第八話 りんご

 昨晩見た夢を引きずり、私は、再びアルのマンションの前に立っていた。

 夢の中でたたかれた頬が今でも痛むような気がして、頬に手をやる。その手はだんだんとさがっていく。首、そして胸へ。


 私どうやって殺されたんだろう。首をはねられた? それとも胸? やっぱり痛かったよね。


 昨日おじいちゃんのスマホに彼から連絡があった。明後日には仕事を復帰すると。


 で、おじいちゃんは、私に命じた。りんごをおしつけながら、お見舞いがてらこれ持っていきと。

 市香ちゃんからは、スープジャーに入ったミネストローネ。


 病み上がりには、消化のいいスープ。トマトに含まれるのリコピンが落ちた免疫力をあげて……。

 トマトの効能についてとくとくと説明されたけど、私は上の空だった。


 あさってのクリスマスイブ、賃貸マンションの契約をすることに決めた。不動産屋さんと一色さんにも連絡した。いま彼の顔を見るとその決心が揺らいでしまいそう。そのゆらぎとは別の不穏なものを今感じている。


 あんなに会いたかったのに、今すぐこのドアをあければやっとアルの顔が見られるのに。

 はやる思いでドアノブを握ったはずのその手は、胸中に反して動かなかった。


 勘十郎は、病気の兄上を見舞ったことがある。このドアの前にたち唐突に頭の中にフラッシュバックされた光景。


 二度も謀反を企てそれでも、兄弟の情を捨てきれず、母上に説得され清州城へ馬を走らせた。その馬上からみあげた侵入者を見下ろす城の櫓門。


 その門をくぐり、勘十郎は二度と出てくることは、なかった。


 いやだ、思い出したくない……。


                 *


 アルの部屋のドアが乱暴にたたかれ、雪深を待っていたアルは、あわててドアをあける。


 あの毛糸のバックと紙袋を下げた雪深がうつむいてたっていた。久しぶりにみる雪深の顔をちゃんと見たくて、その顎に手をそえようとしたが、まだインフルエンザの感染リスクはなくなっていない。下がったマスクを鼻の上まできちんと上げ、中へ案内する。


 廊下を進み、開け放たれたドアからリビングに入る。

 下鴨神社の境内にたったマンション。十五畳あるリビングには大きな一枚ガラスがはめ込まれ、冬のおだやかな木漏れ日がおちていた。


「いいとこ住んでんな。さすが信長様」


 声はかわいらしい、雪深のものなのに、そのセリフは皮肉に満ちていた。


「また、勘十郎か。せっかく雪深が見舞いに来てくれたのに」


 がっかりしたアルを振り返り雪深の顔をした勘十郎は、不敵に鼻で笑う。その目は青みをおびていた。


「兄上はお気楽だなあ。俺をどういう状況で殺したか覚えてないのかよ」


 信長は仮病をよそおい、勘十郎を清州城へおびきよせ、そこで弟を殺したのだった。


「……うかつだった」


「浮かれてんじゃねえよ」


 紙袋をうなだれるアルに押し付けて、ソファーに座る。


「これじいさんと市香から。俺りんご食いたいから、むいて」


 対面式キッチンでリクエストに応えるべく、アルは果物ナイフを取り出した。


「最近おまえが出てくることがふえたな」


 熟れた赤いりんごに、ナイフを入れる。爽やかな香りをかぎながら、慣れた手つきで皮をむき始めた。


「俺が出てくるってことは、雪深が助けを求めてるってことだ。それだけ、兄上に心を揺さぶられてるんだよ」


 その言葉にりんごをむく手がとまると、すかさず声が飛んできた。


「デレんな、きもい」


 容赦ないダメ出しをした勘十郎はソファーから立ち上がり、カウンターに手をつきアルを正面からみすえる。


「一つ聞いておく。兄上は雪深をどう思ってる」


 いつものふざけた調子でアルをからかうセリフではない。二重の大きなその目をまっすぐ見て、その真摯な問いに答える。


「最初鴨川デルタで雪深を見た時は目を疑った。女性に転生していたことよりも、そのおどおどした態度に。あのわがままで気性の荒い勘十郎の面影が全くなかった」


「魂はいっしょでも、人間は生育環境におおいに影響されるってことだ」


「この子には、保護するものが必要だと思ったんだ。頼りなげで危うい。手折れば折れてしまいそうな弱さ。だから簡単に落とせると思った。僕の庇護下においてぐずぐずに甘やかして、前世の分までたっぷり愛情を注ごうと思ったのに」


「でたよ、ストーカー気質。そんなとこも雪深はちゃんとわかってたんだよ」


 アルになびかない、現在の自分を誇るように勘十郎は言った。


「そうだ、ちっとも落ちない。落ちないどころか、僕の打算なんかとっくにお見通しだったんだ」


 手が止まったままのアルは、りんごをむくよう、せかされた。


「彼女に僕は必要ない。必要としているのは僕だけ。こんなことはじめてだった」


「ちょっと待て、この話まだ続くのか。はやくりんご食いたいんだけど」


 アルは黙って聞けとばかりに、果物ナイフを持ったまま、勘十郎をにらむ。すごすごと観念したのか勘十郎は、ソファーに身を沈めた。


「妹でもよかった。雪深の傍にいられるのなら」


 マスクを通して発されたせつない声で答え、ようやくアルはりんごをむきだした。


「あの日、ホテルのラウンジにいる雪深をみつけた。兄が望む妹を必死に演じてた。すごく痛々しくて。助けにいきたかった」


「雪深はずっとあんな風に育ってきたんだよ。助けがほしいとかこれっぽっちも思ってないからな」


 アルの利己的な正義感にくぎをさす。


「その通りだ。ひとり前だけを向き兄の後ろ姿をじっと見ている姿は、他をよせつけない気高さにみちていた。この子の魂は、こんなことでは汚されない。その強さに触れたくて声をかけたのに、足が痛いって泣くんだ」


 勘十郎はキッチンまで来て、むかれたりんごがのる皿をリビングへはこび食べだした。


「うん、あっま。ようは好きで好きでどうしようもないってことだろ?」


「そんな俗な言葉で片付けないでくれ。ホテルに入ってから……」


 アルの話は延々終わらない。勘十郎は甘い蜜がたっぷり入ったりんごにむせそうになっていた。

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