第十八話 植木屋さん
居間の時計の音がやけに耳につく。祖父が建てたこの屋敷。築五十年はとうに過ぎている。古く重厚な空気が支配している空間。私には息苦しいばかり。
「もう奥様はすべてお忘れです。どうか許してあげてください」
許すも何も、私もすべてを忘れてたんだから。叩かれた恐怖の中で、目覚めていた前世の記憶を封印したんだろうか。
私はハッとあることに気づく。いつも助けを求めると、誰かと入れ替わっている感覚。
アルも、あの時言っていた。出てくるなと。
私が困った時に助けてくれてたのは勘十郎なの?
勘十郎が前世の記憶を抱いて、心の奥深くにもぐってくれたから、私はすべてを忘れて安穏と暮らせたの?
「奥様は今、ご自分の人生で一番幸せだった時代に戻られとるのです。弾正家の一人娘としてお生まれになって、婿養子をとられてもその重責を背負ってこられた。今のままの暮らしを守ってあげてください。どうかそっとしておいてください」
張り詰めた多江さんの切々とした声に、
ふすまをそっと開け、仏壇の前に座る祖母の小さな背中をみつめる。その縮んだ背中を見下ろすように、鴨居にはご先祖様の遺影が並んでいた。
鈴の音が途切れ、部屋に入らず祖母に声をかけた。
「おばあちゃま、むかしここで私のこと叩いたの覚えてる?」
横で聞いていた多江さんは、はっとして私の顔を見る。祖母は声に反応してゆっくり振り返った。
「ゆきみちゃん、何言っとるの?」
きょとんと、少女の顔をして小首をかしげる。
何を言ってもとどかない。とどいたところでどうしようもない。もうおばあちゃまは、おばあちゃまであって違う人間なのだ。
多江さんにも言われたじゃないか。そっとしておいてほしいと。
「ごめん。変なこと言ったね。雅子ちゃんは小さな女の子だもん。私のこと叩くわけないよね」
ふすまの縁を握る手がふるえ、とめどなく頬に涙がつたいはじめた。
誰の為に泣いているのか。呑気に忘れていた自分への涙では決してない。
ここに置いてけぼりにしていた小さな私に申し訳なくて。嫌な事を全部押し付けたくせに、その存在をきれいさっぱり忘れていた勘十郎への罪悪感が胸に満ち、あふれだす。
今まで助けてくれてたのに、忘れててごめん。
「でもね、私小さい頃すごく怖い思いしたんだよ。全部記憶を手放しちゃうくらい」
こんなこと今さら言ってもしょうがない。それは痛いほどわかっている。でも言わずにはいられなかった。
「ゆきみちゃんを
祖母は泣き崩れる私を、抱きしめながら言った。その手はとてもいたわりにみちていて暖かい。私を叩いた同じ手なのに、その手に縋りつき声をあげて、子供みたいに泣いたのだった。
*
久しぶりにすっきり晴れた冬空の下、生け垣を刈り込む機械がうなり声をあげている。
「植木屋さんの休憩って次は何時?」
私は昨日できたばかりの朱鷺色のショールにアイロンをあてながら、多江さんに聞いた。
「お昼の後は、三時ですわ」
「じゃあ、それまで多江さんたちゆっくりできるね」
ショールは、モチーフを六十五枚つなげて長方形に仕上げた。アイロンをかけ、編地がそろいやっと完成。外の光に透かして見る。うん、きれいに編めた。もうすぐ一時になる。
多江さんがおばあちゃまを仏間へ連れて行った。私もショールを手に持ち後へ続く。初めて仏間に入り手を合わせた。
お参りが終わり振り返ったおばあちゃまに、ショールを渡した。
「これ、使って。糸がコットンだからあんまり温くないけど」
「わあ、かわいい。ありがとう。うれしい」
雅子ちゃんは素直に喜び、ショールに頬づりしている。
「病院に行くの怖かったら、これ持っていったらいいよ」
私の言葉に笑顔で答えそのままショールを持って、お昼寝にむかった。よかった最後に渡せて。私も二階へあがる。
今日は植木屋さんが朝からきている。お座敷の日本庭園の剪定と、屋敷のぐるりの生け垣の刈り込みをしている。人の出入りがあるのでセキュリティーは切られていた。
今日をおいて、この屋敷を逃げ出す日はない。押し入れにしまってあった。ボストンバックを引っ張り出した。もう支度はできている。
このバックを下に投げ落とし、Y字リリアンでつくったロープで二階から逃げ出す。これが私の考えた脱出計画。
時間はありあまるほどあったから、せっせとリリアンでつくったのだ。五メートルの紐を三本編んで三十センチおきに結んで一本のロープにした。
これを、バルコニーの柵に結び付ければオーケイ。
後は、逃げるタイミング。今から十五分たてば、おばあちゃまは完全に眠りにつく。三時のお茶の時間までお手伝いさんは休憩してるだろう。その隙をねらうのだ。
一時十分。脱出まであと五分。カーテンをあけ外の様子を伺う。植木屋さんは、座敷の庭にあつまっているだろう。この部屋がある北側に植木は植わってない。
それなのに、紺色の作業着を着た植木屋さんが歩いている。なんで、こんなとこにいるのよ。早くあっちいって。そう私が願ってもその人はどんどんこちらへやってくる。
バルコニーの下で立ち止まり、ひょいとかぶっていたキャップのひさしをあげた。作業着を着ていてもやけにスタイルのいい植木屋さんは、アルだった。
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