第35話 あの子みたいになりたかった

 カルラちゃん。

 九頭龍、迦楼羅ちゃん。

 僕はずっと彼女に囚われていた。


 彼女のように、守れる人になりたい。

 人間らしく、カッコよくなりたい。


 その一心で、父のしごきに耐えた。

 僕は十四歳になっていた。


 その頃には自分の痛みのなさを理解して、壊れる直前まで身体に負荷をかけるようになっていた。死ななければ問題ない。腕も足も耳も口も、死なない限り自分を犠牲にすることを躊躇わなかった。でも限界まで起き続けていると大嫌いな父とそっくりの隈ができてきて、睡眠だけはちゃんと取るようにした。


 リッカはその頃にもお兄ちゃんお兄ちゃんって僕の後を付いてきていた。

 ある日、訓練の後でお兄ちゃんと呼ぶ声がなかった。モノクロと六芒星の集団から一人を捕まえて問うと、爆発物の回避が遅れて右腕と右脚を失って、今は生きるか死ぬかの瀬戸際だと言う。


 僕は待った。

 手術中、と点灯した赤い看板。

 非常口、と点灯した緑色の看板。

 赤と緑が震えていると教えてくれた。


 死、なんて数え切れないほど見てきた。生きているということはいつか死ぬということなのだから、生き物の分だけ死は溢れているということになる。痛い、ということが僕にはわからない。でも、リッカは僕と違って痛みを強く感じるから、僕には一生理解できないくらい痛かったのだと思う。


 迦楼羅ちゃんに感じたのと少し似ている気がした。

 痛みだった。


 僕に殺された大人たちが痛みと死を怖がって顔をくしゃくしゃに歪めて血と涙と鼻水に塗れていたのを思い出して、胸が痛んだのだ。


 痛みなんて生まれる前に忘れてしまったはずなのに、どうして胸が痛むのか。誰かを傷つけることよりも自分が生き残ることを選ぶ僕のことだから、優しさなんかじゃないだろう。きっと僕は羨ましかったのだ。心じゃなくて身体で死を恐れることのできる人たちが。


 痛いということは、生きているということだ。

 この痛みを繰り返してはいけない。


 痛みを思わなければ、僕は心まで死んでしまう。

 痛みに従うことが、僕にとって生きることだと思った。


 リッカの手術が成功したと聞いて、早朝、僕は急いで家に帰ることにした。

 何かただならぬ気配を感じたのだろう。立ち上がった僕に、僕と一緒に待っていてくれた八叉家のおじいさんに肩を叩かれた。


「そんなに怖い顔をして、どこにいこうというのだね?」

「家に帰るんだ。それで、お父さんにお願いする」

「ほう。して、お主は何を欲する?」

「僕らが、痛くない未来を」

「お主の父が、それを聞き入れると思うか?」

「思わない。でも、お願いできるのは僕だけだ」


 手を振りほどき、駆け出した。

「リッカは、僕が守るんだ」


 遠く、そういえばおじいさんが何か言っていた。

「ひひっ、鬼は動き出したようじゃぞ。どうする、時雨」


 これまでは守れなくても、これからは守る。二度と傷つけさせやしない。二度と傷つけたくない。何度も繰り返したトレーニングも、何度も繰り返した殺戮も、何度も繰り返した入院も、もううんざりだった。


 家に帰ると、たくさんの人がいた。六芒星メイドさんはみんな黒子の格好をして、顔を赤い六芒星が描かれた布で覆い隠している。仏間と食卓の間の襖を取り払った広大な空間には、六芒星のない人たちもたくさんいた。


 顔を隠している人たちは十六夜家に引き取られて家のことと戦闘技術を叩きこまれた人たちで、僕が最も殺した人たち。


 六芒星のない人たちは、親戚。血の繋がった人たち。あるいは、九頭龍分家の人間。血脈を持つ人たち。

 例外はお父さん。いつもと同じ甚平の胸元には同じように六芒星が描かれている。

 満月というには微妙に足りない白い円形に、六芒星が描かれた十六夜家の家紋。


 乱暴に襖を開いて一番遠く、仏壇の前に父さんは座っていた。視線が集まる。六芒星が集まる。彼はいつものように胡散臭い笑みを浮かべ、手を振った。

 十余人分の背中を通り過ぎる。


「おかえり、待雪。朝から走り込みなんて、精が出るね」


 父の隣に正座する。

「お父さん、お願いがあるんだ」


 父は腕を組み、うすら寒い笑顔を向けた。

「うん? もしかして不安かい? 大丈夫、安心なさい。お父さんがついている」


「……はい――いや、そうじゃない」

「母も妹も失って辛いだろう? お父さんも同じ気持ちだ。大丈夫、大丈夫だよ。お前の為に優秀な治癒能力者も育てている」


「お父さん」

「お前は安心して日々の鍛錬に励むといい。お父さんはこれから大事な話をしなくちゃならないんだ。さあ、自主練が済んだのなら日課をこなしなさい」


「お父さん」

「さあ、早く行きなさい。お父さんも忙しいんだ。急いで次の六花を作らなくてはならない。きみの代わりに普段の仕事を担う人間が必要だからね」


 拳がきゅっと鳴って、みしみしと音を立てた。

 むしろ冷静に、知ろうともしなかったことをこのクソ野郎に教えてやることにする。

「リッカは生きてるよ」


「……なんだって?」

「リッカは死んでない。なのに会議? リッカの命より重要な会議ってなんだよ。死ぬかもしれなかったんだぞ? 今だって死にかけて……何がお父さんも同じ気持ちだ。代わりのリッカって何だよ。リッカはリッカだけだふざけんな」

「そうか、そうか、死んでないのか」


 お父さんは相変わらず胡散臭い、なんというか何もかもがちぐはぐで、嘘っぽい笑みを浮かべたまま、安堵した様子で溜息を吐いた。

「良かった。本当に、良かった。明日の仕事の回し先で頭を悩ませていたところだったんだ。そうとわかれば今すぐに九頭龍の次女を」

「時雨様。九頭龍久遠は……」

 六芒星の一人がどこからともなく現れて、僕の反対側に跪いた。


「まだ未完成なのかい? 十九年も精神的苦痛を与えて、まだ?」

「ええ、不死者の適性があるようなので、すでに壊れている可能性も」

「ふうん、まあいい。能力が使えるならやりようはある。ひとまず双葉の長女を回せ」


「もうやめろって言って」

 口調が荒くなっていることに気付く。だが、沸々と湧き上がる怒りは訂正を許さない。今の会話だけで、聞き覚えのある名字の、聞き覚えのない女の子が傷つき続けていることを知ってしまったせいだ。

「お願いだ。殺し合いも、拷問も、もう、うんざりなんだよ」


「……待雪」

 組んだ腕と一緒に袖の中に隠れていた手が、俺の頭を覆う。思わずびくりと震えて、でもまっすぐに起きているのか眠っているのか定かにならない糸目を睨みつけた。嘘っぽい笑みは揺るがない。


「駄目だぞ、待雪。言葉は選ばなくちゃ駄目だ。なんとなく口にした言葉は無意味に人を傷つける。きちんと選べば痛みにだって意味が宿る。『拷問』なんて人聞きの悪いことは言っちゃいけない。殺し合いではなく『断罪』。拷問ではなく『教育』。あるいはどちらも『試練』と言いなさい」


「なわけがあるか。あんなのはただの拷問、人殺しだ。高尚な意味なんかあってたまるか」

「わかった、百歩譲ってきみの言い分は認めよう。たしかに子どものお前からしたらやっていることは拷問かもしれない。でもね、これは全て君たち次世代の輝かしい未来のためなんだ。今のところは失う痛みにも耐えてはくれないだろうか?」

「自分のための間違いだろ? 僕もリッカも、断罪も教育も試練も望んじゃいない」


「それも認めよう。次世代のためというのもぼくのエゴだからね。いずれにせよ、納得がいかないなら自分でなんとかしなくちゃいけない。ぼくはぼくのためにお前たちを教育する。それが嫌ならお父さんを教育してごらん。ぼくはそうして、きみのおじいちゃんを教育してやった。だから大丈夫。本当に嫌なら何とかできるはずだ。できないならばきみのできない痛みはその程度、因果応報に至らないのであれば、それはすべて気のせいなんだ。だから頑張れ、頑張れ。頑張ってお父さんを教育してみせろ。それができないなら大人しく試練を受けるんだ。お父さんの期待を裏切らないでおくれ。待雪」


「……わかった」


 自分の意見を言ったのだって初めてだった。ささやかな反抗期の発露。とはいえ、それさえもお父さんの指示。初めて自分だけのために拳を振るった。


 僕が人間の頭を殴れば、人間の首は簡単にもげる。

 躊躇いはない。

 全身を駆動して放った拳がお父さんの眉間を打つ。


 眉間を穿たれ、派手に吹き飛んで縁側の襖をぶち抜いて縁側まで転がっていた。


 僕が。


 ――僕が?


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