第2話 喫茶店

 賑やかな街の中心部から離れると、ゆったりとした落ち着いた空気が流れ始める。


 西洋の街並みを彷彿とさせる石畳の街路と、石造りの建築群は相変わらずであるけれど、ちらほらと散見される露店や店舗などから受ける雑多な印象は薄れて、統一された高級感のようなものが漂う店構えが増えてきた。

 そのために、何を売っている店なのか一目で判断できるようになっていた。


 中心部の雑多な街並みも嫌いではないけれど、沙夜にはこちらのほうが性に合っている。そのおかげか、少しばかり急いていた気持ちも落ち着いて、沙夜にこの街の景色を楽しむ余裕を持つことができるようになっていた。


「これは何かしら?」

「ん? それは〝寒い夜でも凍えない〟だな。そっちは〝温かな家庭〟」


 沙夜が露店に並べられていた毛布を指しながら訊くと、布屋の店主が教えてくれる。ちなみにこの店主は温厚そうなクマの姿をしていた。


 この街で売っているモノ――〝夢の欠片〟というらしい――の面白いところは、並んでいる『商品』だけを見ても、その願いの『価値』がわからないことだと、沙夜は街を散策してみて感じていた。


 たとえば、沙夜が指した暖かそうな毛布は、クマの店主によるとわかりやすく〝寒い夜でも凍えないように〟という願いが込められているらしい。この毛布を買えば次の生涯では寒い夜に凍えることはなくなるというわけだ。


 逆に、隣に並べられていたぼろぼろなマフラーは、縫い目も荒くてとても暖かそうにはとても見えない。けれど、そこには〝温かな家庭を築けますように〟という願いが込められており、このマフラーを買えば温かな家庭に恵まれるようなのである。


 この二つを見て、どちらに『価値』を感じるのかは個々の価値観によって変化するだろうけど、『商品』として存在するモノの一般的な価値と、そこに込められた願いの価値は必ずしも一致するわけではないようだ。


「そのマフラーは母親が娘のために慣れないながらも手作りしたものだ」


 じっと沙夜がマフラーを見つめていると、布屋の店主が教えてくれる。

 ――〝夢の欠片〟は誰かの思い出。

 いくつもの願いが誰かの思い出の形を借りて、具現したもの。

 

 一見するとぼろぼろなこのマフラーも、母親が慣れないながらも娘を想って作ったもの、という誰かの思い出を借りて〝温かな家庭〟という願いとしてこの街に存在する。


 それはとても素敵なことで、そうした『商品』に込められている願いを知ると沙夜は心が温かくなる気がした。

 ありがとう、と布屋の店主にお礼を言ってから、沙夜は喫茶店を探して街をゆく。


 そうして〝願いを叶えてくれる〟喫茶店の噂について尋ねたり、お店を冷かしたりしてみたけれど、有益な情報は何一つとして手に入ってはこなかった。

 ただ、この街の住民は口を揃えてこう言うのだ。


『もし困っているのなら、喫茶店に相談しに行ったらいい』


 それができたら苦労はしない、と沙夜が何度、肩を落としたことか。

 苦笑とともに空を見上げてみると、透き通った青空が広がっている。そんな空模様に、私の気も知らないで、と沙夜は眉を寄せながら、ため息を一つ。


 ちょっと休憩、と邪魔にならない路地裏へと移動すると、ずるずると石壁を背にしたまま座り込んだ。そうして、ぼんやりと能天気な青空を見上げながら、どうしたものかと途方に暮れる。

 

 穏やかな風と温かな日差しが心地よくて、沙夜はそっと目を瞑る。 

 ああ、このまま眠ったら帰れたりはしないだろうか、と。穏やかな空気に身を任せ、沙夜は遠くに聞こえる街の喧騒に耳を傾けた。


 がやがやと、誰かの話し声や笑い声、足音なども聴こえてくる。この遠くから聴こえてくる歌声は、途中で見かけた蛙の合唱団だろうか。とても透き通ったソプラノが聴こえてくる。

 蛙なのに、とそのきれいな歌声に苦笑をこぼした。

 

 そんな雑踏の音に交じって、は聞こえた。


『――どうぞ、こちらへ』


 え、と沙夜が驚いて目を丸くしていると、青が視界をよぎる。

 その青色は蝶だった。――青い、美しい羽の。


 青色の燐光を散らしながら、漂うように淡い青の羽を揺らして舞っている。きれい、と沙夜が手を伸ばすと、ひらりとその手を嫌がるように離れてしまうが、それでも遠くへと飛び去ってしまうこともない。


 そんな不思議な蝶を見つめていると、猫の露天商の言葉を思い出した。

 蝶を追うと――。

 

 思わず、沙夜の口元には苦笑が浮かんだ。 

 あの蝶が導いてくれる、だなんて。そんな、あまりにも馬鹿げた妄想に。


「まぁ、他に当てもないしね」


 沙夜が立ち上がると、待っていたというように、ひらりと大きく羽を翻して、蝶は路地の先へと飛んでゆく。

 その青色を追うように、沙夜も路地の先へと足を踏み入れた。


 どうやら蝶は、街の外周へと向かって飛んでいるようだった。

 それはいい。ただ、蝶が自由の飛ぶものだから、ついていくのに苦労した。


 小柄な沙夜が身を縮こまらせて、ようやく通ることのできるような細い路地などはまだよいほうで、猫が歩くような塀の上を進んだり、建物の屋根によじ登る羽目になったり。


 階段を上っていたと思ったらすぐ下り、右へと進んだと思ったらぐるりと回って同じところを一周する。


 一瞬、見失ったと焦ったときには花壇の花にとまっていて――遠慮なく休憩させてもらったが――と、無駄に大変な道や、遠回りと体力に自信のない沙夜にはつらいものがあった。


 そうして、四苦八苦しながら路地を抜けると、そこには一軒の喫茶店があった。

 石造建築ばかりの街の中ではめずらしい木造の建物。けれど、石畳の街の景色に溶け込むように、不思議と違和感を感じることがない。


 コーヒーカップにとまる蝶の意匠の鋳鉄された吊り看板と、店先に置かれた『本日のおすすめ』と几帳面な文字で書かれた立て看板。

 それらが、この建物が喫茶店であろうことを教えてくれるが、そのどこにも店名が書かれていなかった。


 だから、沙夜の探していた〝願いを叶えてくれる〟喫茶店なのかはわからない。

 しかし、気がつくと沙夜は喫茶店のドアに手をかけていた。

 からん、とドアベルが軽やかな音色を響かせる。

 

 店内に足を踏み入れると、ふと、微かに香る珈琲の匂い。


 木目の映える落ち着いた雰囲気の店内には、統一された黒檀のテーブルが整然と並び、壁に掛けられた標本箱の中で、美しい羽の蝶たちが妍を競っている。その様が、重厚さと厳格な美を思わせる。


 けれど、窓から差し込んだ陽光が柔らかく店内を照らすと、とたんに、温かみのある空間へと変化する。


 そんな店の雰囲気に合わせるように、レコードから流れるクラシックが外の喧騒を押しのけて、穏やかなときを刻み始めた。



「――いらっしゃいませ」



 沙夜が穏やかな空間に身を任せていると、店の奥に設えられたカウンターの先から店内の落ち着いた空気を壊さない程度の、少女の声。


 その声に惹かれるように視線を上げて、沙夜は思わず息を呑んだ。


 磨き抜かれた黒檀のカウンターの奥に。

 白黒の二色で統一された給仕服に身を包んだ、精緻な人形のように美しい少女が立っている。人形のように、


 にこりともせずに、硝子玉のような深い青色の瞳で沙夜を見つめてくる。

 会釈とともに緩やかに揺れる、白銀の長髪は透き通るようで、瞳の青色との対比が美しい。


 沙夜が自身の髪とは対になるような、その白銀色に見惚れていると、沙夜の頬をかすめるように羽ばたく、青い蝶。


 蝶は風に乗る綿毛のように店の奥に設えられたカウンターの先へと舞い込むと、少女の差し出した白い指先へと止まった。


 指先の蝶を見つめて、少女は微かに口元をほころばせる。


「案内、ありがとうございます」


 と、囁くようにして告げると、その羽と似た青色の瞳が細められる。


「……あなたが、願いを叶えてくれるの?」


 沙夜の口から、これまでの答え合わせをするように呟きがこぼれた。


 それなら何も不思議ではないのかもしれないと、沙夜は信じてしまいそうになる。

 しかし、沙夜の声にゆるりと向けられた紺碧の瞳には、感情を映さない、硝子玉のような無機質な色があるばかり。


「その問いに対する答えは、いいえ、です」


 と、少女は怜悧さを感じさせる声で告げる。

 そうして少女は指先に蝶を止めたままカウンターから出ると、壁に掛かっている標本箱へと緩やかに歩み寄る。


「私には、あなた方の〝願い〟を叶えるような力はありません。……万能の神でも、悪戯好きな妖精でもありませんからね」


 すっと、伸ばされた腕の先。

 不自然に空いていた標本箱の空間へと吸い込まれるように、指先に止まっていた蝶は羽ばたくと標本箱の中へと還ってゆく。


 お疲れ様です、と労わるように標本箱を撫でると、少女は沙夜へと振り向いた。


「この喫茶店の役目はあなた方が抱えている〝願い〟に迷い、立ち止まってしまったとき、その背中をそっと押してあげること。ですから、決して願いを叶えているわけではありません」


 ゆるりと、少女はかぶりを振る。

 それに、と呟きをこぼすと、その硝子玉のような瞳を伏せる。


「もし、あなた方の抱えるものが、他者に叶えられるようなものだとしたら、そんなものは本物ではありませんよ」


 容赦なく告げる。

 ……まぁ、私がやりたくないだけですが、と本音のようなものを添えて。


 そこまで言ってから、ああ、と何かを思い出したように、少女は居住まいを正した。


「これは失礼を。自己紹介がまだでしたね」


 そっと片足を引き、つまむようにスカートを持ち上げる。

 そうして相変わらず、にこりともせずに、けれど完璧な所作を以って。

 ――お辞儀カーテシーを一つ。



「この喫茶店の店主代理をしております。自動人形【Humanoid Robot Model – Control 0043型】。――登録呼称、ヨミと申します」


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