第23話 破ける衣服と拘束具

 そうして始まった逃亡生活にも似た二人暮らしは、今までの十九年からは考えられないほどの幸せで満ち溢れていた。


 朝、顔を洗って目を覚ますことができる。おはようと目を擦る。テーブルの上には朝食が用意されていて二人でいただきますと手を合わせる。たまに忘れると小言をいわれる。特に目的もなくテレビを点けて、今日一日の運勢や天気に一喜一憂する。今日の予定とかお昼のメニューについて話して、何も予定がなければゲームをしたりアニメを見たり漫画を読んだりする。外は怖い。外に出て帰ってきたらただいまとおかえりを交わす。一人のときはひたすら一人遊びに没頭して、二人のときは二人遊びになったり二人で一人遊びをしたりする。いつの間にか日が暮れ始めていて、たまに家事を手伝って窘められる。一緒にお風呂に入って、夏はお風呂上りにアイスを食べる。冬でもたまに炬燵で食べる。いつかクソ姉が羨ましがっていたカラスみたいに真っ黒で重たい髪を洗ってもらったよりも長い時間をかけて乾かしてもらって、ぼんやりしていると船を漕ぎ出す。歯磨きを済ませていないと叱られる。全部済ませているとマツユキは満足そうに微笑んで、わたしをお姫様抱っこでわたしの部屋まで運んでくれる。ありがとうを忘れずに、おやすみを交わす。


 幸せだった。

 十九年分の幸せを全部まとめてもらったみたいな五年間だった。

 本当に、ありふれていて。

 本当に、夢のような日々でした。


 昨晩、わたしは九頭龍家の土蔵に帰ってきた。


「……マツユキ?」


 暗闇に呼びかけても答える声はない。上手く起き上がれない。寝返りもままならない。懐かしいとは思わない。でも、五年前までと同じように手術台の上に寝かされているということがわかると涙が溢れた。


「ねえ、マツユキ。わたし、のど渇いた」


 のどの渇きを訴えても誰も答えてくれやしない。身をよじると布が破ける音がした。拘束具によって手も足も腰も押えられている。せっかくマツユキが綺麗といってくれた、わたしの唯一の外出着だったのに。

 いや、そもそも破れかけていたのかもしれない。

 だってわたしはもう、十四歳じゃいられない。


 のどが渇いて、身体は今や二十四歳の姿に戻っている。自分の吐息で、胸の辺りがだらしないことになっているとわかる。


 こんな格好じゃ帰れない。きっとマツユキに叱られてしまう。

 こんな姿じゃマツユキに合わせる顔がない。だってマツユキは、きっと十四歳のクソ姉が好きだった。もう――

「……死にたいっ」

 だって、わたしなんかじゃ、九頭龍迦楼羅に勝てやしない。


「ねえ、マツユキ。わたし、どうせ死ねないのにすっごく死にたいの。笑えるでしょ? 死ねないのに死にたいの。あなたがいないと生きていたって何もいいことなんてないのに死ねないの。あはははははははははっ」


 喉は渇き切っていて、かすれた声ほとんど吐息だった。


「叶いもしない夢を見て、現実的な戦力差も理解できずに挑発に乗って突っ込んで、ようやく手に入れた大切なものも全部奪われた哀れで馬鹿な女の末路よ、笑いなさい。ねえ、マツユキ。笑ってよ。同情でもいいから笑ってよ、強がりでいいから笑ってよ、いつもみたいに笑ってよ。笑いなさいよ。マツユキ、マツユキ、マツユキ、マツユキ」


 血の匂いが渇いた喉に張り付いて、胃液の苦さが口の中に広がる。


『――久遠は……俺が……守る』


 ……ああ、そうか。

 もしかしたら、本当に全部わたしの妄想だったんじゃないだろうか。

 あれはやっぱり九頭龍久遠ではなく九頭龍迦楼羅に向けたもので、夢のようなというより夢そのものだったのだ。そうだ、そうでなければおかしい。

 だってわたしはこんなに弱いのに、他に何も残っていないなんて。


 十六夜待雪という大好きになってしまった人は記憶通りに九頭龍迦楼羅などという大嫌いな姉に取られてしまったのだとしたら、わたしはこれからも一人で耐えいきていかなければならないのに、耐えいき方がわからない。どうやって十九年間も孤独と恐怖に塗れて耐えいきていたのか、わからない。

 ――死にたい、死ねない。

 頭がどうにかなってしまいそう。

 いや、どうにかなっていたから、こんな目に合っているのか。

 もう何もわからない。どうしようもなく、どうしようもない。

 いっそ夢オチであることすら願って、でも夢のような日々を否定したくなくて現実を認められず、大きく息を吸って吐き出した。


「――助けて」


 掠れ切った声は誰にも届かない。はずだった。

 まるで聞いていたかのようなタイミングで光が差し込む。

 逆光に目を細めると思考より先に言葉がのどを裂いた。


「マツ、ユキ?」


 希望的観測。

 立ち込めていた血の匂いが引いていく。心なしか外の湿気にのどが潤いを取り戻していくような感覚さえあった。光の中から手を伸ばし、わたしを救い出してくれる王子様。

 そんなものはどこにも存在しない。血の匂いはむしろ濃密に感じられた。


「あら、久遠。起きたのね。久しぶりの実家はどう?」

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