八月(前半)

蔵のなか

「そういえば君って前科はあるかい」


 じりじりと容赦のない熱に、空間も気力も焼け始めた夏の朝、洗面所で寝不足の顔を洗っていた俺の後ろにのそりと立って、叔父はそんなことを言った。


 叔父は相変わらずの表情の読み辛い能面のような顔でこちらをじっと眺めているものだから、俺は一体何をしでかしてしまったのだろうと怒るより先に不安に駆られて、濡れた顔もそのままにただその妙に黒々とした目を見つめることしか出来なかった。


「俺何かしましたか」

「うん、だからそれを聞いているのに。何か御法に触れるようなことをしたことがあるのかって聞いているの君に。私は」


 内容まで言わなくたっていいよと何故かこちらに前科のあることが当然のような口ぶりで、叔父は質問を繰り返す。とりあえず俺が怒られているわけではないのだから身の潔白だけは証明しておくべきだと、不意打ちから戻った頭が結論を出した。


「そりゃ人並みくらいには嘘ついたり喧嘩したりしたことはありますけど、ええと――そういう前科はありません。普通です」

「そうか。じゃあオーストラリアには入れないな」

「古いタイプの冗談じゃないですか。そもそも俺英語しゃべれません」

「日本語も怪しいのに高望みをするんじゃないよ」


 ご飯食べたら仕事があるよと素っ気なく言い捨てて、叔父はすたすたと洗面所を出て行く。説明も配慮も何もなく、自分の要件が済んだ途端にそれ以上何かしようとしないのは叔父の性質でもある。勿論美点でも利点でもないが、言ったところで本人が何とも思っていないのだからどうしようもない。

 何だか農道を歩いていたら真正面から来た象に踏まれたような心持ちのまま、俺はとりあえずびたびたになったままの顔の始末をつけることにした。


※   ※   ※


 黒々とした木製の扉。べたべたと火除けや魔除けのお札が思いついたように張られている上に、緑青の浮いた南京錠が三つ付いている。

 真夏なのにひやりと寒い。埃を被った武者人形や変色しきった文学全集などの半死半生の物たちは、背後の廊下に装飾品のように延々と積まれている。足元は勿論埃まみれで、日の射す窓には美事という他ないような立派な蜘蛛の巣とその主の水饅頭ぐらいの大きさの蜘蛛が悠然と鎮座している。


「兄さんから聞いたんだろ。とりあえず蔵の整理をしなさい」


 自分がする訳でもないのに掃除という言葉にひどく嫌そうな顔をしながら、叔父は木の棒と雑巾を突きつけてきた。


「整理なんですか。掃除は良いんですか」

「するだけ無駄だもの。良さそうなものだけ選り出して燃やした方が手間が無くていい」

「そういうこと言うと怒られますよ」

「だから兄さんから君を借りてきたんじゃないか」


 私はこういうのは嫌なんだと一切悪びれた様子も見せずに言い切る叔父を見て、俺はその一貫した勝手ぶりに何となく感動のようなものを覚えた。きっとこの叔父は父から俺を掃除要員として調達できなければ本当に宣言したとおりにしていたのだろうと確信に近い予想が出来て、もしかすると今この状況こそが自分が生まれたことによって最も多くの被害が未然に防がれた奇跡的な状況なのではないかと馬鹿なことを考えた。


「今日一気には済まないと思います」

「だろうね。だから飽きるまで漁って、飽きたら出てきていいよ。カステラを食べよう」

「整理ってそういうものじゃない気がします」

「じゃあ何となく出来そうなところを雑巾掛けしておいてくれればいいや。それ以上する甲斐も無いしね」


 そう言って叔父は心底面倒そうな顔をして、ざりざりと足を上げるのすら億劫がっているような歩き方で母屋の方へと戻っていく。


「この棒何に使うんですか」

「開けたら開けっ放しになるようにつっかえておきなさい」


 閉じ込められたって私覚えてる保証がないものと力無い癖によく届く声で、叔父が答えた。


※  ※  ※


 冷たい板張りの床は橙色の電球に照らされて、温度も距離感も平坦な色に染まっている。とりあえず目についた埃を拭ってみれば、思っていたほどひどくはないけれども、やはり普段人が住まない場所であるから、出たら風呂に入ろうと思うくらいには汚れている。

 日が射さないせいだろう。外は真夏の暑さなのに、蔵の中は肌寒いくらいに冷えている。仄かに黴臭いような気もするが、それより干した土と樟脳の匂いの方が鼻につく。電球の光はどこか不安になるような明るさで、出来る影は見慣れたものより濃いように見える。

 床の埃を思いついたように拭きながら、周りを眺めてみる。壁際にはずらりと箪笥が並び、その上にはみっしりと長持が積まれている。最低限の通路は確保されているのだけれど、部屋の中央には何故か洗濯機や扇風機に雀卓などの大物が適当に放置されていている。これが崩れたらとりあえず致命傷は雀卓の角だろうなと思いながら入り口の方を振り返ると、吊るされた軍服と軍刀と額に入った白黒写真の男性と目が合って、こんな分かり易い並べ方をしたのは悪意かそれとも分類に則った合理性なのかと考えた。

 何とはなしに息苦しいのは、恐らく埃のせいだけではない。自分よりはるかに長い年月を経て来たもの達に取り囲まれるという状況は、それが人間だろうが物だろうがある種の圧力を感じるものだ。致命的な恐怖とまではならないが、それでも居心地が良い訳ではない。

 とりあえず言い訳が出来るくらいには仕事をしようと考えて、もう一度床に這いつくばった。

 ぐるりと床を撫で回って、入り口から正面に見えていた異様に急な階段を上る。一階の半分ほどの面積に二階が設えてあり、上がると真っ先に目についたのはぎっしりと本の詰められた本棚だった。

 底が抜けるんじゃないだろうかと怯えながら、とりあえず床の埃を拭う。見れば隅の方には文机とスタンドが置かれていて、このおよそ人が生活するに不適な場所で書き物をしていた人間がいたということが予想できた。確かにここならば人間の邪魔は滅多に入らない。やりそうな親族を何人か考えてみたが、該当者が多すぎて意味がないという結論が出た。

 本棚をぼんやりと眺めると、学術書の類が殆どだということに気付く。適当な本を抜き出せばいやに時代がかった言葉遣いの例文が乗った英語の教本が出てきて、そういえばこの家の人間はずいぶん昔から教師ばかりだったなと仄かに恐ろしいことを思い出した。俺自身は教師になる気はさらさら無いが、本を読むのは好きな方だ。大量の本を蒐集しても奇人扱いされないのは先生様の特権だなあと益体も無いことを思いながら、とりあえず先に叔父に言われた通りに本棚を漁ることにした。


※  ※  ※


 カステラで一番美味しいのは、あの表面の薄い紙を引き剥がした時に貼り付いてくる、じゃりじゃりとしたザラメの部分だと思う。何のために貼り付いているのかはさっぱり知らないが、この砂糖をそのまま齧っているような乱暴な食感がこの紙のお蔭で得られるのだから素晴らしいものだ。そんなことを苦いばかりで全く香りのない淹れたてのコーヒーを啜りながら叔父に伝えれば、しばらく理解しがたいものを見たような顔をしてから、もう一切れのカステラを俺の皿に追加してくれた。


「結構長く居たね。何か面白かった?」

「本が面白かったから何冊かもらいます。刀はびっくりしました。誰ですか」

「あれね、爺ちゃんの兄さん。刀は抜くと錆びてるから面白くないよ。探すともう一振り日本刀もあるけど、そっちは折れてるから」

「何でそんなことになったんです」

「爺ちゃんが子供のとき学校に持ち出して見せびらかして傷んだ。曾爺ちゃんがとても怒った」


 子供って訳の分からないことをするよねと言って叔父は笑う。しかし親戚一同に『何だかよく分らない』と言われ続けている叔父にはたしてそれを言う資格があるのだろうかと考えて、俺は日本人らしく曖昧に笑い返すに留めた。

 そんな俺の気遣いに勘付くどころか興味を持った様子もなく、叔父は手元の湯呑に蜂蜜を流し込みながら、ゆっくりと口を開いた。


「そういや君、棒は持ってきたか」

「外したけどどこに置いていいか分からなかったんで玄関にあります」


 ついでに鍵は掛けていませんと伝えれば、それは私がやるよと気のない口調で答えが返ってきて、しばらく考え込むような沈黙があった。


「前はね、冬に前科持ちが手伝ってくれたんだ」

「何をですか。そんで誰ですか」

「蔵の整理。その前は庭の雪囲い。前科持ちはね、近所の人だったから」


 前科は何だったんですと聞けば人殴ったか殺したかの人だよと軽い調子で深い隔たりのある二択が返ってきた。恐らくそこについて問い詰めても叔父は本当に覚えていないだろうことが予想できたので、そのまま続きを促す。


「裏庭真面目にやってくれたから、蔵も頼もうと思ってね。君みたく適当に頼んだの。棒は持たせなかったけど」

「はい」

「出て来なくってさあ」

「は?」


 三時間待ったんだよとどことなく腹立たしげな口調になりながら、叔父は続けた。


「いくら待っても戻って来ないから、逃げたか倒れたかしたかと思って見に行ったの。倒れたなら医者呼ばなきゃいけないし、逃げたんなら警察呼ばなきゃいけないし」


 どちらにしても面倒だと思いながら、叔父はとりあえず状況の確認に寒い廊下を歩いて蔵へと向かったのだそうだ。怖いとか思わなかったんですかと問うと昼間ならお化けは出ないだろうと完全に的が外れた答えが返ってきたので、俺は黙って続きを聞くことにした。

 年月の染み付いて焦げた扉。無造作に貼られて変色したお札。外しておいたはずの南京錠がどういう訳か三つともしっかりと掛けられていて、叔父は覚えのなさに首を傾げた。


「掛けるにしても私合鍵作ってないから私以外で掛けるの難しいと思うんだけど、掛かってたから仕方ない。開けないと入れないからね、開けた」


 蔵の中は真っ暗で、ああこれは逃げたんだから警察だなと思いながらも叔父は念のために前科持ちの名前を呼び掛けた。

 一度目はしんと静かだった。二度目で物音が聞こえた。三度目の呼び掛けで、鳴き声がした。


「泣いてたんですか?」

「鳴いてたんだよ。犬が」


 電燈を点けて入り込み、ずらりと木箪笥の並んだ果ての、ひやりと冷え切った蔵の角。ばらばらと剥ぎ取られたような服の散らばる床の上。

 痩せて尖った耳をした虎毛の犬が、蹲ってこちらを見ていた。


「仕方ないから警察じゃなくて身内の人を呼んだよ。謝られたけどどうしたものか分からなかったから、黒煎餅をあげたよ」

「前科持ちの人は何処行ったんですか」

「それきり家にも帰ってこなかったよ。まだ見付からない。だからいろいろ考えたけど、とりあえず起きた順に事を並べてみたんだ」


 蔵に人が入る、蔵に鍵が掛かる、蔵を開けたら犬が出てくる。

 起きたことをただ並べると、こういう事になる。そして蔵に入った『人』は、それきりどこにもいなくなった。


「犬になったんですか」

「面倒なこと色々考えないとそうなるね」

「物盗って逃げる時間稼ぎに犬入れて服脱いで鍵掛けたってのは駄目ですか」

「出来なかないけどその為にまず合鍵作っておかないと」


 けどそこまでして盗むようなものも無かったろうと言われて、俺は蔵の惨状を思い浮かべて頷く。よしんばあのがらくたと古物の山から価値あるものを見付けて盗もうとしたとしても、逃げる必要性がそもそもないだろう。盗品を持ち出してから戻ってきて、何食わぬ顔で仕事を終えた旨を報告すればいいだけのことだ。訳の分からない仕込みをする意味がない。


「それに頼んだの冬だからね。服脱いで外出るってそれだけ正気の沙汰じゃない」


 叔父の言葉に俺は以前来た時の事を思い出す。分かり易い豪雪地帯であるこの土地の冬は、いっそ悍ましいほどに厳しい。こんなところに住まなければいけないのは何かの罰なのではないかと考えてそれに案外納得がいってしまうくらい、ここの寒さは生き物にとって致命的だ。氷点下も吹雪もいつものこと、死因が雪の人間だって珍しくもないここで、たかが盗品の為に服を――防寒具を脱ぎ捨てるような狂人がいるとは到底思えなかった。

 だから君に前科が有るかと聞いたんだと至って何事も無いかのような口調で叔父が言うので、何だか知らないうちに随分俺は危ない目に遭っていたんじゃないかと思えてきた。そういえばと棒を持たせた訳を聞けば、戸が閉まらなきゃ犬だって出てこられるだろうと空恐ろしい答えが返ってきて、俺はもうどんな反応をするべきなのかが分からなくなる。

 すっかり味のしなくなったカステラをしょりしょりと砂でも噛むような気分で詰め込んでいると、叔父は珍しくそんな俺の様子に気付いたのか、慰めるような声で、


「そんなに怯えなくても君はまあ大丈夫だとは思ってたよ」

「その根拠は何ですか」

「歌の文句」

「……一応聞きます」

「『善男善女は出られるが、悪人悪女は犬になる』ってね、昔聞いたことがあったから」


 だって君前科無いんだろうと何故か優しげに言って、叔父はもう一切れ俺の皿にカステラを置いた。

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