✯4 たかがくだらんプラスチック人形のせいで


 衛幸えみゆさんと夜祥よすがちゃんは、改めてふたりが親子であると聞かされてもなお感心できるくらいによく似ていた。

 目鼻立ちといい、雰囲気といい。ふたりとも考えていることが顔に出ないし、感情は必ず婉曲的えんきょくてきにしか言動へとつながらない。


 常に涼しげにのんびりと構えている衛幸さん。

 冷めてぼんやりしているかのような夜祥ちゃん。

 ふたりの違いはかもし出している芳香ほうこうの温度差と、あとは髪の色と身長くらい。


「人に甘えるってことを知らないのさ」


 本屋の二階の喫茶店に入り、注文を取ってもらってしばらくしてから衛幸さんが出し抜けにそういった。


「甘え方を知らないっつーよりか、甘えるとか頼るっていう発想自体がそもそもないのかね、このミニすけには。なんでも自分でやりたがる。だけじゃなくて、自分でやれそうにないことはしっかり見極めてきっぱり諦めやがる。したたかすぎるんだよ、末怖ろしいことにな」

「はあ」


 感想も疑問もことばにしてよさそうなものがとっさに思いつかず、僕には彼女と面と向かって曖昧なあいづちを打つしかなかった。

 身内自慢の聞き役ならいつもどこかの銀なんとか様のお相手をさせられるおかげで慣れているつもりだったが、はたしてこれは身内自慢なのだろうか。


 話題にあげられている当人は、僕のとなりで運ばれてきたばかりのホワイトココアの分厚い湯気を吐息でほぐす作業に明け暮れている。なぜ衛幸さんのとなりでなく僕のとなりに座ったのかが不審に思われてならない。

 とりあえず僕の方がボックス席の窓側なので、ドリンクバーを訪ねる際はこの二桁近く年下のマドモアゼルに道を譲ってもらわねばならないらしい。『抹茶ミルクのおかわりが欲しいので、ちょっとどいてくれないかい、お嬢ちゃん?』いささかやるせない。


 まさか、そういう心理で僕がテーブルから離れられないようにする作戦か。いくらなんでもしたたかすぎるんじゃないか? 親子そろって。


「いいかい?」


 僕が夜祥ちゃんの手元をじろじろ見ているうちに、衛幸さんは口に綿棒くらい細い芯をくわえて、片手にライターを握っていた。

 僕が答えるより先にオレンジ色の火がともる。

 テーブルの上に出されていたのは、コンビニなんかでは見たことない気がするやたらと細身のパッケージで、表にふさふさの恐竜みたいな鳥の絵が載っていた。


「……そういう話、本人の前でするのはどうなんですか?」


 僕のスコーンはまだ運ばれてこない。

 とりあえず、差し迫った疑問を口にしてみた。あまり意味がないとはわかっていたが、衛幸さんが今くわえた煙草をい切るまでひとことも発さないとしてもおかしくはない気がした。


「最近の小学校教師は温厚らしい」最初の煙を吐いた衛幸さんが、フィルターを口から離したままつぶやく。


「……なんの話です?」

「おれがおまえの立場で、夜祥のクラスの担任だとしたら殴りかかってるって話だ」

「ああ」


 よくわからない自虐だ。

 殴るほどのことではないんじゃないかとも思う。

 それに今の僕は、三者面談をする教師みたいな位置に置かれているのだろうか。しかし夜祥ちゃんがとなりにいるおかげで、配置としては〝親〟にいるような感じもする。

 いや? でも三者面談って、親子が同伴で会場に入っていって教師の前に座るって構図がそんなに当たり前だったかな。

 子供と教師が並んで親を待ち構えるって構図も全然珍しくない気がしてきた。というかまずなにより、〝子〟の位置は絶対に夜祥ちゃんだろうか?


「今日びの日本じゃあなたほど凶暴だと小学校教師にも高校教師にもまずなれませんよ」

「ひな坊、そいつは違う。間違ってるぜ、ひな坊」

「二回……」

「そもそもおれは教師にならない。向かないと知ってる」

「あなたみたいに凶暴な警察官もどうかと思いますよ僕は」

「警官より向いてなかったってことでもねえのさ。才能ってのはよく競合するもんだろ?」

「何なら向いてたっていうんですか?」

「聖職者」

「夜祥ちゃん、抹茶ミルクのおかわりが欲しいので、ちょっとどいてくれませんか?」

「人の親だよ」


 マグカップを持ちあげそこなった。

 取っ手に指をかけただけの僕の手に、吐かれたての紫煙がまとわりつく。


 衛幸さんは、芝居がかってはいたが堂々とした口調と表情でいってのけた。


「親になる才能がある人間は、教師にゃ向かねえ。銀霞からいつも聞かされてんだろ? 姉貴は母親のカガミだって」

「……」


 僕はこの女性になにかしただろうか?


 彼女と会話らしい会話をするのは、たぶんこれが三度目か四度目になる。

 女性がいい歳をして自分のことを『おれ』と呼ぶことや、口調のせいで最初からガラの悪い印象はあったし、実際彼女にはひやかしといえる程度に人をからかって喜ぶ趣味もいくらかあった。けど、それでも積極的に絶えずそういうことをしたがるタイプというわけではなかったし、好きだからといって盲目的に執着を見せたり、だれかにこだわりを押しつけたりすることのない、表の要素から取れるよりもはるかに自律と思慮しりょに富んだ女性だと僕は思っていた。


 にぎやかな雰囲気にもなじむけれど、どちらかといえば悠然として静かな人――そんなイメージ。


 数回話したことがある以外は、妹の友人という程度の接点しかない高校生を、ほとんど強制的に連れまわす暴挙に出た時点ですでにそれはくつがえされたようなものだったけれど、ここへきて新たに発された〝ジョーク〟は、輪をかけてタチが悪かった。


 愛嬌のあるあく趣味の範疇はんちゅうからは著しく逸脱し、倫理観から疑わせるほどの悪態あくたい

 冗談で済まない冗談がどれかわからない人ではない。あえてなのだとしたら、あけすけな挑発か。


 僕は自分の席に座り直して深く溜め息をついた。

 向かいでは衛幸さんがわざとらしいとぼけ顔で煙草をふかしている。今の彼女の方が、なるほど、あの妹にしてこの姉か、という感想にしっくりくるようだ。僕の中にあるあいつへの評価も、相当悪いらしい。


「で、僕はなにを話せばいいんです?」

「ふぅん。たまげたね」


 全然たまげてない顔で、目を伏せたまま衛幸さんはいった。


「おまえくらい察しがよけりゃ、つかみかかってくると思ってたんだが」

「頭の中でそうしましたとも。そのあと床を舐めた味も想像する羽目になりましたし。いいですか? いい大人なら、ただおちょくるためだけに前途あるいたいけな聖職志望者を捕獲したあげくに、いともたやすく性悪説せいあくせつ論者に転向させるヘマをわざとやらかしたりなんかしないわけです。なにがおもしろくてまわりくどい手を使っているのかわかりませんが、いいかげん本題に入ってはいかがです?」


 らしくもない――と最後つぶやくように付け加えると、ようやく衛幸さんは反応を見せた。心なしか意外そうにこちらに目を向け、それからすぐに口角を持ちあげる。

 なにがお気に召したのか、あるいはしゃくに障ったのか知らないが、どちらにせよ気が大きくなったらしく、まだ半分も吸っていない煙草を灰皿に置いて手離した。


「じゃあ訊いてやんよ。ぎんとはどこまで行ったんだ?」

「……は?」

「は、じゃねえよ。うちの妹君いもうとぎみとの関係はどこまで進んだのかって訊いてんだ。まだ外泊させてくれーって一度もあいつからはいってこねえけど、学生の身分で朝焼けコーヒーなんてゼータクなところまで行かなくたってヤるこたぁヤれんだろ、ところかまわず、ホレ、更衣室とか、懺悔ざんげ室とか」

「いやっ、待ってください、いろいろ待ってください、明らかに僕の実家の事情をふまえた度しがたい侮辱をついでに受けている気がしますけどひとまずそれは置いておきますからまず先に――いやアンタいきなりなにいいだすんだ? ばかか!?」


 思わず地が出てしまった。衛幸さんにシシと音を立てて笑われる。


 僕は眉間を指で強く揉むように押さえた。


「……どうして、ここであいつの話が出てくるんです?」

「そりゃあおまえがさっさと本題に入れっつったからだろ」

「まったく意味がわからないんですけど。だいいち、子どものいる前でなんて話を……」


 いいながらとなりの夜祥ちゃんの様子を盗み見たところで、固まった。


 夜祥ちゃんは、いつの間にか自前のらしきスマートフォンを取り出して、その画面をなにやら熱心に眺めていた。


 小さな両手に左右からはさみ込まれたその液晶に、のぞき見防止のフィルターはついていない。

 そこには黒い背景に白抜きで、斜めから見てもはっきりわかるほど大きくシンプルな文字列が表示されている。寝ても覚めてもその表示だけだ。夜祥ちゃんはさながらその表示が消えないことを確かめ続ける番人のようだった。


 僕は無言で見張り番の手からスマホを奪取した。上からつまんで造作もなく奪取に成功した。


 《録音ちゅ❤》と表示されている液晶を電源ごとオフにして漆黒に染めあげ、目の前の保護者に提出しておく。


「帰っていいですか?」

「残念ながらスコーンを頼んだ時点でおまえの負けだよ、ひな坊。この店は作り置きしてねえんだ。焼きあがるまでにあと十分はかかる」

「いや、いいですし。おふたりにごちそうしますし。親子水入らずでなかよく分け合って食べればいいですし。僕は今度ひとりで来てひとりで食べて主のいつくしみと育ててくれた両親に感謝しますから、ではさようなら」


 こうなったらテーブルの下を這うかソファをうしろへ乗り越えてでも脱出してみせようとしたところで、となりから夜祥ちゃんが寄りかかってきた。

 いったん動けなくはなったがこのぐらいなら想定していなかったわけではない。

 すがりつかれたからといって無理に振りほどくことは考えず、抱きあげていっしょに通路へ出てしまえばいい。なんとなくだが手足を振ってじたばた暴れる夜祥ちゃんというのは想像できなかった。

 体も小さくて軽いだろうから優しく扱えば問題ない。女児、恐るるに足らず。


 眠ってさえいなければ。


「!?」


 僕は重大な勘違いをしていた。夜祥ちゃんが僕の退席を阻むべくしがみついてきたものだとばかり思っていた。

 それにしては頭で僕の二の腕にもたれかかってくる程度でしかなかった上に、袖をつかんでいるのも片手だけだったことに、夜祥ちゃんを見おろすまで気がつかなかった。


 眠っている。


 すやすやと、おねんねをしている。


 いや――あり得ない。つい二十秒ほど前までみみ年増どしま(?)に興じてスマホの画面に熱中していた幼女が、いかに寝つきがいいからといって、いたずらを封殺された失意もそこそこにうとうと眠りについただなんて茶番もいいところ。

 間違いなくたぬき寝入りだ。


 そんな演技にだまされはしない。騙されはしないが、しかし、それがどれほどのことだというのだろう。


 僕に触れている小さな頭、小さな手。

 厚い衣服にくるまれた薄く華奢な胸と肩と腰と、そこから力なく投げ出された細く短い二本の足と。


 しっとりと閉じたまぶたの下は細いまつ毛でふんだんに彩られ、桜色の頬は月よりも美しい輪郭を描いてやまず、わずかに開いた唇は呼吸の有無すら不安になるくらいに儚げだ。


 それらすべてがまさに〝神聖〟だった。僕の目にはあまりに神聖すぎたのだ。

 目の前のその存在、その現象を壊してしまうこと、乱してしまうことがなにものにも勝って恐怖すべき冒涜ぼうとくに思えてしまった。すでに触れていることさえ罪深く感じられる。


 かつてホームステイとして訪れていたオーストリアのとある教会を思い出した。そこに飾られていた聖母の像を見たときと同じだ。


 僕は指一本触れてはならない。触れられている肩を微動だにさせてはいけない。

 そうしていないときっと砕けてしまう。僕が。僕の魂が、再起不能の危機に直面し恐怖している!


 信仰の先に自壊があるなどと、僕はまだ実感を持ったことがなかった。

 ましてやさらにその先など想像したことすらない。

 いったいそこになにがあるというのか。


 問うより先に危うくその答えを知ってしまいかける苦難から僕を救い出してくれたのは、この聖女の母親だった――。




つづく

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