第17話
「お姉さん」と呼ぶ声に振り返ると、そこには昨日髪留めを盗った女の子の姿があった。その子は嬉しそうにこちらへと近づいてくる。そんな女の子をクリス様は睨みつけた。
「止まれ」
「ひっ」
「お前、昨日の子どもだな。なぜこいつに近づいてくる。まさかまた何かを盗もうと――」
「ストップ! クリス様、そんな顔したら怖がっちゃいますよ」
今にも泣き出しそうなその子の元へと向かうと私はしゃがみ込んで目線の高さを合わせる。頬は煤汚れだろうか、黒く汚れている。ううん、頬だけじゃない。手も足もそして着ているものも汚れていたり破けていたりとボロボロだった。
「大丈夫? ごめんね、このお兄ちゃん別に怖くないからね」
「ほ、本当?」
大きな青い目に涙をいっぱい浮かべて、今にもこぼれ落ちてしまいそうだ。私はスカートの隙間から手を入れてポケットバッグに入れておいたハンカチを取り出した。
ポケットバッグはコルセットの上にくくりつけられたポケットだ。可愛い刺繍がしてあって見えないところなのにお洒落に作られている。
ハンカチで溢れ出た涙を拭う。真っ白だったハンカチはあっという間に黒いシミがついた。
「あ……ごめんなさ……」
汚れてしまったハンカチに申し訳なさそうに謝るその子に私は微笑みかけると立ち上がった。川べりから水の中に手を入れると冷たくて気持ちいい。そこに先程のハンカチを浸け、ゆるく絞るともう一度女の子の顔を拭う。それを何度か繰り返すと、煤汚れていた顔は綺麗になった。
「よし、これで大丈夫。綺麗になったよ」
「で、でもハンカチが」
「ハンカチは洗えば綺麗になるから大丈夫だよ」
「……ありがとう」
たどたどしくそう言うと、女の子ははにかむように笑った。その笑顔に胸の奥が苦しくなるのを感じる。まだこんなに小さいのにあんなところに住んでいるなんて。
「ねえ、名前はなんていうの?」
「アーシャ」
「アーシャね。私はアイリだよ」
「アイリ……様?」
「アイリでいいよ」
私とそれからクリス様の顔を代わる代わる心配そうに見比べる。相変わらず不機嫌そうな表情を浮かべたままクリス様はそっぽを向いているけれど、不安そうにアーシャが見上げているのに気づくと眉間の皺をさらに深くさせて口を開いた。
「アイリがそれでいいと言ってるんだから俺の許可はいらねえだろ」
「……はい! ア、イリ?」
「ん?」
「あの、昨日はごめんなさい。私もう一度謝りたくて、それでさっき見かけたから追いかけてきたの」
「そっか。でも、もう気にしなくていいよ」
私はアーシャの髪を優しく撫でてやる。アーシャはくすぐったそうに首をすくめて、でも可愛い笑顔を浮かべていた。
やっぱり可愛い。
思わず口元が緩んでしまうぐらいアーシャは可愛かった。
「ねえ、アーシャ……」
「あ! アーシャ! いた!」
「ホントだ!」
「え?」
アーシャに話しかけようとした私の言葉を遮るようにどこからか声が聞こえてくる。その声に振り返ると、アーシャと同じぐらいだろうか。男の子が二人、女の子が一人こちらを指さしているのが見えた。
その子達はアーシャの姿を確認するや、私たちの方に駆け寄ってくる。そして。
「アーシャ! 行くぞ!」
「ま、待って」
「待たない。って、くそ! 何やってんだよ!」
男の子はポケットから炭のようなものを取り出すと、それをアーシャの顔にこすりつけた。せっかく綺麗にした顔はまた真っ黒に逆戻りだ。
「ちょっと、何するのよ! せっかく綺麗にしたのに!」
「あんたがやったのか? 余計なことしやがって!」
「余計なことって……!」
思わず立ち上がった私は、アーシャの腕を掴む男の子に睨みつけられた。その視線に、怯む。いったいどうしてそんな目で睨まれなきゃいけないのか。ただ顔を綺麗に拭いてあげただけだというのに、どうして。
「こいつの顔はわざと汚してるんだ! 余計なことをするな!」
「なっ……」
その言葉にカッとなった。だって、わざと汚しているということはこの子がアーシャに対して意地悪をしているということだから。そんな酷いことするような子と一緒に逝かすことなんてできない。
けれど、アーシャを引き寄せようとした私は――男の子の次の言葉に手を止めた。
「そうじゃないと人さらいに連れて行かれるんだ!」
「え……?」
「あんたみたいにいい服を着てなんの苦労もしてないやつにはわからないだろ! アーシャみたいに可愛い顔をしたやつは気づくと連れ去られていなくなる。俺の姉ちゃんも、こいつの妹もそうだった!」
男の子が泣きそうな声で言う後ろで、一緒にいた子ども達も私たちのことを睨みつけていた。
私は、男の子の言葉がショックだった。人さらいに連れて行かれるのを防ぐためにアーシャが顔を汚していたことも、そしてそんな可能性にこれっぽっちも気づけなかったことも。
「け、警察……えっと衛兵に相談とか」
「したさ、何回も! でもあいつらは俺らの話なんか聞いちゃくれねえ。聞いてくれたとしても捜査なんてしてくれねえよ! むしろ孤児がいなくなってよかったってそう思ってるぐらいだ!」
「あっ……」
呆然としている私をもう一度睨みつけると、男の子はアーシャを連れて走り去る。その後ろ姿を、私は見送ることしかできなかった。
ようやく動き出すことができたのは、小石がすれる音が聞こえすぐそばにクリス様が立っているのに気づいてだった。
なんとも言えない表情で隣に立つクリス様に、私もこれまたなんとも言えない表情を返す。
「私、気づきませんでした」
「仕方ない」
「……本当に仕方ないのでしょうか」
仕方ないで終わらせて本当にいいのだろうか。小さな子どもにあんな顔をさせて、それで本当にいいのだろうか。
私は知っている。助けてくれない大人の非常さを、助けてもらえない悲しさを、そして期待してしまうむなしさを。
そんな私にだからできることは本当に何もないのだろうか。
私のときは見るに見かねてその時々で大人たちが動こうとしてくれた。それでも再婚とはいえ両親が揃っている、最低限の生活は送れていることで介入はできなかった。いっそ両親がいなければ児童養護施設に入ることもできたのに、と言われたことさえある。
そしてみんな言うんだ。「仕方ない」「我慢してくれ」「君よりももっと大変な子はいくらでもいる」
その言葉を言われるたびに私は「そうですね、仕方ないですね」そう言ってへらりと笑った。そして次第に期待することをやめるのだ。期待したって仕方がないから。でも本当はこんな状況から逃げ出したかった。――助け出してほしかった。
「そうだ、児童養護施設」
「じどう……なんだって?」
「児童養護施設……えっと、孤児院とかそういうのってないんですか?」
「孤児院? そんなもの作って何になる」
「何って……」
「そうだろう。あいつらを国が保護してどうなる。働く事もない、ただ増えていくだけのやつらを助けて国にどういう得があるんだ」
クリス様の言うこともわかる。でも、やっぱりその考えは間違っている。国のトップに立とうとしている人ならなおさらだ。
「今はたしかに何の役にも立たないかもしれません」
「だろう」
「でも、それは今の話です。例えばあの子達が無事に大人になったとして、そのとき十分な教育も住む場所もなければどうなります? 犯罪に手を染める子がいるかもしれない、そうじゃなくても孤独でさもしい生活をすることになるかもしれない。でも、住む場所を与え、知識をつけ、そして生きるすべを学べば、彼らはこの国にとって納税者となります。それはいつかこの国の王となるクリス様にとっても悪いことではないはずです」
感情的になってないとは言えない。自分がしてほしかったことをクリス様に押しつけているだけだという自覚もある。それでも、あの子達を少しでも光の下で生活させてあげたかった。希望を、未来を見いださせてあげたかった。
「この国は今、平和だと聞きました。どこかの国との戦いもなく、モンスターが出たとしても騎士団が討伐できる程度のものだけ。でも、本当にそうでしょうか?」
「どういうことだ」
「本当にこの国が平和なら、どうして孤児がいるんでしょうか。どうしてあんなところで子どもだけで生活しているんでしょうか」
「…………」
「私にできることはそう多くありません。さっきみたいにアーシャの顔を拭うことしかできない」
それも意味のないことだったけれど。
「今着ている服も全て貸し与えられているものです。そんな私にはあの子達に何一つ分け与えることもできない。でも、クリス様なら違うでしょう? その力がある。そしてあなたの立場ならあの子達の未来を変えていける」
「……生意気な女だ」
「あっ」
クリス様は吐き捨てるようにそう言うと、私に背を向けた。それは明確な拒絶だった。
やはり夢物語なのだろうか。そもそも私が誰かを変えようとすること自体がおこがましかったのかもしれない。だって私はあの場所から逃げ出した。一度は確実にアーシャ達から目をそらしたんだ。そんな私が誰かの、クリス様の気持ちを変えるなんて無理だったんだ。
「気分が悪い。帰るぞ」
「っ……」
歩き始めたクリス様の後ろを、私はトボトボと歩くことしかできなかった。
帰りは違う道を通ったからか、アーシャ達が住む貧困街をもう一度目にすることはなかった。それに少しだけホッとしたような、目を背けることへのばつの悪さを感じるような、そんな帰り道を私は無言で歩き続けた。
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