……。



「……ねぇ、未鏡 十夜さん。このまま私を、抱いてくれませんか……?」



 先輩は唐突に、そう言った。そしてそのまま俺に抱きついて、熱い吐息を耳に吹きかける。


「先輩……」


 背筋せすじにぞくりとした感覚が走って、腕に力がこもる。ドキドキとした鼓動は、俺のものなのか先輩のものなのか、もう区別がつかない。ただとても激しい鼓動が、耳朶を打つ。


「貴方が言ったのでしょう? 抱きたかったら、正面から口説くって。だから私も、そうしてるんです。普段は履かないような短いスカートを履いて、胸元の空いた服を着て、可愛い下着をつけて……。全部、貴方の為にしてるんです。貴方に求めて欲しいから、私はこんなに……頑張ったんです」


 先輩はそこでまた、キスをする。それは先ほどまでよりずっと深いキスで、脳が溶けてしまうような錯覚を覚える。……だから俺は、思う。



 先輩の全てが、欲しいと。



「…………」



 ……でもふと、余計なことが頭を過ぎる。



 余計なこと……そう。それは本当に、余計なことだ。でも、余計だと思えば思うほど、それが頭から離れなくなる。



 だから、俺は……。



「お願い、します。私を、抱いてください……」



 先輩は俺から少し距離を取り、誘うように両手を広げる。



「……先輩」



 だから俺は、そんな先輩を真っ直ぐに見つめて……




 余計なことを、口にした。



「先輩。俺、後悔してるんです」



 俺のそんな突然な言葉を聞いても、先輩の表情は揺るがない。先輩はただ蕩けるような目で、俺の瞳を見つめ続ける。


 けど俺も、今更言葉を止められない。


「先輩。初めてキスをした時のこと、覚えてますか? その時、先輩は怒ったんです。初めてだったのに、いきなり過ぎるって。……俺はそれを、ちょっとだけ後悔してるんです。もっとロマンチックに、思い返すだけで先輩が笑顔になれるような、そんな思い出にしたかったなって」


 それはとても、些細な後悔だ。或いはそれをここで口にするのは、ただの言い訳なのかもしれない。


 ……けど、先輩。俺は自分の想いは、雑に扱ってきました。毎日のように告白して、毎日のように貴女が好きだと叫び続けてきた。



 でも、だからこそ俺は、貴女の心は大切に扱いたいんです。



 つまらない理由で、傷つけたくない。ずっと笑顔でいて欲しい。それは俺のわがままかもしれないけど、俺との思い出を貴女の傷にはしたくないんです。

 

「だから、先輩。俺は貴女が、好きです。今すぐ貴女を無茶苦茶にしたいくらい、俺は貴女を愛してます。……でも先輩はもしかして、こんな風に思ってませんか? 今度の日曜日のデートで、俺たちの関係は終わる。だからせめて、最後に思い出が欲しいって。それなら俺は……嫌ですよ」


 もしかしたら、何も変わらないのかもしれない。こんなにそばで抱き合って、何度も何度もキスをした。だからそこから一歩踏み出しても、何も変わらないのかもしれない。



 だから、言って欲しかった。



『そうじゃないです。私は貴方が好きなんです。……貴方は本当に、空気の読めない人ですね』



 先輩がそう言ってくれたなら、俺は心から先輩を愛せる。そしてきっと先輩も、笑ってくれるはずだ。



 ……でも先輩は、言った。



「……ごめんなさい」



 そのまま先輩は、俺をベッドに押し倒す。そしてまた、キスをする。言い訳のように、逃げるように、先輩の舌と唇が俺に溶け込む。


「私……怖いんです。幸福すぎて、幸せすぎて、こんなのおかしいって、思ってしまうんです……」


 先輩は俺の上に覆い被さったまま、耳元でそう囁く。


「貴方の、言う通りです。私は、思ってるんです。今度のデートで、全てが終わるんだって。……だって、おかしいじゃないですか。姉さんを殺してしまった私が、こんなに幸せになれるなんて、そんなの絶対に……おかしい」


 先輩の声は、震えている。だから俺は先輩の背中を、強く強く抱きしめる。


「だから、この嘘のような幸せが消えてしまう前に、思い出が欲しいんです。確かなものを、この身体に刻んで欲しい。貴方が私を愛してくれたって証を、この身体に残して欲しいんです……」


 頬に、雫が垂れる。……ああ、泣かせてしまった。何より大切で、絶対に傷つけたくないから、拒絶したつもりだった。


 ……でも今ここで泣かせてしまったら、意味がないじゃないか。


「ごめんなさい、先輩。先輩を、泣かせるつもりじゃなかったんです。……いや、きっと俺は怖かったんです。ここで先輩を抱いてしまうと、先輩が俺の前から消えてしまいそうで、怖かった。……だから俺は、逃げたんだ」


 でも、先輩を泣かせてしまうくらいなら、俺は……。


「でも、俺なんかで先輩の涙を止められるのなら、いいですよ? 例えそれが、思い返す度に泣きたくなるような思い出になるんだとしても、それで先輩が泣き止んでくれるのなら、俺は──」


 そこから先の言葉は、優しいキスに遮られる。


「貴方は、バカですね。きっと貴方は、将来悪い女に騙されます」


「騙されませんよ。俺が好きなのは、先輩だけですから」


 今度は俺から、キスをする。


「……可愛いですね、貴方は。本当に、可愛い……。可愛くて、優しくて、温かい。……誰にも渡したくなんて、ない。貴方のこの真っ直ぐな想いは、永遠に私だけのものにしたいです」


「心配しなくて、俺はずっと先輩のそばにいます。何が起きても、絶対にこの手を離しません」


 だから、と俺は言葉を続ける。


「だから、いいですよ? それで先輩が少しでも不安を忘れられるのなら、俺が先輩を愛します。絶対に傷つけないって、約束します」


 先輩の柔らかな背中に、優しく手を這わせる。すると先輩はビクッと身体を振るわせて、俺の瞳を覗き込む。



 でも今度は先輩が、首を横に振った。



「やめて、おきます。だって貴方……泣きそうな顔、してますから」


「先輩……」


「どうして私たちは、こんなに悲しい顔をしているのでしょう? 私は貴方を求めていて、貴方も私を求めてくれている。なのにどうして、こんなに……」


「…………」


 俺に返せる言葉はない。でもきっとその答えは、日曜のデートで明かされるのだろう。


「未鏡 十夜さん。1つ、お願いしてもいいですか? それで今夜は、我慢することにします」


「……いいんですか?」


「はい。だから、聞いてください」


 先輩が俺を見る。俺も先輩を見る。先輩は、儚く笑った。……きっと俺も、同じような笑みを浮かべているのだろう。


「月曜日。お互いの秘密を打ち明けあった翌日。またここに、来ます。それで今度は貴方が、私を口説いてください。その時はきっと……私たちは、恋人になっているはずです。だから、優しく優しく私を口説いて、それで私の初めてを……もらってください」


 それはきっと素敵な思い出になるはずです、と先輩は夢のような笑みで言う。


「……分かりました。約束します。とびきりの口説き文句で、先輩の心を落としてみせます」


 そこで先輩に、キスをする。ただ触れるだけの、軽いキス。でもそれは本当に幸福で、だからこそ……胸が張り裂けそうだった。


「……離さないでください。今だけでいいから、貴方を独り占めさせてください」


「離しませんよ。ずっと、永遠に、俺は先輩を抱きしめ続けます。……だって俺は、先輩が好きなんですから」


 真っ暗な部屋で。とても静かな部屋で。ただ2人、抱きしめ合う。



 先輩の鼓動と、先輩の温かさだけが世界の全てで、このまま時間が止まればいいのにって、そんなことを願ってしまう。



 ……でも日曜日は、楽しいデートだ。そして月曜日は、とても大切な約束を果たさなければならない。



 だから今は、ただ願う。明日も明後日もその先もずっと、この人のそばに居られますようにと。




 そんな風にして、先輩との夜は赤い朝焼けに飲まれていった。


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