第6話 微睡

ジャーっという音が浴室から聞こえてくる。

もちろん、俺がお風呂に入っているわけじゃない。

優華が入浴しているのだ。


その生々しい音をベッドに横になりながら、音を聞かないふりをする。そこにいるのは妹……本来ならなんのことはないはずなのだ。


実家ではそんな音を飽きるほど聞いていたのに、今は水の滴る一滴の音さえ敏感に反応してしまう。


実家であれば両親がいる手前、意識する方が難しく、自室に籠ることもできた。だが今はそうじゃない。


1LDKの狭い部屋の薄い壁の向こうで、生まれたままの姿を晒している妹の姿を思い浮かべてしまいあらぬ妄想を掻き立てる。


妹はここに泊まる前提で俺が一人暮らしをしている部屋に転がり込んできたようで、部屋になかったエプロンや歯ブラシなどの荷物が持ち込まれていた。


さすがに追い出すわけにはいかないので一晩は泊める予定だが、この距離感は心臓に悪い。

こちらから離れたはずなのに、あちら側からかもがネギを背負って来るとは思っていなかった……。


ガチャリ……。

浴室のドアが開く音がして、妹の体と布の擦れ合うおとが聞こえ始めたので、俺はそそくさと壁の方を向いて布団を首までかぶる。


狭い廊下を歩く音と共に優華が部屋へと戻ってくる音を耳にする。


「ああ、さむ……。エアコンついてるのにやっぱり寒い……」

タオルで長い髪を拭きながらそそくさとこたつにも振り込む優華を意識しないよう、寝たふりをする。


すると、妹はこちらに近づいてきて、「おにぃ、寝たの……?」とつぶやく。

二人の間に甘い空気など存在存在しない。存在しないはずなのに二人しかいない空間が気まずい空気を醸し出す。


「……いや、寝てない」


「あっそ……。」

沈黙が部屋中を支配する前に俺は声をあげると、優華は興味なさげにつぶやいて、鞄から持ってき   た小説を手に取り読み始める。


「……テレビ、つけていいんだぞ?」


「ううん、いい……。病人が気を遣わなくていいから寝てなさい」

ベッドに横たわる俺の提案に、こたつに入って黙々と小説を読み続けている優華が淡々と答える。


その声を聞いて、俺は再び壁の方を向いて無心を心がける。二人の呼吸とぺら、ぺらと本が擦れる音だけが、無言に包まれた空間に響き渡る。


「……ねぇ、起きてる?」


「ああ……。」

優華は手に持った本から視線を離す事なく、再び俺に声をかけて来る。


「さっきの話の続き。あの人とはどんな関係?」

あの人……。きっと天野さんのことだろう。


「いや、ただのバイト仲間だけど?」

ただ、事実だけをさらっと伝えたのだけど、妹の視線が少し痛い……気がする。


「それにしては肩まで組んだりして仲がよろしいことで……」

顔を引きつらせ、冷めた口調の優華の発言に俺はその時の状況を思い浮かべる。


そういえば、彼女と一緒に帰っていたのに、あの後どうなったんだっけ?

体調が悪く朦朧としていたので自宅への道すがらの状態をちゃんと覚えていなかった。


「あの時の記憶が曖昧なんだ……。どんな様子だった?」

俺は優華にその時の状況を尋ねてみる。


すると優華は途端に嫌そうな表情に変える。

どうしてそんな嫌そうな表情をするのだろうか?

その表情の訳がわからないでいると、優華はゆっくりと口を開く。


「おにぃが帰って来るのをマンションの前で待ってたら、なんか二人が肩を組みながら帰ってきてるじゃない?いやらしい……。」


「いやいや、俺もその時の記憶は曖昧だから……。てか、いやらしいってなんもしてないでしょ?」


まるで汚れたものでも見ているような視線で俺を見て来る妹に、俺は無実を訴える。


それはそうだ。妹とはいえ、仮にも俺の思い人である人にあらぬ誤解を残しておきたくないので、不自然にならない程度に否定する。


だが、優華はその言葉にも何か納得していないような表情で「それはそうだけど……。」と呟いて、膝を抱え始める。


天野さんと何かあったんだろうか?

その不満げな表情の意味が分からずに俺は首を傾げる。ただ、その表情にはどこか既視感があった。


……あれはいつだっただろう。


「……けど、一人暮らしの部屋に女の子を連れて来るのはどうかと思うよ?」

俺が既視感の正体について思い返していると、優華は歯切れ悪い口調で呟く。


「いやいや、連れてきたわけじゃないぞ?家の方向が一緒だったから途中まで帰っただけだ!!」


「……ほんとに?」

妹の疑いの視線に俺は慌てて弁解する姿に、優華は

何故かホッとしたような表情で顔をこちらに寄せて来る。


……ごくり。

お風呂上がりのボディーソープの匂いと、可愛らしい白いパジャマ。そしてノーメイクでも変わらない可愛らしい顔に俺は喉を鳴らす。


その愛おしい視線が俺を見てくれていることに喜びを感じつつ、なぜ不満げな妹に対して弁解をしないといけないのか疑問に思う。


彼女にとって俺はただの兄にすぎないはずなのに。


「……優華は何を怒っているんだ?」


「なっ……」


俺の至極当然な疑問に彼女は驚く。

それも顔を真っ赤にして……だ。


その表情の意味が分からないので俺は首を横に捻る。すると彼女はますます顔を真っ赤にする。


「う、うるさい、ばか!!病人はうだうだ言ってないで早く寝て!!」

と、俺の上半身を押してベッドに寝かせる。


女の子に押し倒されるとか、ドキドキするシュチュエーションなのだが、妹はさっさと俺に布団を被せる。


優華なりの優しさなのだろうが、その一連の行動に彼女が如何に俺に意識していないかが分かる。


その躊躇のなさは俺に虚しさを感じさせるとともに勘違いをしなくて済むと言う安心感も与えてくれるのだ。


妹に言われるがまま、俺は布団に潜り込む……のだが、とあることに気が付く。


この家には布団は一つしかないのだ。


「なぁ……優華はどこで寝るんだ?布団はこれしかないぞ?」


「えっ?どこでもいいわよ。こたつだってあるんだし」

何を言ってるのと言わんばかりの表情でベッドの上に転がっていたクッションを拾い上げるとベッドの近くに置いてぽんぽんとクッションを叩く。


「いや、それは申し訳ないよ!!優華がベッドに……。」

と言うと、彼女は再びグッと身体を近づけてきて俺の顔を指差す。


「何言ってんの?おにぃ、風邪ひいてるんでしょ?ならおにぃはちゃん寝ないとダメ!!」


指差す妹の可愛らしい白いパジャマから覗く柔肌が

俺の視界に入りこんでくるが、それを優華は気にする事はない。


高鳴る鼓動が彼女が感じる熱量の違いを嫌でも感じさせる。


「じゃあ、一緒に寝るか?昔みたいに……。」

悔し紛れに俺は布団を剥いで妹をベッドに招く真似をすると……クッションが俺の顔に向かって飛んでくる。


「はぁ!?何いってんの?信じらんない!!おにぃの変態、シスコン!!きもいから早く寝ろ、ばか!!!」


真っ赤な顔をした妹が歯をむき出しにして怒っている。その姿を見て、俺はホッとする。もし、一緒に寝ると言われてたら精神が持たなかっただろう。


「ははっ、すまん、すまん。じゃあ……おやすみ」


「早く寝ろ、馬鹿……。」

怒った優華はそう言って部屋から出ていき、洗面所の方へ歩いていく。その様子を見ることなく、俺は目を閉じる。


久しぶりの妹がここにいる事の喜びを感じながら再び、俺は微睡の中へと落ちていく……。





……はずだったのだが、「ちょっと、おにぃ!!ドライヤーはどこ?」と言う声に俺は夢の世界から再度現実へと引き戻される。歯痒さしかない現実に……。







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