第十七話 那古野城址
どんより曇った冷たい朝、私は久しぶりに外出できた。名古屋城近くの国立病院へいくため。
タクシーに雅子ちゃんと多江さんと乗り込み、車窓からお正月気分のぬけた街の景色をみていた。
左手に名古屋城の天守閣が見えてきた、もう病院はすぐそこ。
「むかし雪深、このお城の前通ったら、ここで生まれたって変なこと言ってたな」
おばあちゃまの口調が幼児ではなくなっている。驚いて多江さんに確認すると、曖昧に笑ってはぐらかされた。
ここで、勘十郎が生まれたの? 小さい私にその記憶があったってこと?
大きな病院というところは、概して待ち時間が長い。好奇の目を気にしつつ待合室で雅子ちゃんに本を読んだり、リリアンで遊んでいた。
「弾正さーん、お入りください」
と呼び出す声に待合室がざわつく。
「あのおばあさん、弾正の奥さんみてゃーだ」
「噂ではボケがきとるらしいわ」
「一緒におるんは、孫きゃーな」
みなぼそぼそと、こちらに聞こえるような声で好き勝手に話し始めた。
本宅から離れたこの病院でも弾正の名は知れ渡っている。
代々続く名家の奥様、息子は大臣を歴任。孫は今をときめく二世議員。そんな方が子供のように無邪気に待合室で遊んでいる。
格好の噂の種だ。おばあちゃまは、いつもこの視線を浴びていたのだろう。だから、病院は怖いと言っていたのか。
多江さんが、すばやくおばあちゃまを診察室へ連れて入った。
私もいたたまれず、すばやくその場を離れ、病院の外へ出た。
なんの目的もないけれど、ただあの待合室のいやな空気から逃れたかった。
それなのに、足が何かに導かれるように勝手に歩いていく。
横断歩道をわたり街路樹が並ぶ遊歩道を右側へ。名古屋城東門からチケットを買って場内に入る。
そこは二の丸と呼ばれる場所だった。
日本庭園の奥には、金のしゃちほこをのせた堂々たる天守が見える。
始めてきた場所のはずなのに、私はここを知っている。
奥へすすんだ庭園の一角、冬枯れの景色の中、青々とした老松の下に、文字の消えかけた石碑が。横の案内板の一文に目が釘付けになった。
――「
違う父上は、もっと早くこの城を手に入れ兄上と私はここで生まれた。今ある天守も石垣もない平城だった那古野城。兄上と弟とすごしたなつかしい屋敷。
この土地の来歴を理解したとたん、頭の中に大量の映像が流れ込んできた。ここで見た私の記憶。この土地に留まっていた私の時間。四五十年の時をへて、私のうちにもどってくる記憶の傍流。
それらを一度に受け入れ、脳内はキャパオーバー。目の前がクラクラする。立っているのもつらい……。
「大丈夫ですか? 気分が悪かったらそこの茶店にいかれたらどうです」
老齢のご婦人が心配そうに声をかけてくれた。私はあわてて礼を言い足早にそこをさった。いや、封印を解かれた過去の亡霊から逃げた。
小さい頃の私も今のように、前世の記憶にゆさぶられていたに違いない。それなのに、どうして忘れてしまったんだろう。
ふらつきながら病院へもどり診察室に向かうと、もうおばあちゃまは検査をおえ待合室にいた。私をみつけた多江さんが安堵の声をもらした。
おばあちゃまがつかつかと私に歩み寄り、両腕をにぎりしめる。その老人らしからぬ力の強さにおののき、少しでも距離をとろうとしたが無理だった。
「どこにいってた。雪深。あれほど外に出るな言っただろう。またみんなに迷惑をかける。本当におみゃーは悪い子だ!」
おばあちゃまの目は私を見ていない。見ているのは小さな私。その剣幕に驚きつつ、冷静な声で答えた。騒いではならない。ここには人の目が、多数私たちをうかがっている。
「ごめんなさい。ちょっと外の空気を吸いたかっただけ」
腕を放さないおばあちゃまを、多江さんがやんわりなだめてくれた。
帰りのタクシーの中でおばあちゃまはつかれて寝てしまった。帰宅して、寝室に寝かせ私は多江さんに向かい合う。
「私そんなにこの街をうろうろして迷子になってたの? ねえ教えて。私何にも覚えてないの」
多江さんはしぶしぶという感じで話し始めた。
*
雪深さんが三歳くりゃーの時です。車に乗っとると、ここに馬で来たことがある。あそこで誰それが死んだ。ここで戦があったというようになったのは。
最初みなさんおはなしと現実がごっちゃになっとるんだろうと笑っとられたんですが、そのうち勝手にお屋敷を抜け出されるようになって。
そのたび、若奥様が探して歩かれました。ある日夜中に雪深さんが、見えんくなったんです。家じゅうのもんで探したんですが見つからず、捜索願を出そうとした時電話がかかってきました。
警察から清州城の正門前で保護したと。若奥様があわてて迎えにいかれて戻って来られた時、奥様は雪深さんに聞かれたんです。何をしにそんなところまでいってたのかと。
そうしたら、あのお城で私は殺されたんだってたどたどしい声で答えられた。その言葉にもうみなさん青くなられて……。
奥様はこの子には狐がついとるで追い出さなあかん、狐はとりつかれたもんの体を叩くと出ていくとおっしゃって、仏間に雪深さんを連れていきお尻を思い切り叩き出したのです。
雪深さんは泣き叫ぶ。若奥様もやめてくれと泣いて止めにひゃーられました。でも奥様は叩き続けて。
弾正家に狐つきはいらんと、それはすごい剣幕で。雪深さんが気を失うまで続けられたのです。
それ以来、若奥様は雪深さんをこのお屋敷につれて来ることはおやめになりました。
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