぶの口からもたらされた言葉は初めて彼女が垣間見せた本音のような気がして――


「ねぇ、ちょっとなにか失礼なこと考えてるんじゃないでしょうね?」


「あ、いやそんなことはないぞ、たぶん。……えっと、それでなんだって?」


「だから、――便利屋の依頼ってキャンセルできないのかって聞いてんの」


 徐々に小さくなっていく言葉は彼女なりに、わたしに寄り添おうとした表れなのだろうか。

 どこかぶきっちょな距離の詰め方だが、不器用な彼女なりの誠意を感じ取れないほどわたしは鈍くない。


 それにしたって、


「……キャンセル、ねぇ」


 そんな便利なことできたら苦労はないんだろうけど……一応、こちらも客商売。

 雇い雇われの関係だ。要はギブandテイク。

 もし、万が一。富岡順太郎が「うん」と頷いてしまえばそこで終わってしまうような関係でしかないが、


「あそこまで必死になってお前のことを救おうとする父親が、そんな馬鹿なこと許すとは思えないんだねぇ」


 だとしたらしのぶの父親は相当最低なクズの部類に入る訳だが。


 少なくともあのナヨナヨした父親に人の命をどうこうする決断を下せるだけの器がないのは確かだ。

 それは不本意ながら極道の世界に身を置いてきたわたしだからこそ断言できるのだが、


「なにお前、そんなにわたしから解放されたかったわけ?」


「……アンタがこのしょうもない依頼に執着する理由はだいたい理解できたよ。要はお金がなくて困ってるからこんなに必死になってあたしに付き纏うんでしょ? 

 だったらさ――あたしの保険金からキャンセル料を貰えばいいよ。あたしがお父さんにそう言い聞かせておくから」


「いやいや。どこの世界に娘を見殺しにしようとする会社に金を払おうとする馬鹿親がいるかよ」


「するよ。あの人、あたしの言うことならなんだって聞いてくれるから」


「その自信はどっから来るんだよ」


 そこまで愛されていると自覚しているならもうちょっと父親に対して、素直になってやった方がいいと思うんだが、問題はそこではなく。


「つまりなにか。この期に及んでお前、マジで死ぬ気なのか?」


「……アンタのこれまでの頑張りだって空回りしてたけど、アンタみたいな野蛮人にもそれなりの事情があるってのは理解してる。でもさ、ふつうそうまでして真剣になるような依頼でもないんだよ。これは――」


 そう言って膝に置いたしのぶの右手が握り締められ、弾みで持っていた特製クレープの中身がブサイクにスカートを汚す。


 それは富岡しのぶがこれまで必死に形を整えてきた虚像が徐々に溶けだしたようにも見え、


「だって、幻死症だよ? 元々助かる見込みのない人間なのに、普通手なんて差し伸べないって。それこそアンタからしてみればあたしなんか赤の他人じゃん。そんな救われる気も、救える可能性もこれっぽっちもない。成功する見込みのない依頼を続けたって無駄なだけだよ」


 朗々と語られるしのぶの口から抑揚のない声が零れ始めた。

 だが、その抑揚のない言葉に徐々に震えのような血肉が通いだすと、


「お前な。そんなこと――」


「わかるよ!! だって凛子さんからそう言われたんだもん!!」


 ギュッと膝の上で拳を握りしめ、絹を裂いたような叫び声が上がる。


「生存確率一パーセント。これがどんな数字かわかってる? これは何もあたしだけが助かる数字じゃないんだよ!!」


 先ほどまでの冗談とは違う。本気で胸ぐらをつかまれ引き寄せられる。

 そのギラギラとした目は、昨日までの彼女の死にたがりとは違う。

 富岡しのぶという一個の生命の魂の煌めきだった。


「あたしがなにも知らないと本気で思ってるの!? 幻死症を患った子が自分の『幻想』を制御しきれず街一つ消滅させたなんて話、いくつもある。あたしがこの病気に耐えられなくなれば、それこそ多くの人を巻き込む。いいや、絶対巻き込む。

 だって――あたしの幻想は、世界一つ飲み込んじゃうくらい大きいんだもん」


 徐々にか細くなっていく言葉。

 はぁはぁと俯き加減に隠れる栗色の髪の所為で顔が見えない。

 だが、その言葉に嘘偽りがないことだけは、わたしの魂が理解した。


「だからあたしは、あの部屋で大人しく死を待たなきゃならないの!! だからもう構わないで」


「……それでお前は救われるのか?」


「当り前だよ。あたしが死ねば、こんな怖い思いしなくて済むんだもん。あの人だって、あたしがちゃんとお願いすれば、なんでも言うこと聞いてくれるんだしてくれるんだ。だからさ――」


 もういい加減付き纏うのは、やめにしよ。


 そう言って俯き、いまにも折れそうになるか細い肩が微かに震えだす。


 なるほど。どうやら見込み違いという言葉は撤回しなければならないらしい。


 僅かとは言え垣間見えた少女の変化に、ふっと唇の端から笑いが漏れる。


 確かに救われる気のない人間をどうこうしようとしたって無駄なことは理解している。だがな、しのぶ。わたしを少しだけ侮り過ぎてやしないか?


 よりにもよってこのわたしに弱みをさらけ出すなんて、それは利用してくれと言っているものだ。


 第一『……こんな愉快で面白い馬鹿を死なせるのはもったいない』と思ってしまった。


 わたしは、この溢れんばかりに眩く輝く彗星のごとき『煌めき』を知っている。


 だからこそ――わたしは期待に踊る万感の思いを胸に、一度大きく息を吸い込むようにして胸を膨らませると。

 彼女の覚悟と真摯に向き合うべく口を開き、一言。


「残念ながらそれは無理な話だし、わたしがさせないよ。


 と全てを投げ捨てる決意を込め、わたしは緩く首を振るう形で彼女のありきたりなほど甘ったるい覚悟を『否定』するのであった。

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