第二十話 私の大事な人
今日来る予定のなかった母が、仁王立ちで私たちを見ていた。ずんずんその仁王は近づいてくる。
やばい、逃げなきゃ。私はすばやくアルの腕の中から靴下のまま降りて、バックをひろう。逃げようと促したのに、なぜか彼は動かない。
もう、母は私たちの行く手を阻むように立ちふさがった。万事休す……。
「この人誰? 部屋から勝手に出てどこにいくつもり」
母の剣幕に恐れをなし何も答える事ができない。そんな固まっている私と、屋敷につれもどそうと腕を伸ばす母の間にアルが割って入った。
「僕は、アルフォンソ・デ・トーレスというものです。土田さんの町家の一室を間借りしている建築家です」
「一色さんが言っていた、雪深のまわりをうろついてる外国人ってあなたなの?」
変な外国人情報は、もうとっくにばれてたのか。
「そんな犬みたいにうろついてないですよ。お付き合いしているだけです」
そんな母を逆上させること今言う必要あります? それも自信たっぷり、熟女もイチコロみたいな笑顔で。
ちらり。母を見るとやはりというかアルの笑顔攻撃が全く通用していなかった。それどころか顔色が……やばい。
「お付き合いなんて私は聞いてないわ。それにあなた不法侵入でしょう。今すぐここから出て行きない」
「この土地には、正当な理由で訪れています」
何を言うつもり? 私を連れ戻すためとか言ったら、一発退場だよ!
「雪深さんにお借りしたハンカチを返すためです」
そう言って作業ズボン――これはいてることがそもそも怪しいけど――から、ハンカチを取り出した。それは、お見舞いのビニール袋の下敷きにしたハンカチだった。
「じゃあ、それを返したらさっさと出て行ってちょうだい」
律儀に差し出されたハンカチを、私は母を見ながら受け取った。
「もちろんです。雪深さんといっしょに京都に帰ります」
今度は、アルを見ながらハンカチをデニムのポケットに突っ込む。
「雪深を連れていくなんて、何を言ってるの。この子は大学をやめて一色さんと結婚するのよ。もう京都に帰る理由はないわ」
「でも、雪深さんは帰りたいと言っているのです。本人の意思を無視し屋内から出さないという事は、監禁になりますよ」
大きなのっぽの古時計の振り子のように、私の顔は右に左へチクタクチクタク。
「雪深この変な外国人とお付き合いなんてゆるさないわよ。こんなストーカーみたいな男」
うっ。ちょっと前ならば否定できなかったな……。
「彼女は成人している。異性と付き合うのに親の許可は必要ないと思いますが。もちろん、強制的に結婚させる権利もありません」
だから、火に油を注ぐようなこと言うな! もうのっぽの古時計みたいに突っ立っているわけにはいかない。はっきり私の意思を伝えないと。
「お母さん、この人は私の大事な人です。だから一色さんとは結婚したくない。今まではっきり言わなかった私が悪かった。ごめんなさい」
「雪深があやまる必要ない。こんな監禁まがいなことをする親に」
だから、あなたが口はさむとややこしくなるんだってば。だまってろ。
「アル、こんなお母さんでも私のお母さんだから。お母さんがすることは私のためを思ってしてくれてること」
靴下の足裏にチクチクと枯れた芝生が突き刺さる。私は真っすぐ立ち、母を正面から見据える。
「でも、もう大丈夫だから。自分のことは自分で決められる。私は私の意思でこの家を出て行きます」
もう、お母さんに守ってもらわないといけない私じゃない。狐つきって言われて、おばあちゃまに叩かれてた子供じゃないよ、お母さん。
「そんなことゆるさないわ。親のすねをかじっている学生のくせに。あなた一人では何にもできないのよ」
うん、心配だったんだよね私の事。前世の記憶を封印してから、私はぼんやりした子になっちゃった。何時も何かを探してる、探し物が見つからなくて不安でおどおどしている子供だった。
そんな私をみかねて、お母さんが失敗しないように正解を用意してくれた。
でも、もう大丈夫。探してたものは見つけたから。
「うん、だからこれからいろいろ失敗して一人でできることを増やしていくよ。それと、もう学費も生活費もいらないから」
「そんな大学をやめるの?」
自分で大学をやめろって言ったのに、私がやめると言うと反対するなんて矛盾してるよ。しょうがないか、私は今まで自分の意志で何かを決めたことなかったんだから。
京都の大学を受けたいと言ったけど、大学を決めたのはお母さんだったし。おじいちゃんの家から一番近いと言う理由。そして人様に言っても恥ずかしくない大学。
志望校を決めた時点で、私の学力では難しい大学だった。でも、京都に住みたくて……ううん、お母さんから逃げたくて必死にがんばったら、受かったんだから感謝しないとね。
「やめないよ。お金はいらないって言ってるの。今まで仕送りしてもらった残金で残りの学費はまかなえる。生活費はバイトする。だから私のしたいようにする」
暇を持て余している間。私は自分の通帳残高と残り二年間の学費の計算をしていた。母の干渉から完全に逃れ、京都に住み続けるには経済的自立しかない。
仕送りのお金も親のお金だけど、私名義の通帳に入ってるんだから、そこは自分のお金と考えることにした。
これが私の出した脱出計画の最終形態だった。
捨てゼリフをはいた私は、母に背を向けた。
「おばあちゃまが、寂しがるわよ。せっかくあなたになついてたのに」
私の背中に、捨て身の一矢を母は打ち込んできた。
「私のことなんてすぐ忘れるよ。おばあちゃまにとってこの家の中がすべてなんだから」
さようなら、おばあちゃま。あのストール見たら思い出すかな。いやもう誰にもらったか思い出せないね。
母はそれ以上、何も言わず踵を返し屋敷に入っていく。その気配を背中で感じると、体中に入っていた力が抜けていった。よろけそうになり、アルの手をとった。
その手は強く握り返され、退場門である屋敷の裏門へエスコートされる。
歩きながら、アルは私の隣で盛大なため息をついた。
「つい怒りにまかせ、お母さんにひどいことを言ってしまった。もうすぐ僕のお母さんになる人なのに」
何言ってんだこの人。さっきの話ちゃんと聞いてた? というかすっごい笑顔でしゃべってたけど、怒ってたわけね。今後のために、覚えておこう。
「結婚なんてしないよ。私まだ二十一だし」
さも驚いたというように、アルは言う。
「えっ、しないの? 僕と結婚するから学費と生活費はいらないって話なのかと」
「誰もそんなこと言ってません」
「僕は早く結婚したいんだけど、もう二十七だし」
「それ、アルの都合だから」
ぴしゃりという私に、恨めし気な流し目をよこす。
「本当に仕送りだけで、学費ためたの?」
「うん、ほとんど使わなかったし」
「なるほど、だから四千八百円の指輪をあんなに悩んでたのか。そうかと思えば十万のスイートに泊まるし。雪深ってなぞな経済観念してるね」
「なにそれ悪口?」
「いや、一つの推測として……」
ここまで言って、こわごわ私の顔を見る。
「勘十郎じゃないよね。今しゃべってるの?」
「違うよ。でも、勘十郎のこと思い出したら、なんか性格も似てきたみたい」
「そういうの、ほんと勘弁して」
ブーたれて頬を膨らませたアルに、私は再びお姫様だっこされた。裏門近くに止めてあったポルシェに、そのまま荷物といっしょに詰め込まれたのだった。
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