第32話

 その日はよく晴れていた。

 アラン様が王太子となってから五年、私たちはこの国をよくするためにいろんなところに行った。平和なマクファーレン王国ではあったけれど、それでも内乱や国境付近での小競り合いがないわけではなかった。私は聖女として人々に癒やしを、アラン様は次期国王として調停役や攻め入ってくる軍を率いたこともあった。

 最初は一つだけだった孤児院も、今では主要都市だけではなく小さな村にも置かれるようになった。大半は教会と連動させているけれど、それでも私が来たときよりも孤児は減った。

 そういえば、少し前にアーシャがライと結婚をした。来年には子どもも生まれるとのことで、私の名前をもらいたいとそう言ってくれていた。きっと可愛い子が生まれると思う。でも、その頃私はもうこの国には、いない。

 先日、王様が退位を宣言した。老いた身体で王位にしがみつくよりも若き王にこの国を任せたいとそう言って。反対する人もたくさんいたけれど、王様の意志は固く、今日の日を迎えてしまった。

 今日、王様が退位するとともにアラン様が王となる。アラン様に子はいないので継承権第一位のクリスが王太子となるそうだ。これに関してはクリスが不満を訴えていたけれどアラン様に押し切られていた。

「そういう頑固なところ、ホント父上と似てるよな」って、クリスはぼやいていたけれど。


「――ここに、アラン・グリフィン・マクファーレンを王とすることを宣言する」


 王様――アラン様の父上であるローレンス様の声が響き渡ると、お城に集まった貴族達が歓声をあげる。そしてお城の外では新王即位を知らせる鐘の音が鳴り響いた。

 ああ、私のこの国での、まるで夢のような日々も終わりを迎える。

 アラン様の隣で歩み続けたこの五年間は本当に幸せだった。――それこそ、もうこのまま元の世界に戻らず、この世界にいてしまいたいと思うほど。

 けれど、アラン様は私のためになるつもりもなりたくもなかった王となることを決めたのだ。それに私にも元の世界に戻って、それで……それで……。

 どうしてだろう。あんなにも元の世界に戻ることを願っていたはずなのに、帰ることを考えると胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、そんな気持ちになるのは。


「……気のせいだ」


 私は胸の奥にわき上がってきた感情を全て気のせいだと否定した。そうじゃないと、これ以上この場所にいられそうになかったから。



 アラン様が国王となった夜、私はアラン様に呼ばれ執務室――ではなくアラン様の私室へと向かった。

 荷物を運び出す準備をしているのか部屋は雑然としていた。


「ああ、すまないね。空いているところにかけてくれ」

「引っ越しの準備ですか?」

「ああ。執務はもうすでに向こうで行っているがまだこちらの荷物が片付いていないからね」

「手伝いましょうか」

「ありがとう」


 私とアラン様はぽつりぽつりと会話をしながら部屋のものを段ボールにつめていく。


「こういうのって従者の方がするんだと思ってました」

「自分のものぐらいは自分でしないとと思ってね」

「素敵な王様ですね」


 ふっと微笑むアラン様に私も笑う。

 きっとアラン様はいい王様になるだろう。国民に愛され、国民を愛す。そして――。


「アラン様、一つお願いがあります」

「どうした?」

「……私が元の世界に帰ったら、私のことを、忘れてください」

「な、にを」

「私のことを忘れて、誰かを愛して、そして誰かと子を――」

「アイリ!」


 私の言葉を遮ると、アラン様は自分のそれで私の唇を塞いだ。

 荒々しい口づけに何も言えなくなる私を、アラン様は苦しそうな表情を浮かべたまま見つめた。


「アラ、ン様……」

「アイリ、私は君を愛している。たとえ君がこの世界からいなくなったとしても、それでもずっとずっと君を想ってる」

「でも! それじゃあこの国が!」

「……クリスはいい子だよ。いや、いい男になった。あいつがきっと私のあとを継いでこの国を導いてくれる。私は君を元の世界に戻すための中継ぎの王だ。それはあいつもわかっている」


 そんなの駄目だと、アラン様の人生を私のせいで壊したくないとそう言いたいのに、そうさせているのは私だと思うと何も言えない。

 私が、元の世界に帰りたいなんて言ったから。だから。


「君のせいじゃない」


 でもアラン様は首を振ると優しく微笑んだ。


「私が望んだことだ。言っただろう、君にできることは全て私がしたいんだと。これは全て私の我が侭なんだ。だからアイリ、君が責任を感じる必要はない」

「でも、だからって!」

「アイリ、君は君の望むまま生きていいんだ。元の世界に戻ったとしても辛いことが待っているかも知れない、悩むこともあるかもしれない。それでも君が選んだことに間違いなんてないんだから」


 そう言ったかと思うと、アラン様は私の身体を抱きしめた。

 優しく、慈しむように。


「アイリ、君に会えて幸せだった」

「アラン様……私も、あなたに出会えて、幸せでした」

「願わくばこれからの君の人生に、幸多からんことを」


 腕に込められる力が一層強くなる。

 そして。


「さよなら、生涯でただ一人愛した人――」


 その言葉に続けてアラン様が呪文を唱える。聞いたことのない、私の知らない呪文を。

 次に目を開けたとき私は――暗闇に電灯の明かりが灯るマンションの部屋の前の廊下に倒れていた。





 元の世界に戻ってきてから一週間が経った。五年以上をマクファーレン王国で過ごしたはずが、元の世界ではたったの一週間しか経っていなかったというから魔法というのはよくできていると思う。

 ただたったの一週間といど女子大生がいなくなり騒ぎになるには十分な日数だった。充電の切れきったスマホの電源を入れると、バイト先や友人達はたまた母親からの連絡も入っていた。

 どうやら大学とバイトの無断欠席無断欠勤を繰り返す私を心配した友人達が大学の先生に相談し、そこから母親にも連絡がいっていたらしい。

 その連絡を開くのがあまりにも怖くて、でもほんの少しだけ「大丈夫? 何かあったの?」と心配してくれているのではと期待して、けれども期待しただけ裏切られるのが怖くてずっと開けずにいた。

 それをようやく開こうと思えたのは、昨夜見た夢のせいだった。

 もう二度と会えないあの人が、そっと私の背中を押してくれる夢。あの夢のおかげで、ようやく母親からのメールを開くことができた。


「っ……」

 

 けれど数年ぶりに来た母親からの連絡は素っ気ないもので『勝手に行方不明になってこちらに迷惑をかけないでください。血のつながりはあれど今は他人です。金輪際こういう連絡はいりません』というなんとも言えない内容だった。


「他人、か」


 一体何のためにこの世界に戻ってきたのだろう、と喪失感に襲われる。母親から愛されたかった。いつか幸せになったわねと言われたかった。でも、向こうはとっくに私のことなんて家族とは想っていなかったのに。


「あ、はは……。わら、える」


 乾いた笑いが漏れる。以前だったらきっと泣いていた。でも、今は涙一つも出ない。

 ああ、なんだ。

 結局、私も心のどこかで、もうお母さんに期待することを諦めてたんだ。


「今更、気づくなんて」


 ずっと戻ってきたいと思っていた。

 ここが私の生きる場所だとそう思っていた。

 でも、元の世界に戻って大学に行って友達と笑って一緒にご飯を食べて、ベイトをして、一人で眠って。

 そんな元通りの生活をしているはずなのに、どうしてこんなにもむなしいのだろう。これが本当に、私が望んでいたことなのだろうか。

 アラン様は私に、幸せになるようにとそう言ってくれたのに。そう願って、送り出してくれたのに。


「アラン様……」


 その名前を、戻ってきてから初めて口にした。

 口にすれば最後、想いが膨らんで歩き出せなくなることがわかっていたから、ずっとずっと心の奥深くに閉じ込めてたその名前を口にした瞬間、涙があふれ出した。


「あ、れ……」


 道行く人がいったいどうしたのかと私をジロジロと見てくる。でも、人の視線なんて気にしている余裕は今の私にはなかった。

 止めどなくあふれる涙が、頬を、アスファルトを濡らしていく。


「アラ、ン……様……」


 駄目、もう駄目。


「アラン、様……!」


 会いたい。会いたくて会いたくて仕方がない。

 どうして戻ってきてしまったんだろう。

 どうしてあの世界を、あの人を選ばなかったんだろう。

 生まれた国が違っても、生まれた世界が違っても、私が生きる場所はアラン様の隣だったのに。


「いま、さら……気づく、なんて」


 もっと、もっと早くに気づくべきだった。アラン様にあの魔法を使わせる前に。あんなにも時間はたくさんあったのに。どうして、どうして今頃になって気づいてしまうの。


「ひっ……うっ……ふっ……」


 立っていられずその場でしゃがみ込む私を、人々は不審そうに、でも関わりになりたくないといった様子で避けていく。

 そんな中、私は泣いて泣いて泣き続けた。


「帰りたい」


 アラン様の元に、帰りたい。


「戻りたい」


 アラン様の住む、あの世界へ戻りたい。


「アラン様と、一緒に、生きたい」


 そう呟いた瞬間――私の中に光を感じた。


「これ、は」


 それはあの国で何度も感じた、あの感覚だった。


「ま、りょく……? でも、どうして……」


 あの世界では魔法があるからわかる。でも、この世界では魔法なんて存在しないし、そもそもこの国に帰ってきてから試してみたけれど魔法なんてこれっぽっちも使えなかった。

 なのに、どうして。


「ううん、そんなのどうでもいい」


 そうだ、どうしてかなんてどうでもいい。

 魔法が使えるなら、魔力があるのなら、もう一度アラン様に会えるかもしれない。

 いつかアラン様は言っていた。呼び寄せるのは簡単だけれど元の世界に戻すのは難しいと。つまり私がこの世界に戻ることは難しくても、あの世界に行くことは簡単だということだ。


「鑑定」


 頭の中に思い描かれるモニターには初めて鑑定を使ったときよりもさらに膨大になった魔力が数値で表されていた。

 これなら、きっと。


「でも、駄目……」

 

 召喚魔法なんて使ったことはない。それどころかこちらからあちらへ向かうための魔法なんて……。

 召喚……あちらに向かうための……。


「もしかして」


 私は急いでマンションへと戻った。部屋の前まで来ると、底に残る魔力の残滓を探した。ここから向こうの世界に呼び寄せられ、そしてこの場所に戻された。

 もしかしたら何か手がかりがあるかも知れない。あの世界に繋がる、何かが。

 心を落ち着かせて魔力に集中した。

 明るかった太陽が沈み始めても私は諦めなかった。隣人が不審そうにこちらを見ていたけれどそれも気にならなかった。

 どうかお願い。見つかって……!

 けれど願いもむなしく、いつの間にか夕日は沈み、空には月が昇っていた。

 ジジッという音を立てて電灯に明かりが灯る。


「駄目、なの……?」


 見つからない。どれだけ探しても、アラン様へ、マクファーレンへ繋がる魔力の残滓なんて欠片も……。


「あれ……?」


 その瞬間、私はほんの少しだけれど懐かしい気配を感じた。

 そういえば、召喚されたときも戻ってきたときもこれぐらいの時間だったはず――。


「っ……あっ、た」


 それは本当に僅かなものだった。

 糸よりも細い気配を私は必死に掴むと、体内にあるありったけの魔力を想いに乗せた。


「お願い! もう一度、あの人の、アラン様の元に……!」


 呪文なんて知らない。魔方陣もない。ただ祈ることすらできない。それでも、私は祈り続けた。

 ただアラン様にもう一度会いたい。その想いだけを胸に。

 そして――辺りは金色の光に包まれた。

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