閑話・車窓から
「あれ甥っ子君じゃん。凝橋来てたの? 買い出し?」
良かったらこっち来て座りなよと人懐こい笑みを浮かべる
書店から叔父が注文を出していた書籍を引き取っての帰りなのだ。普段ならば郵送なのだろうけども、今回は扱っている書店の関係で直に引き取りに行く必要があった。今朝本が届いたと書店から電話を受けた時の叔父は、見て分かるほどに大喜びしていた。その直後にローカルニュースで日中の予想気温が三十五度を超えるという予報を聞いた叔父の顔は中々の見ものだった。近所のスーパーに買い出しに出るだけで満身創痍になる叔父だ。そんな人間が己の楽しみのためとはいえ町までの外出をする訳がない。
そこで居候たる俺の出番だ。代金と身分証明のための保険証を持たされ、文字通りの小僧の使いとして町に出たのだ。せめて講義のある日ならまだよかったのだが、残念ながら今日は日曜日だ。
観念して厚宮さんの隣に座ってから改めて眺めた車内はがらんとしていて、地元の始発もこんな具合だったなと県を越えての既視感を覚えた。
「休みの日なのにガラガラですよねこの電車」
「基本が通勤通学で持ってるような路線だからなあ。休みに町行くんなら車使うよ。楽だし」
「厚宮さんは何で電車乗ってるんですか」
「俺の車妹が使ってんのよ今日。持ち主に一切の相談ナシとかひどくない?」
おかげで兄なのに電車だよと妙に悲哀を帯びた声で言って、厚宮さんはわざとらしく眉根を寄せてみせる。このひとは叔父の知り合いという微妙な関係にもかかわらず、初対面の時からいやに親し気に俺を構いにくる。普通ならばあまり受け付けない類の人種なのだけども、このひとは何故か不快感無く人の間合いに入り込んでくるのだ。実際見た目を含んだ身体的特徴と引きの悪さを除けば、今のところは叔父よりよほど普通の田舎のおじさんでしかない。少なくとも俺は、一緒に電車に乗り合わせても見なかった振りをしようという判断を躊躇するくらいには好感を持っている。
腹の内でそんなことを考えながら当たり障りのない世間話をしているうちに発車を知らせるベルが鳴り、ドアは閉じ、がたんと音を立てて列車は動き始める。窓の外の風景はゆっくりと流れ、背中から射す夏日はまだ明るく、俺の影が黒々と足元に伸びている。
「この電車逃がすとさあ、次が五時近くまで無いんだよね。嫌だね田舎のローカル線」
「よく分かります。俺の実家も田舎なんですけどね、私鉄使って高校通ってたんですよ」
「ローカルな上に私鉄とか本数少なそう」
「少ないですよ。おまけに車両が二つしかない……ここも同じですけど。そんでですね、七割くらい無人駅なんです。当然駅舎も殆どバス停みたいなのばっかり。ホームと待合所しかない」
俺が高校時代に使っていた駅は有人だったせいで実感がなかったのだけども、市内の――つまり都会の方に住む友人が、車窓から見た無人駅の外観に衝撃を受けていたのを覚えている。確かに駅名のアナウンスと共にドアが開いた先に掘っ立て小屋と駐輪場しかないという風景は見慣れていなければ中々のものだろうと今となっては理解ができるが、当時の俺はそれを普通のものとして生活していたので友人が何に驚いているのかが分からなかった。
厚宮さんも本数の少なさはともかく無人駅には想像が及ばなかったようで、片腕を挙手するように控えめに持ち上げて、
「乗車料金どこで徴収すんのそれ。切符無いじゃん」
「バスと一緒です、乗るときに乗車券を取るんです。そんで電車の先頭車両に回収箱あるんですよ。運転士兼車掌が回収します。降りて逃げると追われます」
「その状況で逃げようとするやつも怖いな」
「逃げる先が無いんですよね。線路の周りが畑とか田んぼとか墓地ばっかりで」
「最後のチョイス」
「あと神社が目の前の無人駅もあります。丑の刻参りの噂がずっとある」
「噂ったってさ……あんまり出なくない今時、丑の刻は。もうちょい現代的にいかない?」
「隣のコンビニには犬が出るって有名でしたよ。首が沢山あるって」
厚宮さんは少しだけ困惑したような顔で間を取ってから、セレクトがレトロフューチャーの域じゃないのと言って首を傾げてみせた。
俺もそのコンビニには知らずに入ったことがあるが、その時には獣の臭いがやたらとするからオーナーが動物でも飼っているのだろうなとしか思わなかったのだ。後々知り合いから聞いたという程度なので真偽や細かいことは分からない。その駅の近くには冠婚葬祭ホールという名の実質葬儀会場もあるので、無人駅がどうこうというよりあの一帯がおかしいんじゃないだろうかと、今更俺は納得した。
せっかく叔父がいない状況で恐ろしい話ばかりしているというのも、何か影響を受けたようで悍ましいので、話題を切り換えようと厚宮さんの方を向く。厚宮さんは窓から見える田んぼをぼんやりと眺めていて、特に気分を害した様子もないのに安心した。
「そういうおっかないのばかりじゃなくて、田んぼもあるんです。それでですね、電車乗ってるといつも見える田んぼがあるんですよ。そこになんかコンセプト
「コンセプト案山子」
厚宮さんが聞いたことがないぞそんな単語、とでも言いたそうな怪訝な顔をする。俺もあまり使ったことがない単語だ。
「こう……名シーン再現みたいなやつですよ。プラトーンのあれとか」
「プラトーンのあれをどうして田んぼに設置しようと思ったの……?」
「映画好きな人なんですよ。友人の親戚です」
「チョイスもうちょい頑張ってほしい」
「でも出来がいいんですよ。で、人気出たからシリーズ化したんです。一番話題を呼んだのは、俺が高校三年のときのやつです」
「何作ったの――待って当てたい、ショーシャンクのあれとかどうよ?」
知名度あるじゃんと言って、厚宮さんは両腕を高々と掲げて天を仰ぐ。俺はしばらくそれを眺めてから、
「それはプラトーンの翌年にやりました。正解は丑三つの村の襲撃開始のあれです」
「頭に懐中電灯括りつけたやつ?」
「初めて設置された当日の車内が静まり返ったのを覚えています。通勤通学時間帯の満員電車が度肝を抜かれました」
未だに忘れもしない、朝七時二十三分発の車内。「心を一つに」という学校でよく聞く類の文章が得意ではない俺だが、あの瞬間の乗客一同の状況を一言で伝えようとすれば、まさしく心が一つになった瞬間だと表現せざるを得ないだろう。
「まあ異様だけどさ……え、みんなそれは元ネタ分かってどよめいたの?」
「俺の周辺だと『何か分からないけど怖い』ってなってたのが八割、『継やんじゃん』ってなってたのが二割、『要蔵さんだ』ってなってたのが九分くらいです」
「犬丸継男の知名度が二割もある田舎なのが俺としては怖いんだけど」
「公民館で上映会やったんですよ。八つ墓村と豪華二本立てで正月に」
「正月に観たい映画ではないんじゃないかな両方……まだシャイニングと八甲田山の方が健全まであると思うよきっと……」
「地吹雪で人が死ぬ土地の人間にその作品を推されるのも複雑ですね」
厚宮さんと同郷であろう俺の父も、真夏に映画館で八甲田山を見ての感想が「涼しかった」だったので、意外と雪国の人間には受けるのだろうかと新たな知見を得たような気分になった。だが果たしてこの父を含めたこの地域の人々が範例として適切なのだろうかということに思い至って、それ以上はあまり深く考えないことにした。
「……ねえ待って合計一分足りなくない、九割九分までしか出てきてないよ」
「『津山じゃん』ってのが一分ですね。ただ全体の元ネタとしては一緒なので結局この分類あんまり意味が無いですね」
「車両全体津山事件関連でざわついているとかそんな状況あるの?」
厚宮さんの言っていることが明らかに正論なので、俺は深々と頷いてみせる。俺だって他人から聞いたら信じないだろう。むしろこれをほいほいと信じる方が心配になる。そのくらいのことを言っている自覚はきちんとある。
「しかも早朝ですよ。七時台にあの絵は衝撃的でしたね」
「いつ見たって衝撃的だよそんなもんは」
「そういうもんですかね。特にお咎めもなくずっと居ましたよ。たまに観光客が怯えてたりしましたが」
田舎の風景や無人駅のレトロに不便なありようを眺めてわいわいと談笑していた観光客らしき集団が、田んぼにすっくと立つ異様な装束の要蔵案山子を見た途端に息を呑んで黙り込む。そのまま周囲の地元の人間だろう乗客を見回して、自分の見ているものがおかしいのか、見える自分がおかしいのか、それとも周囲のもの全てがおかしいのかと明らかな困惑を見せる。その一部始終を眺めている分には――悪趣味だろうが、中々面白かった。自分たちは見慣れてしまったものがどういうものなのか、それに対しての正しい反応というのはどういうものなのか。それを再確認できる新鮮な反応に、ほのぼのとした気分になれたのだ。
そんなことを伝えれば厚宮さんは納得したように何度か頷いて、
「そうね地元は見慣れちゃうからねえ。何だってそうだよ、どれだけ奇抜でも慣れるもん。美人は慣れるしブスは飽きるもん」
「逆じゃないですかねそれ。刺されますよ」
「飽きた美人?」
「そこひっくり返してどうするんですか。土地ごと罵倒しちゃ駄目ですよ。きりたんぽにされますよ」
「あれ殆ど岐阜県のやつと一緒だと俺思ってるんだけどさ……そうそう五平餅。あれ日本酒に合うから好きだなあ俺」
味噌はいいよねと言って、厚宮さんはにこりと笑う。その笑みには邪気も陰もなく、酷いことと普通のことを織り交ぜて喋る人間でもこういう表情ができるのだなと俺は感心した。
「叔父さんも大概ですけど厚宮さんも言動がなかなかですよね。土地のせいですか?」
「土地ごと罵倒しちゃ駄目だってさっき言ったの甥っ子君じゃん……まあそうね、慣れだよ何事も。慣れと勢いで生きてるんだよ俺たち」
「じゃあ聞きたいんですが」
俺は厚宮さんの顔から、正面の車窓へと視線を向ける。
青々と風にそよぐ稲の葉も美しい田んぼと、その傍らに真っ直ぐに続く農道。その背後には晴れ渡って明るい青空が広がっている。
「さっきから向こうの畔道で手を振ってる子供がいるじゃないですか」
「いるね。すごいだろこの辺。延々と田んぼ」
「平たいですよね土地が……でね、子供走ってるじゃないですか」
「走ってるね。全力で腕振ってるね」
「俺たち今電車に乗ってるじゃないですか」
「そうだね。ローカル線だけど凝橋から猪池尾が三十分だから……時速どのくらいだろ、三十ぐらい?」
「子供、ずっと並走してませんか。窓枠真ん中から動きませんよ」
「衰えないよね。ずっとこうだからあれだね、すごいよね」
呑気な物言いに唖然とする。世界最速の男だって時速四十キロ超で走れるのは一瞬だ。あの子供は俺がその存在に気付いてから優に三分はこの状態を保っている。それは最早すごいじゃなくて怖いじゃないのかと思いながら、俺は視線を逸らすタイミングを逃したままで、平然としている厚宮さんに問う。
「ずっとこうなんですか」
「俺がこの路線使ってた頃からあんな感じだからなあ。言われてみればそうだね、すごいねあれ」
「すごいねっていうかあれ子供なんですか」
「子供に見えるね。等身で数えると意外と頭が大きいって言ってた」
「伝聞ですね。近くで見た人がいるんですか」
「うん……甥っ子君ね、別に眺めててもいいけどね、適当なところで目逸らした方がいいよ」
昔の話だけどねと前置きして、厚宮さんは続ける。
「俺が学生の頃ね、どこまで観察し続けられるかチャレンジしたやつが帰り道まで着いてこられた」
その一言で俺はすぐさま両手で自分の顔を覆い、更に両目を固く瞑る。
ほんの少しでもこの人が叔父よりマシだと思った自分の迂闊さに腹を立てる。この妙なものに対する反応の雑さは、やはり同類ではないか。
「そういうことは早く言ってください。あと何駅だと思ってるんですか俺が降りる駅まで」
「俺と一緒で北猪池尾でしょ。けどね、稀だもんそんな根気のあるやつ。二年に一遍くらいの頻度だし」
大丈夫だよそんなに怖がらなくても――と不思議そうな厚宮さんの声には明らかにこちらの様子を懐かしむような気配がある。理不尽と恐怖に慣れた人間の見せる余裕というのは新入りには腹立たしいものなのだなと、俺は明らかに人生において不要な種類の経験を得た。
「
「えらいもん例えに出すねえ……あのお祭り毎年やってたら人口減少の遠因とかになんない?」
「だから期間空けてやってるんじゃないですか――俺は絶対もう見ませんからね。このままで喋りますよ。降りる駅一緒なんですから教えてくださいね」
「いいけどさ、それでも喋る気力が有るのすごくない?」
「黙ったら寝ちゃうじゃないですか。嫌ですよまだそんなに慣れてない土地のローカル線で終着駅とか。怖いやつじゃないですか」
「いないいないしてる小僧と会話してるおっさんの肩身が狭いとか考えないあたり、君やっぱり高槻の甥だねえ……いや全然マシだけどさ。頑張ってまともやってると思うよ甥っ子君」
「腐しながら褒めるのやめてくれませんか。どうしていいか分からなくなるじゃないですか」
「素直でいいね君は。誰に似たんだろうその具合」
目を覆った掌を夏の日差しが透かして、閉じた目に己が血の赤さが染みた。
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