第9話アリシアの想い

「ふぅ……生き返るな」


 両手でお湯を掬うと顔にかける。俺は現在、エルフが保有している温泉というものに浸かっている。

 温泉の周りは岩で囲まれており、岩の間から流れ落ちる水音のみが辺りに響く。


 周囲は高い木々に囲まれているお蔭か、特に誰の視線をきにすることなく俺は1人でくつろいでいた。


「それにしても不思議なものだ」


 ほんの何日か前は邪神の前に立っていたのに今はこうしてエルフの村で世話になっている。

 イルクーツ王国でアリシアと共に過ごしていた時には想像もつかなかった。


「アリシアは大丈夫だろうか?」


 別れ際の彼女の表情を思い出す。

 アリシアは優しい女の子だ。自分の代わりに誰かが犠牲になるのをよしとしない。恐らく落ち込んでいるに違いない。


「何とか俺が無事だと知らせることができればな……」


 それにはまず人族の村か街にたどり着かなければならないのだが……。


「とりあえずどうやってこの森を抜けるかだな」


 俺は頭を悩ませるのだった。




 そこら中からは笑い声が聞こえてきて、周囲には光の玉が浮かんでいる。

 光の精霊が生み出す光量は優しく周囲を照らしており、そこに浮かぶエルフはとても幻想的に見えた。


 俺はコップに入った蜜酒をちびちびと飲みながらその光景を見ていた。


「美味しいな」


 花から作られた酒は清涼感が溢れていて飲みやすく、上品な蜜の味が口いっぱいに広がる。

 エルフ秘蔵の酒らしく、街ではこのような酒は飲んだことがない。


 この一杯を呑めるだけでもここにいる価値はあったなと思っていると。


「エルト。今日の主役がなんで端っこにいるのよ」


 そこにはセレナが立っていた。

 先程の森で活動する恰好とは違い、布地が薄い白のワンピースにサンダルと花飾り。温泉に入ったのか頬はほてっており良い香りが漂ってくる。


 手には俺と同様に蜜酒を持っているようで上機嫌な様子だ。


「皆嬉しそうだなと思って見ていたんだよ」


 俺が何となくセレナから視線を逸らしてそちらを見ると。


「それはそうよ。私達はこれまでブラッディオーガに酷い目にあわされてきたの。その心配がなくなったのだから浮かれもするわよ」


 セレナはそう言うと俺の隣に腰かけた。じっと見つめているとふとセレナと目が合う。


「ねえ、あなたのこと教えてくれないかしら?」


「俺のこと?」


「よく考えたら私たちまだお互いの名前ぐらいしか知らないでしょう?」


 ドタバタしていたからそれ以上の会話をする時間がなかったからな。


「それもそうだな。長い話になるけど構わないか?」


「ええもちろん。時間はたっぷりあるものね」


 酒を呑んで気分も良かった俺はその後ずっとセレナと談笑をするのだった。




          ★


「エルト、どうして……」


 暗闇の中、アリシアは呟いた。涙は枯れ果てておりもはや流れることもない。

 生贄の儀式から数日が経過した。


 最初は混乱していた儀式場だったが、邪神の元へと召喚される転移魔法陣にエルトが消えたことが伝わるとざわめきは収まった。

 大半の人間はエルトの行動を称賛し、その自己犠牲にたいして涙を流した。


 だが、誰もが心の底では考えていたに違いない。


『これでアリシアが犠牲にならずに済んだ』


 ――と。


「私、そんなの嬉しくない。エルトがいなくなるなんて……」


 これまでエルトと過ごしてきた記憶がアリシアの脳裏に蘇る。それと同時に失われた喪失感のようなものが押し寄せた。


「私が弱音を吐いたから、だからエルトは……」


 儀式前夜を思い出す。アリシアはエルトを呼び出していた。

 翌日になれば自分は邪神にこの身を捧げなければならない。せめてその前に想いを打ち明けたいと。

 だが、エルトの顔を見たアリシアはその想いを口にすることが出来なかった。

 目の前の幼馴染みは生まれてからずっと一緒だった。ここで想いを打ち明けてしまえば彼の一生を縛ってしまうかもしれない。そう考えると言葉が出なくなったのだ。


 変わりに口にしてしまったのは「死にたくない」という弱音だった。


 国から生贄に選ばれ、気丈に振舞っていたがエルトの前では年相応の少女なのだ。本音が漏れてしまう。

 エルトはアリシアの言葉を聞くとそっと背中を撫でた。


「あの時、私が泣かなければエルトは身代わりになろうなんて考えなかったもしれない」


 彼が吸い込まれた魔法陣を見る。


「いえ、きっと最初からこうするつもりだったのね。エルトは優しいから」


 アリシアは微かに笑って見せる。そして魔法陣に触れると…………。


「えっ!」


 魔法陣が輝きを増した。


「これ、まだ繋がってるの? 嘘……だってこの光は生贄になった人間が死んだら消滅するはずなのに」


 邪神の魔法陣は年に1度城の儀式場に現れる。そこを誰かが通らない限りは収まらず、生贄が死ぬと光を失う。アリシアは事前にそう説明を受けていた。


「もしかして、エルトは生きている?」


 それは願望にも近い言葉だ。なんらかの原因で魔法陣が誤作動を起こしている可能性もある。言い伝えが間違っていただけの可能性もある。だが……。


 魔法陣は光輝くばかりで答えてはくれなかった。例えアリシアが乗っても魔法陣は起動しない。1人の生贄を運ぶ機能しかないからだ。


「もし本当に生きているなら……」


 アリシアの瞳に光が灯る。それは先程までの絶望に嘆いていたものではなく、決意を帯びた……。


「私はエルトに会いたい」


 少女は願いを口にした。


「会って伝えなければいけないの。だって、この想いだけはずっと……」


 アリシアは胸に手をやるとトクンと鼓動が激しくなるのを感じるのだった。

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