第10話 願いを抱いて

 そうして、長いようで短い夏休みも、残り数日といったころ。

 その日はやってきた。


「――出来たぁっ!」

「できましたね」


 ようやくロケットが完成した。

 二人で完成したロケットを見つめて、笑みを交わした。


 そのロケットは、つぎはぎだらけで不格好だし、大層な機能を積んでいるわけでもない。しっかりと想定通りに飛んだとしても、高度は視認できるくらいだった。月には、どう足掻こうと、到底届くようなものじゃなかった。


 でも、あの子と二人で、初めて作り上げた〝夢〟の形だった。


「おぉ、ちゃんとロケットだよ、ヨミ」

「あたりまえでしょう。ロケットを作ったんですから」


 感動で震える私に、あの子はそっけないそぶりを見せていたけど、口元が緩んでいた。

 反応はそれぞれだったけど、思いは一つだった。

 私はあの子に渡されたペンを手に取って、つぎはぎの尾翼に文字を書いた。


 ――『Albireo-1』と。


 それはそのロケットの名前だ。


「それじゃ、この子は『アルビレオ一号』で決定!」

「本当に、私が決めてもよかったんですか?」


 尾翼の文字を撫でながら、問うてくるヨミに私は、もちろん、と頷いた。


「ヨミがいなかったら、このロケットは完成しなかったもん」

「まぁ、そうでしょうね」


 苦笑してたけど、あの子はまんざらでもない様子だったなぁ。

 あの子はあれで、わかりやすいからね。


「でも、なんでアルビレオなの?」

「……言わないとダメですか?」


 めずらしく、あの子が言い淀む。

 ひと月ほどの付き合いしかなかったけど、たぶん、本当にめずらしいことだよ。


「ダメってことはないけど、気にはなる」

「私が好きなんですよ。アルビレオ、きれいじゃないですか」

「そうだね。ヨミがめずらしく声を上げて感動してたくらいだもんね」

「……そういうことは言わなくていいんです」


 どこか拗ねたように、ふいと顔を逸らしたヨミ、可愛かったなぁ。




 二人で相談した結果、夏休みの最終日に、ロケットを飛ばすことになった。


 予報では快晴、風もなくて、絶好の打ち上げ日和だったから。夏休みもその日で終わりだったし、ちょうどいい区切りでもあった。もちろん、宿題は終わってないし、やる気もなかった。そんなことよりも、打ち上げるロケットのことで私の頭はいっぱいだったんだ。


 本当に、あの夏はずっとあの子と一緒だったなぁ。特に後半なんて、ほぼ一日中一緒にいたからね。


「ヨミ、発射台の角度はこんな感じでいいの?」

「……そうですね。もうちょっと上向きに。それからしっかりと台が固定できているか確認お願いします」

「了解であります!」


 なんておどけながら、発射台の調節をして。

 あの子が最後の調整のために、砂浜に広げたブルーシートの上で尾翼の角度とかの最終調整をしていた。その青色の目はとても真剣で、失敗などさせてたまるか、という意気込みが見て取れた。


 私は知ってる。


 あの子はさ、口では面倒だとか、突き放すようなことばかり言うけど、最後まで付き合ってくれるんだよ。面倒見がいいの。ううん。よすぎる、んだよ。

生粋のお人好し。お節介なくらい、裏では頑張ってくれてるの。

 

 私はそんなヨミが大好きなんだ。


「確認終了です」

「終わった? 飛ばせる?」

「ええ。その子を発射台にお願いします。あ、慎重に、あまり揺らさないように」

「……もう、わかってる」


 子ども扱いしてくることに拗ねたように頬を膨らませたら、ヨミはしょうがない、みたいに微笑んで。


 言われた通り、慎重に『アルビレオ一号』を発射台へとセットすると、ヨミがいくつかのコードを発射台とつないで離れた位置に座り込んだ。


 私もその隣に座って、二人で顔を合わせて頷いて。


「では、カウントを始めます。――カウント、五」


 あの子の、きれいな声で、カウントダウンが刻まれる。

 その声を聞きながら、一緒になってカウントを刻みながら、期待に、胸の奥が熱くなった。


「――よん!」


 私の声。


 カウントとともに、このひと夏のことが走馬灯のように駆け抜けた。

 出逢ったときは、月の女神のようだと思った。でも、その考えも、一緒に星空を見上げているうちになくなった。


「――三」


 ヨミの声。


 この声にも、すっかり慣れたものである。彼女の声はすっかり私の日常の一部になっていた。たったひと夏で、ひとりぼっちだったところから、変わったものである。


「――にぃ!」


 私の声。


 私の夢を笑わずに応援してくれた。それどころか、ここまで一緒にロケットを作る手伝いをしてくれた。きっと、彼女はそれを特別なことと思っていない。


 でも、私にとっては何よりもうれしいことだった。

 自然と、笑みが込み上げてくる。

 そうして、ゆっくりと息を吸う。


「――一」


 ヨミの声。


 すっかり聞きなれた、親友の声だ。

 この声を聞くだけで、なんでもできるような気がしてくる。すっと短くヨミも息を吸う。


 さぁ、声を合わせて。


「「――ゼロ。ファイア!」」


 二人の声がそろった瞬間。


 ――ボウッ。と『アルビレオ一号』の噴射口から火が吹き上がる。


 一瞬の停滞。そうして、白煙を上げながら青空へと飛び上がった。


 見上げた先、『アルビレオ一号』は青空を裂き、白煙の尾を引きながらどこまでも飛んでいく。青空の中、白く見える機体を追う私の瞳には、どうしてか、涙があふれてきた。次々と溢れてくる涙で滲む視界の中で、機体の輝きだけを追っていた。


 泣いている私の手を、温かい何かが握ってくれた。

 見なくてもわかった。ヨミの手だって。


 ヨミは私が泣き止むまでずっと、手をつないでいてくれていた。空にパラシュートの花が咲いて、ロケットが無事に地上へと帰還しても。

 私が泣き止むまで、ずっと。

 

 泣きながらさ、私は思ったんだ。

 きっと、人生で一番の日になるって。


 確信さえあった。人生を終えた今だからこそ、胸を張って言えるよ。


 ――最高の日だった、ってさ。


 大切な親友が隣にいて、ずっと抱えていた夢が叶うのだと信じることができたんだもん。そして、その瞬間の感動を大切な人と分かち合えた。

 あの日があったから、私は人生を歩んでこられた。


 泣きたいときでも、折れそうになっても、前を向いていられた。夢を、私の〝願い〟を大切にすることができたんだ。



 * * *



「――そうして、私が泣き止んだとき、そこにはもう、あの子はいなかった。手に残った温もりも、水筒から淹れた冷めかけの珈琲も、そこにはあったのに、あの子だけが、最初からいなかったみたいに、ね」


 そっと、手のひらを握りながら、ハルカは苦笑した。

 その横顔には、懐かしさと寂しさが綯い交ぜになったような、複雑な表情が浮かんでいる。


「いくら探しても、あの子の手がかりを見つけることはできなかった。でも、私の手元にはこのノートとアルビレオがちゃんと残っていたからさ、あの夏が夢じゃないんだ、って信じられた」


 ハルカは手にしたノートを思い出を辿るようにと、ぱらぱらとめくると頬を弛める。


「とっても寂しかったしさ、ひとりぼっちになったんだ、って、また泣きたくなった」


 でも、と。

 ハルカは柔らかな笑みを浮かべながら、首に下げたペンダントを握る。


「泣いちゃったらさ、あの子のことだから、心配して戻ってきちゃう気がしたの。だから、頑張って笑うことにしたんだ。あの子に、ヨミにこれ以上は心配をかけちゃダメ、ってね」


 にっと、ハルカは笑って見せる。

 その笑みが、沙夜にはそれまで彼女の見せてきた太陽のような、底抜けに明るいものでなく、明るいけれど、きれいな月のようなものに見えた。


 だからさ、とハルカは栗色の瞳を、言葉を探すようにさまよわせると、


「まぁ、要するに、私が沙夜ちゃんに言いたいのは、簡単に……ううん、つらくても、痛くても〝願い〟を捨てちゃだめだよ、ってことかな。……たはは、わかりにくくってごめんね。こういうのは苦手なんだよ」


 と、ハルカは頬を掻いた。

 ハルカの言葉に、沙夜は微かに目を伏せる。


 ――〝つらくても、痛くても〟

 

 その一言が、胸に刺さった。

 じくじくと、痛くないのだと言い聞かせて、目を逸らし続けていた胸の傷が、痛み始める。震えを隠すようにポケットへと忍ばせた指先が、封筒に触れる。


 その感触に、心の底に沈めたはずの、醜いばかりの感情が、微かにこぼれた。


「その夢は、どうなったの?」


 ――どうせ、叶えられたんでしょう。

 そんなことを考えてしまう自分に、沙夜は唇を噛んだ。

 ハルカはそんな沙夜に優しく目を細めると、


「……この手はさ、月には届かなかったよ」


 こともなげに、そう言った。

 え、と沙夜は弾かれたように俯けていた顔を上げた。すると、ハルカが優しく微笑んでいた。


「事故に遭って大怪我をしたり、病気で倒れちゃったりしてねぇ。指先が触れそうなところまでは行けたんだけど、この手は届かなかったんだ」


 困ったものだよ、とハルカは肩をすくめてみせる。

 その表情は夢を捨ててしまった人の、誤魔化すような笑みも、苦悶の表情もない。あるのはただ、優しい笑みばかりで。


「……なん、で?」


 沙夜には、わけがわからなかった。

 なんで、どうして。そんな言葉が、ぐるぐると頭の中を回るばかりで。ハルカが沙夜を見つめるわかったような表情が、神経を逆撫でる。


 膨れ上がった衝動に、ぎり、と沙夜は奥歯を噛みしめた。


「んー、そりゃ悔しかったし、苦しかった。たくさん泣いたし、死にたくもなったよ?」


 手のひらを青空に向けて、ハルカは指の隙間から覗いた太陽に目を細める。


「……何十回、何百回、それこそ何千何万と失敗してさ、あと少しのところで届きそうだなって思っても、指先にその存在を感じさせるだけで、この手は届かないんだ」


 ハルカは太陽にかざした手のひらを、ぎゅっと握ってみせる。

 けれど、胸の前で開いてみせたその手のひらには、何も掴めてはいなかった。


「つらいしさ、痛いしさ、そんな〝願い〟なんて、捨てたくなるよね」


 そう言いながらも、ハルカの表情は穏やかなままで。

 沙夜の中で膨れていた衝動が、弾けた。


「それならなんで、笑っていられるのよ!? つらいなら、痛いなら、捨ててもいいじゃない! なのに、なんでっ!」


 思わず叫んでしまった沙夜に、簡単なことだよ、とハルカは微笑んでみせる。


「それでもよかった、って思えたからだよ」


 ハルカの返答を沙夜は理解することができなくて、思考が止まる。


 ――つらい思いをして、痛い思いをして、それでも届かない。そんな結末なのに、よかった?

 

「別にさ、届かなくてもよかったんだよ。私はこの〝願い〟があったから、生きることができた。私なりにさ、生きることに意味を見つけられた。この手は月には届かなかったけど、私は生涯、この〝願い〟を諦めなかったんだって、胸を張れる」


 そう言って、ハルカは誇らしげな笑みを浮かべる。


「未練も、悔いも、たくさんあるけどさ、それでも、〝願い〟があったから、胸を張れる生涯を送れた。それって、素敵なことなんじゃないかな? そんな生涯を送った私だからさ、迷子な沙夜ちゃんに伝えられるのは、これだけなんだよ」


 ハルカは指を一本立てて、


「――〝願い〟を捨てちゃダメだよ。それは沙夜ちゃんにとって、大切なものなんだからね」


 人生の先輩との約束だぞ、とおどけたようにハルカは笑った。

 そんな彼女に、沙夜は浮かんだいくつもの言葉を飲み込んで、口をつぐんだ。


「それが大切なことだと、実感するなんてさ、すぐにはできないかもしれないけど、いつか胸を張れる日が来るよ」


 沙夜を見つめてくる、ハルカの栗色の目は、とても優しい色をしていた。

 

「…………怒鳴って、ごめんなさい」

「大丈夫だよ。そういうときもあるって。それにしても、美人さんが怒ると怖いねぇ。お姉さん、弱虫だから内心涙目だったよ」


 そう言って、泣き真似をするハルカに、沙夜は微かに笑みをこぼす。


「あなたは、とても強いよ」

「うれしいことを言ってくれるね。でも、そんなことはないんだよ。私だって、ヨミがいなかったら夢を諦めてさ、つまらない人生を送っていたと思うよ? まぁ、あの子のおかげだね」


 そうそう、とハルカは何かを思い出したように言った。


「沙夜ちゃんは覚えてるかな? どうして、私が欠片にしがみついてまで、この街に残っているのか」

「え、ええ。あなたが〝ハルカ〟としてやり残したことがあるって」


「そう。それはさ、あの子にちゃんとお礼を言うことなんだよ。あの夏、私と一緒に星を見てくれて、夢を応援してくれて、……そして、ロケットを作ってくれて」


 ハルカは胸のペンダントを握りしめて、


「ありがと、ってさ」


 と、はにかんだ。


「ハルカは、ヨミが大好きなのね」

「もちろん! 私の唯一の、大親友だもん!」


 にっと、ハルカは明るい笑みを浮かべながら、迷いなく言い切った。

 その表情は晴れ晴れと、満ち足りたものだった。


 ヨミは無表情だけど可愛いんだよ、とハルカが親友の自慢話を始めたので、頬を弛めながら沙夜が耳を傾けていると、背後から、おや、と意外そうな声がした。


 その声のした方へと沙夜が視線を向けると、ふわりと銀色の髪が揺れる。


「――出掛けているのは知っていましたけど、こんな場所にいらしていたのですか」

 



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