幕間Ⅱ

アランの葛藤

 いつの間にか薄暗くなった執務室で、アランは酒の入ったグラスを傾けていた。

 ここ数日の間に起きたことを思い返してみても全てが上手くいったのが奇跡のようだった。

 執務以外で久しぶりに足を踏み入れた王城は、そこにいるはずのないアランに対して不躾な視線を向けてきた。露骨にこちらに向けて何かを言う声も聞こえる。けれど、そんなことはわかりきっていた。それでもアランはここに来る必要があったのだ。


「アラン王子、こちらへ」


 そう言って案内されたのは、国王の執務室だった。ドアを開けると、そこには国王であるローレンスと数人の側近がいた。王妃がいないことに少しだけ安心してアランは息を吐いた。


「久しぶりだな」

「はい」

「今日はどうした?」


 聖女であるアイリのことはもうすでに耳に入っているはずだ。けれどローレンスはそれを問いただすのではなく、まずはアランの目的を尋ねた。そのことがアランの気持ちを楽にさせた。


「貧困街の今後について、国王にご相談したく」

「貧困街? ああ、何やら尽力したと聞いたぞ。街に広がりそうだった疫病を食い止めたとか。よくやった」

「いえ、それは私の力では――」

「それで、貧困街をどうしたいというのだ」


 アランはゴクリと唾を飲み込んだ。これから話すことは今までの自分の位置づけを変えてしまうことになる。

 今まで影に居続けることがいいのだとそう思ってきた。日の当たる場所はクリスの場所だと。政治に口を出さず、与えられた仕事だけこなしていればそれでいいと。けれど、彼女は――アイリは教えてくれた。自分の身を守ることよりも大切なことがあるのだと。

 あの場所があのままで言いわけがないことはアランにもわかっていた。子ども達が身を寄せ合っている姿を見る度になんとかしなければいけないと心を痛めていた。けれどアランにできることといえば息のかかった教会に子ども達への配給を行うように指示するこぐらいだった。それも満足のいく量を与えることはできなかった。何もかもが中途半端にしかできなかった。

 それもこれも、王子という立場からアランが逃げていたからだ。


「私は、孤児院を作りたいと思っております」

「ほお? 孤児院とな」

「ええ。貧困街にいる子どもだけでなくこれから何かの事情で親を亡くした子が安心して生活ができる場所を作ってやりたいのです。そこでは読み書きをし、そして学校へも通わせたいとそう思っております」

「財源はどうする」

「国費と、それから寄付で賄おうかと」


 アランの言葉に側近がざわつくのがわかった。それはそうだとアランは思う。人一人を養うのにどれぐらいの金がかかるのか調べなかったわけではない。けれど。


「そこで育った子は、いずれこの国の働き手となります。やがては家族を持ち、その子がまたこの国を支えていく大きな幹となります。今はそのための根を張る時期だと私は思うのです」

「…………」


 ローレンスは何も言わない。眉間に深く皺を寄せたまま考え込んでいるようだった。そんなローレンスにアランはさらに言葉を重ねる。


「また孤児院を作ることで、マラストの治安維持にも繋がります」

「ほお?」

「あの場所に住むものは学がなく大人になったとしてもろくな職に就くことができません。野盗になったり強盗になったりと街の平和を脅かします。けれど彼らも全員が全員、なりたくてそのようなことをしているのではないと私は考えます。学があれば、チャンスがあればまっとうな人間として育つことも可能だと思うのです」

「……そこまで言うのであれば、自分の責任で孤児院を作り運営してみせよ」

「え……?」


 ローレンスの言葉に顔を上げると、目を細めて微笑むローレンスの――父の姿があった。


「そこまで言うのだ。もうすでに孤児院の構想は練ってあるのだろう?」

「は、はい」

「なら好きにしろ。孤児院のことも含め、貧困街の今後についてはアラン、お前に一任する」

「…………」

「なんだ? 不満か?」

「い、いえ。ありがとうございます」


 こんなにもすんなりと話が通るなんて思っていなかった。反対されるだろうし、話がこじれるかもしれない。そういうときのための手をアランは考えていた。

 けれども蓋を開けてみたらどうだ。ローレンスはあっさりとアランの要望を飲んだ。まるでそうするのが当たり前のように。


「……では、さっそく行動に移したいと思います」

「ああ。……ところで、アラン。お前のところに客人が来ていると聞いた。息災か」

「っ……」


 アイリのことを言っているのだとすぐにわかった。貧困街のことを知っているのだ。アイリのことを、聖女のことを知らないわけがない。

 なんと返せば悩んでいるうちにローレンスの方が口を開いた。


「ああ、咎めるつもりはない。そうだな、その者の都合がいいときにでもこちらに来てお茶でもするとしよう。もちろんアラン。そなたも一緒にだ」

「は、はい。ありがとうございます」


 アランは一礼すると執務室をあとにした。

 そのあとは、ローレンスが好きにしろと言ってくれたおかげで思ったよりも早く、孤児院や仕事の斡旋など今後のことに手をつけることができた。

 国内は全て上手くいっている。けれど、このままで済むはずがない。思わず漏れそうになるため息を酒で押し戻す。

 アイリがクリスと供に出かけていることは知っていた。行かせたくないと、そう思ってしまう。それを望んだのは自分自身だというのにどうしてか胸がざわめくのだ。

 けれどそんな想いとは裏腹に、日に日に二人の中は親密になっていくように見えた。自分の前では仏頂面を崩さないクリスがアイリの前で屈託なく笑っている姿を見て気づいてしまった。どうやらクリスはアイリに惹かれているようだ、と。そしてまたアイリもクリスのことを憎からず思っているように思う。となれば、アイリがクリスと一緒になり、この国を治めるのが一番いいのだと思っていた。けれど。


「泣かせて、しまった」


 アランが部屋を出たあと、アイリが声を押し殺しながら泣いていたことにアランは気づいていた。


『私、アラン様のことが好きです』


 あの日、あの古井戸を浄化する寸前、アイリはたしかにそう言っていた。そのあとすぐに意識を失ってしまったからもしかしたら言った本人は忘れているのかも知れないけれど。

 だが、その言葉がアランの胸でずっとくすぶり続けている。

 アイリが、自分を好き。

 それは想像だにしていないことだった。

 もしも、もしもアイリが元の世界ではなく自分を望んでくれるなら――。

 それはずっと考えないようにしていたことだった。

 無邪気に笑うその顔に、感情を隠さず泣くその表情に、優しく包み込むようなそのぬくもりに、ずっと惹かれていた。恋い焦がれていた。

 けれどいつかは元の世界に帰る人なのだと、沸き上がる想いに蓋をし、気づかないふりをしてきた。

 だが、もしも。いや、そんなこと。あるわけが、ない。

 アイリは、元の世界へ帰るのだから。


「……キース」

「はい」


 声をかけると執務室から一間続きとなっている隣室にいたキースが姿を見せる。薄暗い部屋に眉をひそめながらも何も言うことなくアランのそばへ寄った。


「アイリを元の世界へ戻す方法は見つかったのか」

「いえ……。現存する書物には国王の力以外で異世界から来た人間を元の世界に戻したという記録はなく」

「……そうか」

「申し訳ございません。さらに調査の手を広げます」

「お前はよくやってくれている。だが引き続き頼む」


 やはり、国王の力以外では無理なのか。貧困街を、そしてマラスト全域へと広がる恐れのあった伝染病から国民を救った、それで王は、父はアイリを元の世界に戻すために魔力を使ってくれるだろうか。

 ……考えるまでもない。無理に決まっている。

 そうなれば。


「一番簡単なのは」

「ん?」


 キースは薄暗い中でもわかるぐらいわかりやすく笑みを浮かべると口を開く。


「あなたが国王となりアイリ様を元の世界に戻すことですがね」


 細めた目の奥が笑っていない。軽口を叩くように言ってはいるが、その目が本気だと告げていた。

 アイリのために王となる。

 もしかしたら自分にできることはそれぐらいなのかもしれないと。アイリのために王となり、アイリが元の世界に戻ったのちにクリスへと譲位する。そのあとは愛莉を想いながら一生一人で生きていくのもいいかもしれない。

 なんて都合のいいことを考えてしまうぐらいには、アランの胸の中はアイリのことで埋め尽くされていた。


「それも、いいかもしれないな」

「アラン様?」

「いや、なんでもない。少し酔ったみたいだ」


 怪訝そうにこちらを見るキースにそう言うと、アランは机の上に置いたままになっていたグラスに口をつけると残っていた酒を一気に飲み干す。

 辛口のそれはいつもよりもキツく感じ、胸の奥をヒリヒリと焼き付けた。

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