追いかけっこ・前

「何故だ……何故私がこんな目に……」


 人里から遠く離れた荒れ地に忽然と広がる、不気味な漆黒の木々に包まれた『帰らずの森』。ここに放逐される事は事実上のコンチネンタル聖王国からの追放や死刑に等しいというこの場所を、白髪交じりの1人の男が苦虫を潰すような顔をしながら彷徨い続けていた。彼――ヨーク・バルートは、聖王国の国教であるエクス教内部で勃発した地位をめぐる争いに敗れ、宗教幹部と言う甘い汁を吸い続けられる立場から蹴落とされた挙句、この無限に続く漆黒の牢獄へと追放されたのである。


 当然、最初は苛立ち紛れにこの場所から逃げ出そうとしたが、『帰らずの森』の周りに広がるのは果てしなく続く荒野。当然、そこにはヨーク以外誰もおらず、大声を挙げても帰ってくるのは吹きすさむ風の音だけであった。最早逃げ出すことができない事を嫌というほど痛感した彼は、かつてここに追放された多くの罪人と同様、漆黒の森の中へ足を踏み入れた。事実上の死刑執行ともいえる状態でも懸命に生き続ける事で、自信を追放した連中を見返してやる、という歪んだ覚悟を決めながら。


「……くそっ……くそっ……!」


 しかし、それはどこへ向かえばよいのかすら分からないあてのない旅であった。どれだけ歩き続けても不思議と腹は減らず、喉も渇かないヨークであったが、それでも彼は肉体的に、精神的に苛まれ続けていた。当然だろう、行けども行けども周りに広がるのは無機質かつ異様な木々ばかりで、目印になりそうな草木は1本も生えていない。しかもあちこちに木々には棘のように鋭い枝が生い茂っており、宗教幹部時代にぶくぶくと肥え太った彼の体を次々に突き刺しては傷を与え続ける。全身を包む痛みから、何度も彼は足を止めかけたのだが、その度に彼の耳には恐ろしい声が響き渡った。


「……ひ、ひいっ……ま、まただぁぁぁ!!」


 『帰らずの森』に潜むという、声はすれども姿は見せない恐るべき猛獣。どこへ逃げようとも追いかけ続け、弱りきったところに襲い掛かり、その身を食い散らかしてしまう――今まで何度も自身の部下やエクス教の信者に語り続けた逸話が、自身に降りかかってくるとは、ヨーク自身も思ってもみなかった。またも聞こえる唸り声から感じる耐え難い恐怖に怯え、森の中を懸命に走り続けたヨークは、地面に伸びていた漆黒の木の根っこの存在に全く気付けなかった。

 盛大に転び、手足に擦り傷を負った彼の目は、既に大粒の涙に溢れていた。何故自分はここまで落ちぶれてしまったのか、何故ここまで追い詰められなければならなかったのか、自問自答する彼の怒りの対象は、自信を追放した憎き連中たちだった。今もなお王都の大神殿でのうのうと暮らし続けているであろう大神官、彼の味方であったはずなのに、罪を着せられた途端に態度を翻し彼を裁く立場になった神官たち。彼らがのさばるせいでエクス教は腐りに腐りきっている。自分こそがエクス教を本来の姿――女神エクスティアを崇め、人々から信頼を集める正しい形へ変える事ができるはず。それなのに、あの連中はこの偉大な自分を追放した。このヨーク・バルートこそが世界を正しい方向へと導けるのに――。


「……畜生!!!畜生!!!!」



 ――だが、幾ら絶叫してもヨークの耳に聞こえるのは森の中に響く自分の声で、彼に対する慰めや励ましの声はどこからも返ってこなかった。自分自身の立場を改めて実感し、絶望した顔を見せながら再度立ち上がったその時だった。ヨークの耳に、森に鳴り響く自分の声とも、あの姿を見せない猛獣たちの声とも異なる音が聞こえ始めたのは。気のせいかと思った彼であったが、すぐにそれは幻聴でも聞き間違いでもなく、確かに自分に向けて響く音である事が明らかになった。そして、その音がする方向を向いたヨークは驚愕の顔を見せた。


「……な……な……なっ……!?」


 当然だろう、漆黒の森の中で笑顔で彼を手招きするその姿は、見紛う事なきセイラ・アウス・シュテルベン――ずっと昔にこの『帰らずの森』へと追放処分した、前の大神官の忘れ形見とも言える純白のビキニアーマーの美女そのものだったのだから。そう、半年以上も前に、ヨークは現在の大神官たるフォートらと共謀し、彼女に様々な罪を着せ、聖女を決める儀式にも細工を施したうえで彼女を徹底的に罪人へと陥れ、コンチネンタル聖王国から追放した張本人の1人なのである。

 普通なら、この食べ物も飲み物も存在しない場所に放逐された罪人は半年どころか1ヶ月も生きていられないはずであった。だが、ヨークの視界に映るのは、笑顔でこちらを見つめ、純白のビキニアーマーから豊かな胸の谷間を覗かせながら手招きをする彼女の姿であった。一体どうなっているのか、何かの罠ではないのか、と最初は警戒心を抱いた彼であったが、優しい声を響かせるセイラの姿を見ているうち、1つの希望が湧き始めた。もしかしたら、彼女は同じ境遇に陥ったヨーク・バルートを助けるため、そちらに呼んでいるのかもしれない、と。


「……はは……そうか……そうだよな……流石だぞ、セイラ!」


「……うふふ……こっちですよ……♪」


 そんな彼の儚い願望に応えるかのように、『セイラ』ははっきりと言葉を述べた。

 間違いなくあの場所に元・聖女候補たる美女が存在することを確信したヨークは立ち上がり、その方向へと走り出した。聖女だった経験がある彼女なら、自分のような困っている人を見過ごすはずはない、と言う都合の良い期待を心に抱きながら、彼は息を切らし、ぶよぶよに肥え太った腹を揺らしながら懸命に前へと進んだ。そして、彼女が笑顔で手招きする木へあと一歩という所で――。


「……!!」


 ――ヨークは再び盛大に転んだ。彼の脚の傍には、その身を躓かせた漆黒の樹木の根が生えていた。体に走る痛みに悶えながらも何とか木に近づいた彼であったが、そこにセイラ・アウス・シュテルベンの姿はなかった。まるで最初からいなかったかのように、そこには空虚な静寂のみが存在したのである。

 やはり幻影だったのか、と言う考えが頭をよぎった彼であったが、すぐさま首を大きく振ってそれを否定した。彼の耳は間違いなくセイラの声を聞き届けていたし、彼の眼に映ったのは見紛う事なき純白のビキニアーマーを纏う美女の姿のはずだった。それならば一体彼女はどこへ行ったのか。怒りと焦り交じりの声で、ヨークは名前を叫んだ。


「セイラ、どこにいる!!今すぐ出てこい!!」

 

 その瞬間、再び彼の耳に、聞きなれた甘く美しい女性の声が聞こえてきた。その内容は先程と同様に、ヨークを優しく誘う声だった。そして彼の背後に聳える樹木の背後から、彼を見つめるビキニアーマーの美女の姿がはっきりと見えた。自分の目の前から突如として消えた女性が何故この短時間で背後に移動したのか、そのような疑問など今のヨークに考える余裕はなかった。微笑み交じりのその声が、彼には無様な姿をさらした自分自身を嘲り笑うように感じたのである。


「セイラ、貴様私をおちょくってるのか!!」

「うふふ……♪」


 だが、喉が枯れそうなほどの声量で怒鳴っても、セイラは一切動じることなく笑顔で彼を続けていた。早くこちらへ来てください、とその身をくねらせ、ビキニアーマーから覗く豊かに実った胸を肥え太った男にたっぷりと見せつけていた。そんな美女の誘惑に対して贅沢三昧を続け欲望を次々に増幅させていたヨークが抗えるはずもなく、だらしなく開いた口からよだれを垂らしながらじわじわとそちらへ向かい始めた。美しい花へ誘われる虫のごとく、彼の足は自然とセイラの元へ歩みだし、彼の指はまるでセイラの胸を揉みしだくかのように動いた。そしてその視線は、一直線にビキニアーマーから覗く裸体へと向けられていた。


「セイラ……セイラ……そうかそうか……」


 やがて、彼の顔は怒りから歪んだ笑みへと変わっていった。そんなに自分を誘いたいのか、ならば罪を許そう、一緒にここから脱出しよう――うわ言のように言葉を続けるヨークであったが、彼の性欲に満ちた腕がそのビキニアーマーだけを纏う美女に届くことはなかった。彼女の姿が木の陰に隠れた瞬間、ヨークは盛大に尻もちをついてしまったからである。彼の目の前には、先程まで存在しなかったはずの巨大な木の枝が生えていた。まるで進路を塞ぐかのように突然現れた枝に、彼は再度その身を地面に叩きつけられてしまったのだ。

 だが、その痛みが色気に惑わされかけた彼を正気に戻し、その顔を怒りと悔しさが滲む表情へと変えた。


「セイラ……貴様ぁぁぁぁ!!」

「うふふ……呼びましたか?」


 その瞬間、またも彼の傍からセイラの声が聞こえてきた。今度は迷うことなく、ヨークはその方向へと駆け出した。全身が傷だらけになり、肥え太った体の重みやだるさが全身に行き届いても、彼は憤怒を原動力に動き続けた。その豊かに実った胸を見せつけるようなポーズに対しても、性欲以上に怒りの感情が滲み出ていた。今度こそ彼女をとっちめ、自分の好きなように弄んでやる、この新たな大神官になるべき男を侮辱した罰は重いぞ――そのようなことを考え、言葉に出しながら彼は三度セイラの方向へと歩みを進めた。しかし、今回も結果は同じだった。セイラの体にあと一歩まで及んだ所で、彼の体は宙を舞い、地面に叩きつけられたのである。


「ぐっ……くっ……!!」

 

 そして、そんな彼をあざ笑うかのように背後からまたもセイラの声が聞こえてくる――。


「……んがああああああ!!!!!」


 ――彼の怒りの罵声は、漆黒の森の中へと響いた。そして、彼は一切の警戒心を放棄し、絶え間なく聞こえ続けるセイラの笑い声の方向へと駆け出して行った。その目には全身に走る痛みに加えて自信を弄び続ける元・聖女候補への怒りが満ち溢れていた。絶対に許さぬ、その身を引き裂いても足りないほどだ、など様々な憎悪に支配され続けていた彼は、自分が同じ場所をぐるぐると回り続けている事など気づける訳はなかった。セイラの声が、1箇所だけではなく彼の前後左右、あちこちから聞こえるようになった事にも。


「うがあああああセイラあああああ!!!」


 口を開いて歯を剥き出しにし、ぶよぶよした体を揺れ動かしながら、ヨークは必死に走り続けた。あちこちに聞こえる美しい声を頼りに、まるで獲物を求めるかのように走る彼は、最早森に潜むのようであった。いや、猛獣ですら獲物を待ち伏せしじわじわと追いつめる判断能力を持つ。今のヨークは、それにも劣る状態だった。ただセイラ・アウス・シュテルベンを憎悪の感情で追い求めるだけの存在になり果てようとしていたのだ。

 だが、幸か不幸か、セイラの声だけを頼りにしていた彼は、目の前に巨大な漆黒の樹木が生えている事にすら気づけない状況だった。鼻が潰れそうな勢いでその太い幹に激突した彼は、その場に卒倒した。肥え太った体のお陰か致命傷にはならなかったものの、今まで以上の痛みが全身に走り、怒りだけで走り回る間に思考判断すら失われようとしていたヨークを正気に戻したのである。囚人用の服がボロボロに破れ、あちこちから血が滲み出る自分自身の惨めな状況を目の当たりにした彼は、全身にどっと襲い掛かる疲れも合わさって走る気力すらなくなり、その場に座り込んでしまった。


 だが、息を切らしながらその場に座り込む彼の耳に、あの美しく可愛らしく、そして憎々しい微笑み声が聞こえ始めた。しかも、今までよりもで、から。耳を塞いでも入ってくるその声をかき消すかのように、ヨークは喉が張り裂けそうな勢いで絶叫した。


「セイラぁぁぁぁぁ!!いい加減出ておぉぉぉぉぉいい!!」


 彼に戻ってきたのは、いかにも楽しそうな幾つもの返事だった。


「「「「「「「「「「はーい♪」」」」」」」」」」」」

「……!?」


 そしてようやく、ヨークは自分の周りの異変に気が付いた。セイラ・アウス・シュテルベンの声が、いくつもの方向から同時に聞こえてくるあり得ない現象が起きている事に。だが、その事実を知ったのはあまりにも遅すぎた。一斉に聞こえてくる足音は、まるで彼から逃げ場を失わせるようにどんどん大きくなっていたのだ。そして、座りこんだまま動けない彼の瞳は、信じがたい光景を映し出した。

 

 長く伸びた美しい髪、端正な顔付き、程よく整ったスタイル抜群の体、豊かに実った胸、そして全身を申し訳程度に包み込む純白のビキニアーマー。それが、ヨーク・バルートの周りを取り囲む全ての存在に当てはまる特徴だった。


「「「「「「「「「「「うふふ、ヨーク様♪」」」」」」」」」」」

「……あ……あ……あ……」


 彼の周りで笑顔を見せていたのは、何十人にも増殖したセイラ・アウス・シュテルベン――彼がこの『帰らずの森』へと追放した元・聖女候補そのものだったのである!

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