東北奇譚

目々

七月三十一日夜

前夜

 早起きをするのは嫌だと駄々をこねた結果、北猪池尾の駅に着いたのはしゃんしゃんと虫の鳴く声のする夏の夜。生真面目な駅員の改札を抜けて薄暗い待合室の時計を見れば、九時を過ぎた頃だった。


「どこさ行きますか」

「タカツキイツキの家で分かりますか」

「……タカツキ先生の家だか」

「ミエルの近くです。国道沿いの」


 駅前に一台だけ止まっていたタクシーに乗り込んで、自分でもどうかと思うくらいにぼんやりと目的地を伝える。それでも運転手がやっぱりタカツキ先生の家だなと聞き慣れた土地の訛りで答えて、あっさりと車が動き出す。聞いては見たもののまさか個人名で地図も見ずに通じるとは思ってもいなかったので、希望が叶ったのに狐につままれたような気分になった。


※  ※  ※


 しんしんと暗い夜の庭。その闇に馴染んで黒い板塀の門。見える庭にはぼんやりと白い大輪の花が咲いていて、時折吹く風に花首がふらふらと揺れている。

 雪国特有の二重玄関、その一枚目のガラス戸は恐ろしいことに鍵もかかっておらず、手をかけて横に引くだけでがりがりと音を立てて開いた。普通なら呼び鈴を押すべきなのだけれども、俺が小さい時に壊れたきり修理をしていないはずなので、構わずに次の扉に手を伸ばす。

 木戸格子の引き戸を開ければぎらぎらと異様に照度の高い照明が目を焼いて、夏の夜闇に馴染んだ視界が眩んだ。


「遅かったじゃないか」


 ぺたぺたと裸足が板の上を歩く音をさせながら、感情の乗らない穏やかな声が近づいてくる。


「兄さんから今日だとは聞いたけど、何時かまでは聞いてなかったからね。こんなに遅いなんて知らなかった」


 もう少しで諦めて寝ようかと思ったんだと冗談のような言葉が聞こえて、俺は戻った視界に焦点を合わせる。

 年齢も感情も分かり辛い、能面どころか沼の表面のようにつるりとした、それでもどこか見慣れた面影のある顔。年に数回見慣れているのに、どうにも印象がはっきりしないのを、俺はずっと不思議に思っている。


「お久しぶりです、叔父さん」


 早起きが嫌で遅くなりましたと素直に謝れば、それはとても人間らしい理由でいいねと言って叔父は微かに笑った。


※  ※  ※


 一番多い時には六人がそれぞれの部屋をもって住んでいたと言えば、それなりに大きな家なのだろう。俺の父とその弟である叔父の生家であり、つまりタカツキの家だ。洋間に居間に仏間の広間が三つ、便所が四つあって、冗談のように急な階段を登る二階には大部屋一つと小部屋が三つ。外には蔵と作業小屋と物置小屋とよく分からない小屋があって、正面には椿や松や芝やライラックのような花木が思い付きのように植えられていて、悪ふざけのように脈絡なく花の咲く花壇を経てだだ広い裏庭に至る。裏庭というのは分かりやすい名称で、実際にはトマトや水仙や木蓮の木に潰した井戸があったりと、どちらかといえば畑のようなものがそれなりに広がっている。そのぐるりを取り囲むのが黒板塀で、門戸は嫌がらせのように車が入り難いぎりぎりの狭さを以て開いている。

 要約すれば、田舎の大きくて広い家だ。そんな核家族でも持て余すような広さの家に、叔父は一人で住んでいる。


「わざわざ来てくれてありがとう。兄さんの言った通りだ」

「あの人嘘はつかないでしょう。適当は言いますけど」

「誠実な人だからね。私は君たちに感謝してるよ」

「そういう筋じゃないみたいです。親族の義務だそうです。俺は阻止策です」

「そう言ったって片付けって私は本当に嫌いなんだ。苦手じゃないよ、嫌いなんだ」


 叔父はかんかんに煮えた紅茶を勧めながら、ちらちらとテレビに視線を向ける。画面を見れば人がガラス瓶のせいでずたずたになっているところで、俺は慌てて視線を逸らす。


「知ってます。去年はそれで父さんとお片付けしたんじゃないですか俺も」

「ひどい目に遭ったし遭わせたね。本棚まで作ってくれたんだから、兄さんは相変わらず器用だね」

「二部屋本で埋めるからですよ。仏間に本を積むなんてバチ当たりますよ」

「仏間が一番涼しいのさ。本読んでお茶飲んで涼んで昼寝して、起きたらほら居間に行ってご飯の支度」


 ほら仏間に本が増える訳だったねと言って叔父は笑う。俺は去年の惨状を思い出して悲しくなる。

 いざお盆だと帰省した生家が本棚になっていた衝撃は、一体父にとってどれ程のものだっただろう。俺は本屋以外であんなに高く広く本が積まれていた様子を見たことがなかったし、仏間の入り口から仏壇までの道の両脇に低くて膝丈くらいの高さまで本が延々と積まれているという様に、何だか斬新な悪業を見せられているような気分になった。

 結局それら本の群れは激怒した父によってそれなりの体裁をつけて片付けられたのだけれど、その難業の最中に父は気付いたのだろう。この惨状を救済したとて、それを生み出した張本人が更生しなければ元の木阿弥であるという、至極当たり前の事実。本の山は叔父がいる限り、崩しても崩しても積まれていく。賽の河原の罪石ならば積み切れば上がりだけれども、現世の本の山は片付けなければ生活に支障が出るのだから。

 そんな去年の災厄を鑑みて、父は色々考えたのだ。叔父は悪意も敵意も病気もないけれど基本的に生活能力に欠けていて、更生も学習も成長も期待できない。そんなことは実の兄弟であるのだから、嫌になるほど知っている。だから父は考えた。考えた結果のしわ寄せでとばっちりが、つまるところ俺に来たのだ。

 何が悪いのかと言えば、大学生になってから借りていたマンションの上階に住んでいた住人が交際相手を惨殺してしまったために、新築住まいから二か月で事故物件住まいになってしまった俺の運が一番悪いのだろうと思う。別に俺が殺されたわけでもなんでもないが、お化け屋敷に入って熱を出す程度に怖がりである自分には、自然死ならまだしも殺人が行われたような曰く付き物件に住み続けるほどの度胸はない。半泣きで住み慣れる前の新居を出たのはいいけれども、新しい物件を吟味するほどの金も時間も無かった。

 そこで先の問題ある身内の始末の付け方を考えていた父が面倒ごとをまとめた結果、生活能力の無い叔父のもとに宿無しの学生を、家事手伝いを兼ねて住まわせることとなったのだ。


「しかし災難だったね。住んで二か月だろ、一人暮らしに慣れるどころじゃなかったろうに」

「罰当たりそうな物言いになりますけど、俺の落ち度が一切ないですからね、書類書き直さなきゃならないから散々です」

「私としては片付けさえ手伝ってくれれば後は別に何にも要求することがないんだよ。家賃分は兄さんから貰ってるけどね、むしろ賃金とか払った方がいいんだろうか君に」

「新聞奨学生みたいな扱いでいいですよ。ここから通うと以前より楽ですし」


 路線の電車の本数は減ったが、最寄り駅との距離と時間がだいぶ近くなったので、単純な物件としてみれば居住環境の質自体は上がったのだ。強いて言うなら叔父との同居になるのだから一人暮らしの自由度は失ったのかもしれないが、枕元になにがしかの立ちそうな環境で孤独を満喫するよりは、生身の身内と一緒に生活した方が俺の心は平穏を保てるのだから問題は無い。


「そう言ってもらえるならいいけどね。片付けと家事、手伝ってくれるなら去年よりはマシになるからね」

「去年みたく散らかしたんですか」

「少し反省したからね、仏間にそんなに積んでない」


 今のところは言えば蔵の掃除と盆の支度がメインだねと言って、叔父は手元の茶碗に口を付ける。飲んだ氷をがりがりと噛んで、またテレビの方へと視線を戻した。

 油断すれば喉どころか唇まで火傷しそうな紅茶を冷ましながら、俺は時計を見る。そろそろ十時を過ぎる頃で、普段ならば平然と起きている時刻だけれども、流石に今日のそれなりの移動距離が堪えているのか薄ぼんやりとした眠気がある。


「叔父さん。俺どこで寝ればいいですか」

「涼しいのが良いなら仏間だよ。本当にあそこは風の通りがいいから」

「怖いから嫌です。できれば二階で寝たいんですけど」


 いつも家族で帰省した時に寝ている八畳の部屋が使いたかった。


「二階ならクーラーの部屋にしなよ。涼しいから」

「俺クーラー苦手です」

「じゃあいつもの部屋にする?半分しかないけれど」


 嫌な予感がした。


「仏間で読むのやめたからね、八畳の部屋にしたんだ。反省したから、まだ半分しか埋まってない」


 もう半分でなら寝られるよと言う叔父の顔に悪びれた様子は少しもなく、恐らく『半分使える』と言うのもからかいや冗談ではなく、本心からそう提案しているのだろうというのが分かった。


「……じゃあクーラーの部屋にします」

「うん。クーラー嫌なら洋間の扇風機持っていきなさい」

「寝てるときに扇風機当てると死ぬとか聞きましたけど」

「そうなの?じゃあ戸開けて寝なさい。暑くても死ぬから」


 家で死ぬと自然死でも変死だから大変なんだとさらりとした口調で呟いて、叔父はじっと映画に見入っている。気になって視線を追えば先ほどずたずたになった人がちゃんとつぎはぎになっていて、男前は傷塗れになったとしても凄みが増して美しいものなのだなと感心した。


「じゃあ風呂入んなさい。面倒で運転切ってないからまだ熱いよ」

「ありがとうございます」


 珍しく人間らしい提案が叔父から出されて、俺は少し驚いた。確かに叔父の言う通りだ。風呂に入って、今日はさっさと寝てしまおう。面倒ごとを片付けるのは明日からにしても少なくとも罰は当たらないだろう。命令を聞くのは嫌いでも苦手でもないけれど、とりあえず今の俺はずいぶんくたびれている。

 俺は色んなことを考えるのを止めて、風呂に入る支度を始めようと席を立つ。かつて知ったる脱衣所に荷物を片手に向かえば、そういえばとどうでもいいことを思いついたようないい加減さで叔父が口を開いた。


「風呂場の窓ね、鍵掛けてあるから開ければいけないよ」

「分かりました」

「うん。たまに人影が映るかもしれないけどね、開けなければ平気だから」

「……それは警察を呼べばいいんですか」

「五回に一回くらいはだいたい新舘にいだてさんちのお婆ちゃんなんだけどね。そういう時は声がするから警察呼びなさい」

「声がしないときはどうするんですか」

「だから開けなきゃいいのさ」


 それだけ気を付けてねと開けづらい扉のコツを伝えるような気軽な具合でとんでもないことを言って、叔父はまた映画に見入っている。

 たちの悪い冗談だと考えるのが普通だろうが、どうにも叔父の平然とした表情と口調からはそんな洒落っ気のかけらも読み取ることができず、いまいち発言の真贋が見切れない。ただおどかしてからかっているのだと考えるのが普通なのだろうけども、十八も過ぎた甥を怖がらせて楽しいのかと言えば微妙なところなのではないかと俺は思う。少なくとも俺が叔父の立場であるならば、それで怯えられる方が余程面倒だ。だとすると先ほどの言葉はただの注意事項の伝達ということになるが、そうだとするととても怖い。およそ五回に四回は、警察を呼ばなくていい種類の人影が映っているということになる。

 

「叔父さん。俺はおばけが怖いです」

「うん。昔お化け屋敷連れてかれて熱出したものね。それで?」

「冗談だったら驚いたので止めて嘘だって言ってください。俺はお風呂に入れなくなります」

「何で」

「何でって、影が映るって言ったじゃないですか」

「そうだよ」


 別にそれだけだよと言って、叔父は不思議そうに俺を見る。


「映るだけだもの。そもそも何だか分からないんだから、怖がる理由もないだろうに」

「だってその――新舘さんじゃないんでしょう。五回に四回」

「うん。巡査さんに見てもらったけど、何もいないこともあったからね」

「何かいたこともあったんですか」

「足が速くてね。三本あったから逃げられたって。足遅いんだよ三村さん」

「何ですかそれ」

「さあ。とにかく窓ぶち破ってこようとするのはお婆ちゃんだけだし、そもそもそんなに頻度もないし。再三言うけど開けなきゃ怖くないし」

「うちって訳ありだったんですか。そんな影とか」

「うん?別にうちだけじゃないよ。仁科さんちでもたまにあるし、琵津さんちは比較的よくあるって」


 納得したら早く入りなさいと今度は心底面倒そうな口調で言って、叔父はひらひらと追い払うような仕草をして見せた。既に意識は映画へと向いているのだろう、こちらの様子を窺う気配すらない。

 言いたいことも聞きたいことも浮かんでいるのに、口に出す方法が分からない。出したところで堂々巡りになるのも分かっている。叔父からすればただの影に俺が怯える理由も分からないのだろうし、俺も何故それが恐ろしいのかという感情の発生した理由を伝えきれる自信がない。それにそんなことをしたところで、結局事態の解決にはならないのだ。

 一瞬風呂を使わなければいいのだとも考えたが、須臾の葛藤の末に却下する。気温も高い真夏日にどたばたと移動した身として、入浴せずに寝るのは生理的かつ世間的に許されない気がする。そして近くに代わりになるような銭湯も無い上に、どうもその恐ろしいものがこの家固有のものではなく(叔父の口ぶりからすれば)この辺り一帯の問題である以上、今の俺に逃げる手段はない。そもそも今日を凌いだところで、これからここで過ごす以上はその一切を風呂に入らずに過ごすのは非現実的だ。不潔と恐怖とを天秤にかければ、社会的に考えて許されないのは不潔の方だろう。

 つまり簡単なことだ。普通に風呂に入って、普通に洗髪その他を済ませて、新舘さんが出ない限りは普通に後始末をして上がればいい。それだけのことだ。俺は普通のことを普通にできるように育ったのだから、それができない道理がない。

 そういう訳で諦めが付いたので、俺はとぼとぼと脱衣所に向かう。叔父は悲壮な俺の様子に気付く風もなく、思い出したように手元のお茶を飲んでいる。

 

『嫌なものなら見えないようにしてやる!見なけりゃあんたは笑っていられる!』


 鏡を割りながら、映画の悪役がそう吠えた。悪役の癖に真っ当なことを言うものだから、何だか無性に腹が立った。 

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