待ってます。
ちとせに告白された翌日の土曜日。俺は文芸部の部室を訪れた。
「……居るわけない、か」
……けれど部室に、先輩の姿はない。この場所にはただ春先の冷たい空気が沈澱しているだけで、どこを見ても誰の姿もない。
「さて、どうするかな」
近くの椅子に腰掛けて、少し頭を悩ませる。昨日はちとせとのことがあったから、先輩とのデートのことを考える余裕がなかった。
だからダメ元で文芸部の部室を訪ねてみたが、部室には誰の姿もなく潔癖なまでの静寂に包まれていた。
「…………」
……そしてそんな部室で1人でいると、考えてしまう。昨日の、ちとせとのことを。昨日、産まれて初めてキスをした。それも唇だけじゃない。首筋にも、痕が残るくらい強くキスをされた。
だから昨日からずっと、気づけばちとせのことばかり考えてしまう。
「いや、部室に来てまで考えることじゃねーな。俺は紫浜先輩が好きで、先輩はまだ俺のことが好きじゃない。そして……そしてちとせは、俺のことを好きだと言ってくれた。結局はそれだけで、悩むことなんて何もない」
昨日ちとせが言っていた通り、俺は今まで通り紫浜先輩の背中を追う。そしてちとせは、そんな俺の背中を追いかける。結局はそれだけのことで、ならごちゃごちゃ考えても意味はない。
「……よしっ。もうこの件で悩むのは終わり。ここからはもう少し、建設的なことをしよう!」
……と、意気込んではみたものの、特にやることがない。……まあ元々、明日も会いに行くなんて約束は俺が勝手に言っただけで、先輩はそんな約束、気にも留めていないだろう。
「…………」
一応ダメ元で、スマホを確認してみる。けれど俺の連絡先を知らない先輩からの連絡なんてあるわけないし、ちとせからの連絡もなかった。
「なら、何もすることがない」
そういう結論に、なってしまう。……まあ手段を選ばなければ、先輩の住所を調べることもできる。けどやはり、そこまでしてしまうとただのストーカーだろう。
「…………」
息を吐いて、何となしにいつも先輩が腰掛けている場所に視線を向ける。そこには主人を待つように、見慣れた椅子が置かれている。
……そしてそんな椅子を眺めていると、ふと思う。
この場所で独り本を読んでいれば、少しは先輩の気持ちが分かるんじゃないかって。
「読んでみるか、本」
俺も友達が多い方ではないし、家族も家に帰ってこないことが多い。だから1人でいることは少なくないが、それでも先輩が感じている孤独を理解しているとは、言えないだろう。
だからここで本を読めば、少しは彼女に寄り添えるかもしれない。そう考えて、立ち上がり備品の本が置かれている本棚に向かう。
「……文学と、哲学書ばっかだなぁ。まあここ文芸部だし、こんなもんか。お、坂口安吾があるな。なら……って、これはなんだ?」
作家順に丁寧に並べられている本棚に、1冊だけ背表紙にタイトルも何も書かれていない真っ白な本が置かれていた。だから俺は何となく気になって、その本に手を伸ばす。
……けどまるでそれを遮るように、背後から声が響いた。
「先輩。ちょっといいですか……って、あれれ? 何をされているのですか? 十夜先輩」
そんな声を聞いて、振り返る。するとそこには昔馴染みで後輩の黒音が、人懐っこい笑みでこちらを見上げていた
「黒音か。いや、ちょっと本棚を見てたら、背表紙に何も書かれていない本があってな。少し気になって、見てみようと思ったんだよ」
「やや。それは確かに気になりますね。でもそれ、文芸部の備品なのでしょう? なら勝手に触れない方が、いいんじゃないですか?」
「それはまあ、そうかもな。……いやそれより、なんでお前が文芸部の部室に居るんだよ?」
俺のその問い、黒音はニヤリとした笑みを返す。そして、大きい……ともすれば紫浜先輩より大きい胸をえへんと張って、ゆっくりと口を開く。
「実は黒音は、十夜先輩の後をつけていたのです」
「俺の後を? なんでだよ」
「今日は黒音、ボードゲーム部の皆んなと朝からゲームをしてたんです。それで昼前に解散になったのですが、帰る途中で十夜先輩が悩ましげな顔で学校に入って行くのを、見たのです」
「それで気になって、後をつけたと」
「はい。その通りです」
黒音は素直に、そう頷く。
「ならもっと早くに、声をかければよかったのに」
……というか俺の独り言、聞かれていたのだろうか? 別に変なことは言ってなかったと思うけど、なんだか少し恥ずかしいな。
「黒音もそう思ったのですが、十夜先輩、誰かを待たれているみたいでしたから。だからできる後輩の黒音は、草葉の陰で先輩のことを見守っていたんです」
「いやお前、草葉の陰だと死んでるからな。……いやそれより、お前の事情は理解したよ。つまりお前は、もし暇ならゲームに付き合ってくれって、そう言いたいんだな?」
「おお! 凄い! 流石は十夜先輩です。黒音の考えていることなど、全てお見通しなのですね」
「全てってわけじゃねーけど、お前の考えは分かりやすいからな」
「ふふっ。相思相愛という奴ですね。……あ、いや、先輩には好きな人がおられるのですから、こういう発言は控えないと」
失敗失敗、と黒音はにへらとした笑みを浮かべる。
「それで、十夜先輩。もしお暇なのでしたら、少しだけチェスに付き合って頂けませんか? 黒音、十夜先輩を倒す為に面白い作戦を考えてきたんです。だから……ダメですか?」
「そうだな……」
そう呟き、少し考える。……きっと多分、この部室でいくら待っていても、紫浜先輩がやってくることはないだろう。けど今日は、彼女に会いに行くと約束した。それはただ俺が勝手に言っただけのことだけど、それでも約束を破るのは気が引ける。
「……その、ダメですか? やっぱり十夜先輩には、何か大切な御用があるのですか?」
……だけど、こいつに泣きそうな顔をされると、どうにも弱い。
「分かったよ。一回だけ、付き合ってやるよ」
「やったっ! やっぱり十夜先輩は、優しいです! ……大好き!」
黒音はそう言って、勢いよく俺に抱きつく。だからぐにゃりと、不自然に大きい胸が俺の身体に押しつけられる。
「……どうしたんだよ、黒音。抱きついてくるなんて、珍しいな」
黒音は甘えたがりだが、こういう風に抱きついてくるのは珍しい。それこそこういうことをしてたのは、本当に子供の時だけだったはずだ。
「……ごめんなさい。でもちょっと、寂しくなっちゃって。……黒音は高校生になったのに、背も全然伸びなくてまだまだ子供です。けど十夜先輩は、優しいし背も高くなったし、凄くかっこよくなった。……それに先輩は、恋までしてる。だから何だか黒音だけ置いていかれたみたいで、ちょっとだけ寂しくなってしまいました……」
ごめんなさい、こういうところが子供っぽいんですよね、と黒音は笑う。だから俺は、そんな黒音に軽い笑みを返して、妹にするみたいに優しく頭を撫でてやる。
「大丈夫。お前は十分、魅力的な女の子になってるよ」
「……ほんとですか?」
「ああ。背はちっさいしチェスも弱いまんまだけど、お前は人を思いやれる奴だ。……今日だって、俺の気持ちを考えたから、今まで声をかけずにいてくれたんだろ? そういう思いやりは、俺にはできない。だからお前は、俺なんかよりずっと大人な女の子だよ」
「えへへ。そうですか? 黒音も少しは、大人になってますか? 先輩に負けないくらい、大人な女性になれてますか?」
「ああ。俺が保証してやる。……だからしょげた顔してないで、早く行こうぜ? チェス、やるんだろ?」
「……はい! やっぱり十夜先輩は、優しいです!」
黒音とのチェスは、一局30分もかからない。だからそれくらいなら、問題ないだろう。いや寧ろ、チェスで頭を使えば何かいい案が思い浮かぶかもしれない。
俺はそんな風に考えて、黒音と2人文芸部の部室を後にした。
◇
そして、同日の昼過ぎ。
「…………」
普段なら、休日にわざわざ部室に行ったりしない。けれど家に居ても、彼のことばかり考えてしまい、どうにも本に集中できない。だから玲奈は、頭の中で言い訳を重ねながら家を出た。
私が部室に行くのは、本が読みたいから。決して彼に、会いたいわけじゃない。……また彼に抱きしめてもらいたいなんて、自分はそんなバカなこと考えてない。
彼女は学校に行くと決めてから、そんなことばかり考えていた。普段はしないお化粧をして、抱きしめられた時の為に香水までつけた。しかしそれでも、自分は本を読みたいだけなのだと何度も何度も言い訳を繰り返して、早足に部室に向かう。
「…………」
そしてまるで、告白する直前の少女のように大きく息を吐いて、いつもの部室に踏み入る。
「……嘘つき。…………最低です」
けれど部室に、
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