……怖いんです。
赤い夕焼けがゆっくりと沈んでいき、部室は徐々に夜の闇に飲まれていく。そんなどこか幻想的な景色の中で、紫浜先輩は色の抜けた瞳でこう言った。
「貴方のその……首筋のあざ。それ、何ですか?」
「────」
だから俺は一瞬、言葉に詰まる。
これはただの、虫刺されです。そんな嘘をつくのは、簡単だ。でも先輩はわざわざ、それは何ですか? と、訊いてきた。なら先輩はある程度、これが何なのか想像がついているはずだ。
……いや、仮にちょっと気になって訊いただけだとしても、ここで先輩に嘘はつきたくない。
だってここで嘘をつくのは、『実は友人に告白されて困ってるんです』なんていうのとは、わけが違う。
だから俺は覚悟を決めて、口を開く。
「紫浜先輩。俺が友人に突然告白されたって話、覚えてますか?」
「……はい。でもそれがそのあざと、何の関係があるんですか?」
「これは、そいつにキスされた痕なんです。だから──」
そこで不意に、ぱんっと音が響く。そしてじんじんと、左側の頬に痛みが走る。
「先輩……」
先輩が、俺の頬を叩いた。でもそんな痛みなんて、なんてことはない。そんなことやりずっと、彼女にこんな悲しい顔をさせてしまった自分が情けなかった。
「最低です! 貴方……私のこと好きだって、言ったじゃないですか! 私のことあんなに優しく、抱きしめたじゃないですか! なのに他の女とそんなことするなんて……最低です! 死んでください!」
「……すみません」
さっきまでとは質の違う怒りを孕んだ、先輩の声。そんな先輩の声を聞いていると、どうしても胸が痛くなる。……けど俺は、そんな先輩に頭を下げることしかできない。
「すみません、じゃないです! 貴方は……貴方は、好きでもない人とそういうことをする人なのですか! ……それとも私に好きだと言ったのは、嘘なんですか! やっぱり貴方は……冷血吸血鬼の──」
「違います! 俺は本当に、先輩のことが好きです!」
「じゃあどうして、そんなあとが残るようなことをするんですか! 答えてください!」
それは、それはただあいつに無理やりされただけで……だから俺は、悪くないんです。
「…………」
そんな答えは、卑怯だ。ちとせのあの、キス。いくらいきなりだったとはいえ、拒もうと思えば拒めたはずだ。なのに俺は、初めて好きだって言われたことに舞い上がって、あいつを……受け入れてしまった。
だから全部、俺が悪い。
全部。全部。全部。俺が悪いんだ。あの時と一緒で全部俺が悪くて、だから彼女を傷つけてしまった。
だから先輩に、こんな顔をさせてしまったんだ。
「ごめんなさい、先輩。全部、全部俺が悪いんです。だから、本当に……すみません。俺が、俺が悪いんです……」
「そんなことは聞いてません! 私はただ……!」
先輩の瞳が、俺を見る。その瞳はいつもの冷たい瞳とは違い、燃えるような熱を帯びていて、俺の胸にまたズキリとした痛みが走る。
「ごめんなさい。先輩。全部俺が、悪いんです……。だから……」
だから俺は、同じ言葉を繰り返す。それしか、できることがない。
「……どうして貴方が、そんな顔をするんですか……」
そんな風に何度も頭を下げる俺を見て、先輩はぽつりとそんな言葉をこぼす。
「すみません。俺が悪いのに、しょぼくれた顔をして。でも……俺は、先輩のことが好きなんです。その想いは絶対に、嘘じゃないです。それだけは、信じてください」
昨日と、そしてついさっきの行いで、ようやく少し先輩が心を開いてくれた。だから絶対に、ここで終わりになんてしたくない。
……そう思うのに、何を言えばいいのか分からない。誤解でも勘違いでもなく、本当に俺が悪いんだ。なら頭を下げる以外に、一体なにができるのだろう?
……答えは、ない。
だから俺はただ、頭を下げる続ける。
「──もしかして、あの女に無理やりされたんですか?」
するとふと、先輩はそんな言葉をこぼした。
「……え? ……いや、違います。あいつは確かに少し強引なところがあるけど、悪いのはあいつじゃなくて俺なんです」
「じゃあやっぱり貴方は、私よりもその人のことが好きなんですか?」
「違います。俺が好きなのは……先輩だけです!」
「じゃあどうして他の女と……き、キスなんてするんですか!」
「それは……」
堂々巡りのような問答。すっかり日も暮れた暗い部室で、俺たちは同じような言葉を繰り返す。……けれど繰り返す度に先輩の瞳から熱が抜けていき、彼女はいつもの冷たい瞳で息を吐く。
「もう、いいです。……もう、分かりました。貴方のことなんて、もう…………知りません」
先輩はそう言って、俺に背を向けて部室から出て行こうとする。
「…………」
けど何を言っていいのか分からない俺は、その背を引き止めることができない。だからただ黙って、先輩の背を見送る。
俺にはそれしか、できなかった。
「……………………引き止めないのですね」
「……え?」
「貴方は私のことが好きだと言うのに、ここで引き止めたりはしないのですね」
先輩は扉に手をかけたまま、そう告げる。
「……俺だって、引き止めたいですよ? 先輩の背中を抱きしめて、行くなって言いたい。……でも、悪いのは俺じゃないですか。ならそんなことするのは、卑怯だ……」
「自罰的なのですね、貴方は。……きっと貴方は、自分のことがあまり好きではないのでしょう」
「…………」
俺は言葉を返せない。
「嘘をつけば、よかったんです。こんなのはただの虫刺されだって、そう言えばきっと私は信じました。……でも貴方は、そうしなかった。何度も何度も謝って、必死になって正しくあろうとする。……でも私は、自分のことが嫌いな人は好きではありません」
「……すみません」
「また謝るんですか。……なんとなく、分かりました。あの人は……あの女は貴方のそんな弱さに、付け込んだのですね」
そこで先輩は、こちら振り返る。けれど明かりが消えた部室では、その表情が窺えない。
「最後の、チャンスをあげます。貴方が本当に私のことが好きだと言うのなら、それを証明してください。そしたらそのあざのことは、気にしないであげます」
「……! ほんとですか!」
「……はい。だからここで、私への愛を証明してください」
先輩は一歩、こちらに近づく。すると月明かりに照らされた先輩の瞳が、妖しく光る。
「…………」
夕焼けに照らされた先輩は、冷たさの中にどこか儚さがあった。けれど月明かりに照らされた先輩は、まるで本物の吸血鬼のように冷たさしか感じない。
……けれどそんなこと、どうでもいい。俺はどんな先輩でも、好きだ。
だから俺は弱い自分を追いやって、一歩先輩の方に踏み出す。
「…………」
愛を証明しろ、と彼女は言った。無論俺は、そんな方法を知らない。けれどここで何もしないほど、俺は臆病ではない。
だからもう一歩踏み出し、先輩の背中に手を回す。
「…………」
先輩は何も言わない。彼女はただ黙って、俺の行動を受け入れてくれる。
だから柔らかで温かな感触が、身体中に伝わってくる。それだけで心臓が、ドキドキする。けれど俺はそんな心臓なんて無視して、腕に力をこめて先輩を優しく引き寄せる。
「好きです。紫浜先輩。俺は貴方が、好きです」
そしてもう一度、想いを告げる。
「…………それだけですか? あの女とは首にそんなあざが残るようなことをしたのに、私にはそれだけなんですか?」
「……違います」
俺はその言葉で、覚悟を決める。そしてゆっくりと、先輩の唇に自分の唇を近づける。
痛いほど、心臓が跳ねる。背中に回して手が、ぶるぶると情けなく震える。けれどもう、止まれない。
だから俺は真っ直ぐに先輩を見つめて、こちらを見つめる先輩に、優しくキスを──
する直前、先輩は俺の頭を自分の胸に押しつけた。
「……え?」
だから俺は、そんな驚きの声を上げる。
「……分かりません」
そして先輩は、そう小さく呟く。
「どうしてこんなに、胸が痛いんですか? 私は貴方のことなんて……好きじゃないです。だから本当は、貴方が誰と何をしようと、どうだっていいはずなんです。なのにどうして私は、こんなに怒っているのですか? ……分かりません」
先輩はぎゅっと強く、俺を抱きしめる。
「貴方のことなんてどうでもいいのに、私は誰のことも好きにならないのに……。どうして貴方とあの女が仲良くしてるところを想像すると、こんなに胸が痛いの? どうして……自分で誘うようなことを言っておきながら、キスされそうになると……怖くて、逃げちゃうの?」
「先輩……」
「分かってるんです! 悪いのは全部あの女で、貴方はただの被害者なんだって! でも胸が、痛いんです! 貴方なんて大嫌いなのに、私の側から居なくなると思うと、怖くて怖くて……仕方ないんです」
先輩の心臓が、ドキドキと跳ねる。その鼓動は俺よりずっと激しくて、だからきっと彼女は俺よりずっと傷ついているのだろう。
「居なくなったりしません。俺はずっと、最後まで、先輩の側に居てみせます」
「嘘です! 貴方はきっといくら告白しても振り向かない私より、あの女の方が好きなんです!」
「違います! 俺は……貴方が好きです! 例え一生振り向いてくれなくても、先輩が俺のことをいくら嫌いだって言っても、俺は貴方のことが誰より好きなんです!」
そう言って、先輩の背中に手を回す。絶対に離さないと言うように、強く強く彼女を抱きしめる。
「……じゃあ、証をください。あの女が貴方にしたように、私の身体にも貴方のあとを刻んでください……!」
先輩はそこで、俺から手を離す。だから俺も、最後にぎゅっと強く抱きしめてから、手を離す。
「…………」
すると先輩は、どこか色気を感じさせる仕草で、俺に真っ白な首筋を差し出す。
「……早く、してください。ここでできないようなら、私はもう貴方を信じません」
「…………わかりました」
先輩の肩に、手を置く。先輩の身体は俺の手と同じように、震えている。けれど俺は、もう止まる気はない。
だから俺は、優しく優しく、絶対に壊れないようにと細心の注意を払いながら、先輩の首に……
キスをした。
「──っ」
先輩の首は、とても冷たかった。でもそれ以上にとても綺麗で、だからいつか消えるのだとしても、この首にあとなんて残したくはなかった。
……けれど先輩は、何かを求めるように俺のことを抱きしめる。
だから俺は、できるだけ痛くないように、優しく強く彼女の首に吸いつく。明かりが消えた薄暗い部室で、俺はただ彼女に愛の証明を刻み続けた。
それこそまるで、吸血鬼のように……。
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