鈍い人ですね。



「……遅かったですね?」


 紫浜先輩はそう言って、今まで見たことがないくらい冷たい瞳でこちらを睨む。そしてすぐに視線を、本の方に戻してしまう。


「…………」


 だから俺は、考える。どうすれば先輩に、機嫌を直してもらえるのだろうか? と。……いやそもそも先輩は、どうして怒っているのだろうか? と。


『……遅かったですね』


 彼女は確かに、そう言った。その言葉から考えると、先輩が俺のことを待っていてくれたということになる。なら先輩はもしかして、俺が勝手に言っただけの約束を覚えていてくれたのだろうか?



 ……いや、違う。



 そんなことよりまずは、言わなければならない言葉がある。



「……紫浜先輩。遅くなって、すみませんでした」


 そう言って、頭を下げる。


「…………」


 けれど先輩は、何も言ってはくれない。


「その、先輩が怒っているのは分かります。きっと先輩は俺のことを待っていて──」


「違います! 別に私は、貴方のことなんて待ってません! ……何を勘違いしているのですか? 気持ち悪い。私はただ……私はただ、この場所に本を読みに来ただけです。……変な妄想はやめてください。……不愉快です」


 先輩は俺の言葉を遮って、早口でそうまくし立てる。それに夕焼けにはまだ早いのに、頬がうっすらと赤く染まっている。だからきっと、彼女は本気で怒っているのだろう。



 ……でも、何に?



 俺のことを待っていなかったと言うのなら、彼女は一体なにに怒っているのだろう? ……分からない。


「……ふっ」


 しかし理由なんて、どうでもいい。どんな理由であれ、先輩はここに来てくれた。なら俺がやることは一つだけだ。


「紫浜先輩。このチョココロネ、先輩にと思って買ってきたんですけど、食べてもらえますか?」


「……貴方は私との約束があるのに、そんなものを買いに行っていたのですね。……最低です」


「いや、それは……。ていうか先輩。やっぱり約束のこと、覚えててくれたんですね」


「違います! ……ただ少し、ほんの少しだけ、気にかけていただけです」


 先輩の視線は、変わらず本に向けられたままだ。……いや無論、チョココロネ程度で彼女の機嫌が直るとは思っていない。けど少しくらいは、こっちを見てくれると思っていた。でも結果は、最悪。寧ろもっと、怒らせてしまった。


「…………」


「…………」


 気まずい沈黙が、場に広がる。……でも、どうすれば先輩に機嫌を直してもらえるのか。それが俺には、分からない。そもそも俺はどこかで、先輩は来ないものだと決めつけていた。そんなことだから、先輩を怒らせてしまったのだろう。


 悪いのは、全部俺だ。


 ……けどだからって、ここで黙り込むわけにもいかない。先輩がせっかく、来てくれたんだ。なら少しでも来てよかったと思ってもらえるよう、頑張らないといけない。



 きっとそれが、俺が先輩にしてあげられる唯一のことだから。



「先輩。何の本読んでるんですか?」


「貴方には、関係ありません」


「先輩。肩でも、揉みましょうか?」


「……必要ないです。気安く私に、触ろうとしないでください」


「先輩。少し──」


「うるさいです。黙ってください」


「…………」


 ……けど、何を言ってもダメだ。昨日は少しだけ、心を開いてくれた。なのに俺が馬鹿なことをしたせいで、全てが元に……いや前より酷くなってしまった。


「…………」


 ちらりと、先輩の横顔を窺う。彼女はとても冷たい瞳で、作業のように淡々と本を読み続ける。その姿はいつもより少し視線が冷たいことを除けば、普段と何も変わるところがない。



 ……そう思っていたのだけど、ふとあることに気がつく。


「紫浜先輩。今日……綺麗ですね」


「……! な、なんですか、急に……! 変なこと言わないでください! 不潔です!」


 先輩はビクッと肩を震わせて、赤い顔でこっちを睨む。


「あ、いや、先輩はいつも綺麗ですよ? でも今言いたいのは、そういうことじゃなくて……。先輩、今日は少し……お化粧とかされてます? ちょっと雰囲気がいつより大人っぽくて、凄く……その、いいと思いますよ?」


「…………そうですか。別に私は普段通りですが、それでも貴方が綺麗だと思うのは……貴方の勝手です。……でも、そんな風に褒めたからって、何の意味もないですからね……?」


 先輩はくるくると、指で髪をいじる。その仕草は先輩らしくなくて、何故かドキリとしてしまう。


「いや、そうじゃなくて。分かってます。先輩を綺麗だと言ったのはただの本心で、それで許してもらおうなんて考えてません」


「…………」


 先輩はやはり、何の言葉も返してくれない。けれど俺は気にせず、言葉を続ける。


「でも、もう一度だけ言わせてください。……例え先輩が俺のことを待っていたんじゃなかったとしても、それでも……遅くなってすみませんでした。それと、約束覚えててくれて嬉しかったです」


 そう言って、また頭を下げる。……きっと頭を下げるくらいじゃ、先輩は機嫌を直してくれない。でも先輩の仕草が、らしくない仕草が、何故だかとても寂しそうに見えた。



 だから俺は、そう言わずにはいられなかった。



「…………それ、だけですか?」


 先輩は本に視線を向けたまま、ぽつりとそう言葉をこぼす。


「え? もっと頭を下げた方がいいですか?」


「……違います。別に私は……初めから謝って欲しいなんて、思ってません。……だって貴方、私が来る前にこの部室に来ていたのでしょう?」


「いや、それは……」


「椅子が少し、乱れてました。だからきっと貴方は、私が来る前に一度ここに来ていたはずです。それに……」


 それに貴方は、約束を破ったりする人ではないでしょう? 先輩はとても小さな声で、そう言ってくれる。


「でも、例えそうだとしても、先輩を待たせてしまったのは事実です。だから俺は……いや、俺に何かできることはありますか? 先輩が望むのなら、俺は何だってします。だから……何かさせてください。お願いします」


「…………」


 先輩はそこでまた、口を閉じてしまう。けどそれは先ほどまでの拒絶の沈黙とは違い、何かを待っているような沈黙だ。



 だから俺は、考える。


「…………」


「…………」


 カチカチと秒針の音が響く、茜色に染まった部室。そんな部室の中で、透き通るような肌を赤く染める先輩。そんな、どこか絵画のような景色。俺はそんな美しい景色を見つめながら、本気で頭を悩ませる。



 するとふと、思いつく。



 また昨日みたいに抱きしめたら、先輩は喜んでくれるのだろうか? と。



「何を黙り込んでいるのですか? 別に私は、貴方に何かして欲しいなんて、思ってません。…………でも、もし貴方が何かしたいと言うのであれば、少しだけ、本当に少しだけ、付き合ってあげてます。……本当に、少しだけですが……」


 先輩は本を置いて、立ち上がる。そしてまるで照れるように、また髪を指でいじる。



 だから俺は覚悟を決めて、そんな先輩の前に移動する。



 ドキドキと、心臓が跳ねる。昨日も先輩を抱きしめたはずなのに、なんていうか……今日は昨日と違い妙に照れてしまう。


「…………」


 けど、俺が先輩にしてあげられることなんて、他には何もない。だから俺は意を決して、また先輩の頭を……俺の胸に押しつけた。





「…………いきなり抱きしめるなんて、最低です」


 先輩はぽつりと、そうこぼす。


「すみません。でも俺にできることって、これくらいしかないんです」


「……そうですか。なら少しだけ、本当に少しだけ、貴方のわがままに付き合ってあげます」


 先輩はそう言って、ゆっくりと俺の背中に手を回してくれる。


「あ、またドキドキしてますね? ……もしかして私の胸が当たっているのに気がついて、変なこととか考えましたか?」


「それはまあ、否定しませんけど……。でも、好きな人を抱きしめたんだから、緊張するのは当たり前でしょ?」


「……! いきなり好きとか言うのは、やめてください! そういうのは……卑怯です……!」


 先輩は赤くなった顔を隠すように、俺の胸に頭を埋める。


「すみません。でも俺、そういう想いの伝え方しか知らないんです。……まあそんなだから俺は、何度も先輩に振られてきたんでしょうね……」


 呆れるような、笑みがこぼれる。するとふと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。心臓はドキドキしているのに、心がとても落ち着く。そんな甘い香りが、先輩の方から仄かに伝わってくる。


「先輩。今日はなんだか、いい香りがしますね? あ、いや、変な意味じゃなくて! ただなんとなく、こうやって抱きしめてると、凄く落ち着きます……」


「……ふふっ。腕に少し、力が入りましたね? そんなにこの香りが、好きなんですか? ……変態ですね」


 ……でも、よかった。そうぽつりと、先輩はこぼす。だからますます、心臓が跳ねる。


「先輩。今日は待たせて、すみませんでした」


「またですか? それはもう、いいです」


「でも、伝えておきたいんです。だって昨日、言いましたよね? 先輩の寂しさを、俺が埋めてあげたいって。なのにそんなことを言った俺が、先輩に寂しさを感じさせてしまった。……そんなの、最低じゃないですか」


「……そうですか。でも、もういいです。もう許してあげます。……だって貴方は、ちゃんと来てくれましたから……」


 先輩はそれだけ言って、あとは黙って俺の胸に顔を埋める。


「…………」


 そんな風に先輩を抱きしめていると、俺は思う。やっぱり俺は、この人のことが好きなんだって。そう強く強く、思う。


「好きです。紫浜先輩」


 だから無意識に、口からそんな言葉がこぼれる。


「…………そうですか。でも私は……貴方が、好きではありません」


 先輩はいつもと同じように、そう返す。……けれどその言葉は、いつもよりずっと温かだった。



 そうして俺たちは日が暮れるまで抱きしめ合って、どちらともなく手を離す。そんな風にして、静かな休日が終わりを告げた。







「……え?」



 ……そう思った直後。先輩は驚いたような顔で、こちらを見る。そして、まるで心をどこかに落としたような真っ白な瞳で、その言葉を口にした。





「貴方のその……首筋のあざ。それ、何ですか?」



 だからまだ、今日は終わらない。


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